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手が届きそうで、届かなくて。
周りが期待しなくなったら尚更、楽になれるはずの気持ちは押しつぶされそうになる。
例え「同じ」になれなくても、「わたし」を見ていてほしい。
「愛美さんは、素敵な人です」
北原が微笑むと、愛美先輩の表情がふと和らいだ。
「でも、あなたが本当に好きな人は俺じゃない」
「……そんなっ、そんなことないわよ。私は伊吹が」
「愛美さんも、アノヒトにこれ以上縛られる必要なんてないんですよ」
アノヒト、たぶん、あやのさんのことだろうと、漠然と思う。
言われた愛美先輩は、うつむき、そして、眉根を寄せて顔を上げた。
「伊吹、そんな意地悪なこと言わないでよ」
必死に笑おうとしてる口元は、閉じ込めきれない感情に引っ張られ、歪んだ表情を作ってしまう。
首をかしげる仕草も、どこか無理があって苦しい。
人差し指に、ウェーブがかった髪の毛先をクルクルと巻きつけて、下から北原をのぞき込む。
「あやのと私、何が違うのよ。何がどう違うの? 私のどこがダメなのよ」
押し殺した声、こみ上げる感情を無理に押さえ込んでいる顔。
潤む瞳は好きな人を見つめるからじゃなく、悲しくて涙が溢れそうだから。
「愛美さんはアノヒトとは何もかも、違うんです。だけど、ダメなんかじゃない」
「どうして……」
「それに、もし仮に、愛美さんが本当にまるっきりアノヒトと同じだとしたら、俺はまた来年振られることになる。そんなの御免です」
「な……」
北原が微笑んで、愛美先輩は言葉をつまらせた。
優しく見える北原の表情は、どこか淋しそうで。
その瞳の向こうにあやのさんが映っているのかもしれない。
私も胸がつまりそうで、唇をかみしめた。
「愛美さんにアノヒトの『おさがり』なんて似合いませんよ」
そんなことを言う北原に、愛美先輩は口を一文字にきゅっと結んだ。
「自然に、愛美先輩自身が自分の魅力に気がついたら、もっと素敵な女性になると思います」
「……だったら、こんな私でも、好きになってくれないの? そんなに褒めてくれるなら、私はおさがりだってかまわない。こんな知らない子に伊吹を取られるなんて絶対にイヤよ」
北原に向けられていたはずの視線が、私を貫くように睨みつけた。
ただぼんやりとふたりのやり取りを見ているだけだった私は、閉じていたはずの唇を開いて引きつって笑ってみる。
いや! ここ笑う場所じゃないよね……けど、じゃあ、一体どうすればいいのよ!
真顔に戻して、北原に助けを求めるように視線を送ってみる。
「それって、裏を返せば、アノヒトが帰ってくるまで、俺のこと見張ってるってことじゃないんですか?」
私の視線に気付いたのか、それとも全く気付いてなんかないのかわからないけど、表情を曇らせた北原が愛美先輩に言う。
「そんなんじゃないって言ってるでしょ!」
愛美先輩が顔を赤くして叫んだ。
「俺は、あやのとは別れたし、この先誰を好きになろうと、誰の指図も受けるつもりはありません。確かに、愛美さんに何かあったらお願いするとは言われましたけど、今の愛美さんの気持ちを受け止めることが、それに相当するとは思えない。何度も言ったとおり、俺はあなたと付き合うつもりはないです」
淡々と話を続ける北原の瞳が、いつもよりずっと冷酷なものに変わっていた。
今までずっと、遠回しに優しく話していたのが嘘みたいで、逆に愛美先輩が可愛そうに見えた。
唇を噛んだ部分のグロスが滲み、マスカラで装飾された大きな瞳からは透明の滴がひとつこぼれた。
その涙を見ても、北原の顔色は変わらない。
そして、愛美先輩はもう一度私を睨むと何も言わないまま、背を向け小走りでドアへと向かった。
「言いすぎ、じゃない?」
思わず小さな声で北原に言った。
返事のかわりに、大きな溜息が聞こえる。
「俺は、妥協したり、情にながされたりして誰かを好きになるなんてこと、できないんだよ」
「……ま、それは…そうだけど」
愛美先輩がドアを開けようとしたとき、そのトビラは、ゆっくりと内側から開けられた。
扉の向こうの闇とはうらはらに明るい笑い声が聞こえて、愛美先輩もその奥に目を向けたまま、立ち止まっていた。
「あら、梅宮妹も一緒だったの?」
聞き慣れたノーテンキな声は、愛美先輩の涙を見たのか見ないのか、この場にまったくそぐわない白々しさで現れた。
「ほーら、いたいた」
白衣に包まれたミラクルボディ、ホリちゃんだ。
そして。
その後ろにある姿に、愛美先輩も驚いている。
「今は屋上も自由に上がれるの?」
ホリちゃんと全く違う声、柔らかくて、だけど良く透った優しい声に、北原が反応したのがわかる。
私もまた、彼女のほうに引き寄せられるように視線を向けた。
「あや、の……」
彼女の名前を呟いたまま、北原の口は何か言おうとしてるのか、それとも言葉が見つからないのか、開いたり閉じたりを繰り返す。
北原の愕然とした表情から、たぶん、あやのさんが帰ってきたことを知らなかっただろうことがうかがえた。
ここまで、北原がうろたえる姿を、動揺する表情を初めて見た。
その身体に淡い光のベールでも纏っているようなあやのさんは、ふたりの間にまるで何もなかったかのように、北原に微笑みかける。
「久しぶりね、伊吹」
微笑みかけられてるのに、北原は笑い返そうとしなかった。
ゆっくりと近づいてくるあやのさんを、ただ目で追うだけで。
あやのさんは北原のそばにいる私に目を向けて、あれ、と首をかしげる。
「保健室ではごめんね。体調、大丈夫?」
「あ……はい、もう大丈夫です」
あぁ、もうダメだ。
こんなに眩しいあやのさんがいるのに、北原が私のことを気にかけてるなんて、勘違いも甚だしい。
馬鹿みたいって思うけど、それでも上手く頭の中を切り替えられない。
「しおり、悪いけど、三人で話したいことがあるの。ちょっといいかしら?」
「えっ?」
「だから、伊吹とあやのと私と、話があるの」
「あ、あぁ、はい……」
いつもと変わらないホリちゃんにそう言われて、私はここを離れることにした。
「桜井」
北原に呼び止められて、振り返る。
そこに、いつもの冷静なヤツはいない。
「話、明日聞くから」
そう言ってくれるけど、私はどんな表情をしていいかわからなくて。
もう、私が謝ることとか、そんなことどうでもいい気がして。
私は強引に頬を引き上げて見せてから、彼らに背を向けた。