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Don't Touch!  作者: 鳴海 葵
番外編
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夏・特別編 後編

 彼の後ろについて理科実験室に入ると、その窓の向こうには、フィールドを駆け抜ける陸上部員たちの姿が見えた。

 開けられたままのドアから差し込む赤い陽を背に、部員たちを見つめる彼の表情は、さっきまでの優しい色を失ってしまった。

 睨みつける視線を、横にきた私に向けると、また苦笑する。


「噂って怖いよな。俺、もう死んだことになってるなんてさ」


 机に腰をかけると、天井を仰ぐ。


「俺、去年事故に遭ったんだ。ろくに授業も出ないでリハビリしながら、インターハイ目指してたんだけど、やっぱ間に合わなかった。学校にあんまり来てなかったし、夏休みに入って部も辞めたら、俺はユーレイになってたってわけ」


 右足の膝を指差し、ゆっくりと曲げたり伸ばしたりする。

 こうして見るぶんには、満足に動く膝であり、足であり。

 でも、単純なようで繊細にできているヒトのカラダは、壊れた機械みたいに修理することは不可能だし、修理された状態に慣れるまで、時間がかかるに違いない。

 そして、その微妙な感覚のズレは、操る本人でさえ騙されてしまうほど正常に戻ったように感じるだろう。


「周りの人間はまた来年があるなんて言うけど、この膝が今までどおり動かないのは、俺が一番良くわかってる。このまま練習を続ければ、将来歩けなくなるって医者にも言われた」

「そんな……」

「そんなもん。今この瞬間の勝利に酔うために、将来長い年月、動けない足と付き合うかどうか……でも正直、歩けなくなったっていいと思ったんだ」


 動きを止めた膝を、彼は責めるような瞳で見つめる。


「けど、なんていうか、情けないけど、どこかでブレーキかける自分がいて。ただがむしゃらに走ることができなくなって。もう、どうしようもなくてさ。マジで、死んでユーレイになったほうがマシだったかもしれない」


 顔を上げた彼の先には、懸命に地面を蹴り全身に風を受けながら、ゴールを目指し疾走する姿がある。

 羽根をもがれた鳥が、飛べない空を見上げるように、彼の瞳にも、目の前に広がるフィールドが恨めしく映っているんだろう。


「足を失う勇気も、死ぬ勇気もない。俺は逃げて地元に帰るよ」

「えっ……」

「こんな金のかかる高校に来させてもらったのも、この足のおかげ。それを失ったら、俺がココにいる意味なんてない。だから、地元の高校に編入することにしたんだ。なのに、いつもココに来て、あいつらの姿見て……本当は悔しくてたまんなくて。頭ではわかってるんだ、『わからなきゃいけない』ってわかってる」

「でも、そんな簡単に諦められないですよ、ね……?」


 その言葉を言っていいのか迷ったけれど、ためらいながらも私は聞いた。


「うん。……けど、もう、しょーがねぇ」


 溜息混じりの、自分を納得させるための言葉は、たぶん、心の意思とはうらはらで。

 少し潤んでる彼の目は、以前、フィールドを駆け抜けていた頃の自分を思い出してるんだろうかと思う。

 うつむき、気の抜けたように笑うと、彼はポケットから何かを取り出した。


「これ、ココの鍵。悪いけど、きみから生物の倉田に返してくれない?」

「え?」

「俺が、そこの廊下でうろついて陸上部の姿見てたら、鍵貸してくれてさ。好きなだけ眺めてろって。こんな実験室の鍵、容易く生徒に貸し出すほうもどうかと思うけど……おかげで俺がこの学校に存在した足跡も残せたし、ね」

