epilogue-2
「うぉりゃっ、くそっ!」
川島くんの腕の中を鮮やかに、縫うようにすり抜けていく蝶。
舞うような羽の動きに、つい見とれてしまう。
こんなふうに、じっくりと蝶を見つめるなんて、本当に幼かった頃から、もう忘れていた。
「え……えぇっ!」
だけど、その蝶の動きに、私は思わず声を上げた。
真っ直ぐに、こっちに向かってくるんだもん!!
確かに、大好きな倉田先生が大切にしていたこの子が羽化したんだし、それはきっと先生も喜ぶから私も嬉しい。
でも、でも!!
だから、この羽は好きだけど、胴体は、胴体は……。
「ひぃぃっ……」
このままだと顔にぶつかってきそうで、思わず出た左手、私のその人差し指に、蝶は止まった。
その幼虫の時とあまり変わらないだろうと思える胴体部分を見て、全身足元から頭のてっぺんまで鳥肌が立つ。
「桜井、蝶嫌いなのか?」
私の様子に、横にいた北原が言う。
反応したいのだけど、動くことすら出来ない私は、眼球だけ北原のほうを向けた。
「う、ん」
泣きそう。
北原でも、川島くんでもいいから、とにかくこの蝶を捕まえて!
「おまえって、本当に……」
そう言って、北原が笑う。
どうせ、馬鹿だなとか言うんでしょ!
そんなことわかってるから、もういいってば。
「桜井、この蝶に、まだ飛ぶなよって言い聞かせろ。このまま外に行って放してやろう」
「!」
意地悪。
嫌いだって言ってるのに……。
私たちのやり取りを不思議そうに見る川島くんも一緒に、三人で中庭を出て、廊下を渡り、温室前までやってきた。
植物に語りかける時と同じように、指先から私の意思が伝わるよう心の中で話しかけてみたら、その間中、蝶は私の指先で、時々ゆっくり羽を動かしながら留まっていた。
「なぁ、しおりって、昆虫使い?」
「へ?」
「だって、こんなに大人しくしてるなんて、有り得ないだろ」
もちろん私の能力については、香奈同様、川島くんにも内緒。
疑いの眼差しで首をかしげた川島くんが、蝶に手を伸ばした時だった。
「あっ」
ひらり、蝶が舞った。
自由の、空へ。
「きれい……」
ゆらゆら頼りないけれど、赤い空へ旅立つアゲハ蝶。
生まれてきた意味を考える時間などない、はかない季節を過ごすために。
私たちも、学校という名の箱庭から、いずれ旅立っていく。
先の見えない、不透明な自由の世界へ。
「ところでさ」
ちょっとセンチメンタル&ロマンチックな幻想に浸っていたのに、川島くんの声がそれを破る。
「おまえらって、付き合ってんの?」
「は!?」
大声を出してしまった私は、すぐさま首を左右に振る。
「有り得ない、有り得ない、有り得ない」
だから、どうしてみんなそんなふうに思うのよっ。
川島くんの疑いの目が北原の方を向くと、私もつられるように北原を見た。
「そんなふうに否定されるのは、残念だな」
えっ!? ちょっと、何よそれ。
「そうやって、北原が曖昧ではっきり言わないから、みんな誤解するんじゃないっ」
私が必死で訴えても、北原は表情を変えないまま、こっちに視線も合わせない。
「ふうん。じゃあ、しおり、俺と付き合えよ」
「……な、な、な、何!?」
立てた親指を自分に向けて、川島くんなりのキメ顔で私にとんでもないことを言ってくれる。
一体何がどーなってんの!
突然のことに、ぽかんと口を開けたまま、私はただ首をかしげた。
「冗談はこれくらいにして、川島、戻るぞ」
川島くんより頭ひとつ分背の高い北原が、川島くんの襟元をつまむように掴むと、シャツの首が絞まった川島くんは白い歯を食いしばって見せた。
身体を翻すと、得意の三白眼で北原を睨む。
「死ぬだろッ!」
「よく考えろよ」
「なんだよ。俺は本気だ」
「川島のレベルに、桜井がついていけると思うか?」
「………」
「馬鹿にレベルを合わせるのは、けっこう大変だぞ」
「……ああ、そうか」
「疲れる恋愛は長続きしないと俺は思うけど、それでもいいなら、応援するよ」
「………」
そんな会話のあと、ふたり揃って私を見る。
「何なのよっ! もう、帰るっ!!」
屈辱っ!
もう、ふたりとも、いつか覚えてなさいよ。
……って、私がふたりに対抗できるかわかんないし、対抗したところで彼らに屈辱を与えるようなことができるなんて、考えられないけど。
どこまでが冗談なのかわからない北原は、やっぱり私をみて笑ってるし、川島くんは北原に言われたことを真に受けて考えてるし。
私はふたりからぷいと顔を背け、カバンを置いたままの教室へ向かう。
けなされてばかりは、とても楽しいなんて言えないし、頭のレベルが違いすぎて違和感もあるけど。
それでも、互いを探りあいながら、表面ではイイコトしか言い合えないクラスメイトといるより、ずっと気持ちがいい。
私はふたりから見えなくなったところで、ちょっとだけ笑った。
◆Lesson2 完結 Lesson3へつづく◆