「足跡?」

「そ、『理科実験室をさまよう、陸上部員のユーレイ』ってね」


 差し出された鍵を受け取ると、彼はもう一度、夢破れた舞台を見つめて、そこに背を向けた。


「あぁ、ユーレイが俺だってことは黙っててくれよ。んで、もっと強烈な話にして広めてくれたら、供養になるからさ」


 思わず笑って、わかりましたと答えた。

 新しく歩き出す背中は、まだ古傷を負ったままで。

 私に言えることなんて何もなくて、ただ彼の背中を見送った。

 教室を出る間際、再び彼はこっちを振り返る。


「こんな話してごめん。聞いてくれて、ありがと」

「……いえ」


 死まで考えるほどの絶望を、私は知らない。

 私たちは今この一瞬が全てで、大人が語る未来の話なんて、わかるようで、本当は想像がつかない。

 そんな中で夢に背を向ける決断をした彼の痛みは、相当だったに違いないと思う。

 彼に比べて私はどうだろう。

 恵まれた環境で勉強が嫌いで……なんて、彼からしてみれば、すごくワガママに見えるのかもしれない。

 私も教室から出て、鍵をかける。

 遠くなる彼の背中と、そして、彼とすれ違い、こっちに向かってくるもうひとつの影に気がついた。


「……北原?」


 たぶん、ノートを見たんだろう。

 何よ、もっと早く来てくれればよかったのに。

 でも待って、あの馬鹿みたいに驚く姿を見られなかったから、それはそれで良かったのかも。


「鉢植えは?」

「まだ」

「何やってんだよ」

「ユーレイと話してた」

「は?」


 さっきの彼とは大違い、見下す冷たい瞳で睨まれた私は、生物準備室の鍵を開けながら北原を睨み返す。


「北原って、ユーレイの存在信じる?」

「べつに」

「じゃあ、この理科実験室に最近出るっていう話、聞いた?」

「知らない」


 つまんない。

 そう思った私は、ユーレイの噂話のこと、そして今その彼と理科実験室で話をしたことを説明した。


「面白いでしょ」

「まぁ、世の怪談話の類いなんて、そんなもんだろ」

「でも……なんだか切なかったな」


 準備室に入ると、先生の机の上に、小さな鉢植えが置かれていた。

 幾重にも重なった白い花びらを持つ5センチくらいの花が、たったひとつだけ咲いている。


「幽霊が本当に存在するなら、会ってみたいよ」

「えっ」


 やっぱり北原ってどこか変。

 北原に鉢植えを持ってもらい、私たちは準備室を出た。


「亡くなってしまった愛する人や家族に会えるなら、たとえ幽霊だったとしても会いたいって思うんじゃないか」

「あ……そう、か」


 そういう考え方もあったんだ。

 幽霊ってどうしても怖いとか、気持ち悪いとか思っちゃうけど、そればかりじゃない。

 死んだおじいちゃんに会えるなら、私も会ってみたい。

 これだけ大きくなったよとか、お姉ちゃんはもうお母さんになったんだよ、とか、おばあちゃんは相変わらず元気に社交ダンスしてるとか……話したいことは山ほどある。


「大体、恐怖心に駆られるのは、後ろめたいことのあるヤツだろ」

「そう、だよね」


 やっぱり、あの姿、コイツに見られなくて良かった。

 後ろめたいことなんてないし、実際にユーレイに会ったことはないし、存在だって信じてないけど、怖いものは怖い。

 北原の言うとおり、怪談話なんてきっと今日の彼みたいな行動が根源で。

 それをみんなが面白おかしく作り上げたんだろう。


「けど、桜井が触れた人間の心が読めるなんて、嘘みたいな能力が存在するくらいだから、幽霊が存在したっておかしくないよな」

「……私がユーレイレベルってこと?」

「めずらしく正解」

「なっ……何よ」

「ま、それだけ貴重だってことじゃないのか」


 それって、どう捉えたらいいのよ……!?

 私を見下ろす北原が、口角だけ上げてにやりといやらしく笑う。

 この笑い方、ホント馬鹿にされてる気がして嫌。

 あぁ、北原も今日の彼みたいに、もうちょっと優しくて、笑顔が素敵だったらな。

 ……なんて、何考えてんの、私!?


「有り得ない」

「何が」

「何でもないっ」


 ぶるぶる首を振って顔を上げると、向こうから白衣の倉田先生が走ってくるのが見えた。


「いやぁ、ごめんごめん、余計な手間取らせちゃったね」


 ほんのちょっと走っただけで、息を切らしてきた先生は、いつもの爽やかな笑顔を私にくれる。

 おかげでさっきの嫌な妄想も吹き飛んだ。

 私はポケットの中にいれたままの生物準備室の鍵と、預かった理科実験室の鍵を先生に差し出した。


「先生、これ」

「あ、ありがとう……ん?」

「理科実験室の鍵、元陸上部の人から先生に返してくれって頼まれたんです」


 倉田先生って、変に生徒に気を使うところがあるけど、そういうちょっと不器用な優しさも好きだ。


「……桜井さん」

「はい?」


 見上げると、いつもより真面目な、いや、どっちかというと深刻な顔をして倉田先生が私を見る。

 え、どうして。


「どうしてこれ、桜井さんが?」

「どうしてって、だから、元陸上部の人が、先生から貸してもらってたって……」

「嘘じゃ、ないよね?」

「……え」


 嫌だ、何、この展開。


「夏休みに入ってから、理科実験室と屋上の鍵がなくなって職員室ではちょっと騒ぎになってたんだ」


 先生は屋上の鍵は最近返されたんだけど、と付け加える。

 私たちは、屋上の鍵を盗んだ犯人が川島くんだってことはわかってるけど。

 けど!


「だって、先生が貸してくれたって、あの人言ってましたよ」


 私は半ばムキになって説明する。

 でも、倉田先生は嘘とか冗談とか、そういうことを言える人じゃない。


「ほら、北原だってさっきすれ違ったでしょ」

「え?」

「あの、日に焼けて背の高い……」

「……俺、桜井に会うまで誰ともすれ違わなかったけど」


 えっ……えぇっ……えぇぇぇぇっ!?

 私は事態を把握できなくて、っていうか、納得したくなくて、倉田先生と北原を交互に見る。

 ひきつる頬を強引に吊り上げて、無理に笑ってみる。


「や、やだなぁ、先生も北原も冗談言わないでよ」


 空しい馬鹿っぽい私の台詞がふわふわ浮いてる。

 倉田先生と北原が目を合わせて何かを確信したように、ふたりでこっちを向く。

 その笑ってない顔に、私の背筋がぞっとした。


「まだ夏だからね、そういう不思議なこともあるよ」


 苦笑して、そんな余計なことを言ってくれる倉田先生に、私の身体は凍りついた。

 い、い、いやぁーっ!!!!!


 後日、『二年の桜井しおりが理科実験室のユーレイに呪われている』という嬉しくない噂が学校中に広まったのは、いうまでもない。


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