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「もう、大丈夫だよ」
語りかけると、触れている葉から返事をするように、指先を伝い粒子が流れ込んでくる。
このコが見ていた景色の中で、先生は私の知らない顔で、彼女に微笑んでいた。
「……なんで」
葉から離した指先を見つめ、私はその手を握り締めた。
どうして、こんなこと、しちゃったんだろう。
どうしようもなくて、見てはいけないものを見てしまった。
自分の感情だけで目一杯なのに、それ以上に、先生や彼女の意識が入り混じって、心が壊れてしまいそう。
何度拭っても、大切なものを奪われた子供みたいに涙が止まらない。
不意に近づいてきた足音に、泣き顔を上げた。
「………」
何か言おうとしたけど、嗚咽が邪魔して言葉にならない。
こんな顔を見られたくなくて、私は北原に背を向けた。
「こな、い…でよ……」
「桜井」
「お願い…ほっといてよ」
涙を止めたい意思とうらはらに、とめどなく溢れ続ける。
好きな人が、愛してる人を見つめる瞳を知ってしまったから。
ふたりがどれだけ愛し合っていたか、見てしまったから。
美しいその女性が今、苦しんでいて、そばにいる彼もまた、苦しんでいるから。
だれも悪くないのに、何かを憎んでしまいそうになる自分自身が嫌い。
だけど、そうしなきゃ耐えられなくて、悲しくて、苦しくて。
私は力が抜けて、その場に崩れるように座り込んで泣き続けた。
「桜井」
横に、北原がしゃがんだのが見えた。
次の瞬間、ぽんぽん、と優しく頭を撫でられる。
「ほっとけないよ」
意外な行動と言葉に、私は涙を拭いてから顔を上げた。
いつもより、ずっと優しい北原に私は戸惑って息を飲む。
どういう、こと?
「携帯渡してもらうまでは」
「……あ、そ」
ちょっとでも甘い期待をした私が馬鹿でした。
なんとなく、一気にいろんなものが冷めていく気がする。
私はわざとらしく音をたてて鼻を啜った。
現実に引き戻されても尚、私の中に残っている感覚が、植物が観た映像をフラッシュバックさせる。
「私、最低だね」
「ああ、最低だね」
「……慰めるとか、ないの」
「慰めて欲しいのか」
「べ、別に求めてないけど」
「じゃあ、桜井は最低だ」
「……意地悪」
最後は小さくつぶやいた。
慰めて欲しいなんて言わないけど、追い討ちをかけて欲しいとも言ってない。
本当に嫌な男。
「勝手にまた覗き見して落ち込んでるんだろ」
図星。
ますます私は暗い谷底に突き落とされる。
「でも、もし俺が桜井みたいに他人の心を覗けるなら、同じ事をするかもしれないな」
「え……」
「で、同じように落ち込む」
「……想像できない」
さっきみたいに本人に痛いオチをつけられる前に、きっぱりつっこんでおく。
当然、幾分和らいでいた表情が、瞬時で冷たい色に変わり、溜息をつきながら睨まれた。
まるでにらめっこしてるみたいになった私たちの勝負は……私の勝ち?
北原が微笑んで、私から目をそらした。
ふんっ、初めてこの睨み合いに勝てたわ。
だけど、何か違う。北原は、私の顔をちらちら見ながら、何度も笑う。
「鼻水も出てるし、ヒドイ顔だな」
「なっ!」
慌てて両手で顔を覆うけど、恥ずかしいやら悔しいやらで、どんどん顔が熱くなる。
「もう見られたんだから、隠したって意味ないだろ」
「ウルサイ! 早くどっか行ってよ!!」
いつもの冷酷な瞳に戻った北原が、淡々と言う。
あぁ、もう! 最悪、この男。
加えて最低な私。もう嫌だ。
違う意味で泣きたくなってきたよ。
「ほら」
どこからともなく、北原はポケットティッシュを取り出すと、私に差し出してくれる。
「………」
コイツに対して疑り深くなった私は、それを素直に受け取ることができない。
きっと、何のメリットもなく、こんな優しいことをするようなヤツじゃない。
手を伸ばそうとすると、思っていたとおり、取り上げられた。
「携帯電話と交換だ」
「ぐ……」
私は仕方なく、片手で鼻から下を隠したまま、ポケットを探る。
「その手で鼻水拭いてないだろうな」
「拭いてないっ!」
さっさと携帯を取り、差し出すと、北原の手からティッシュを奪い取り、背を向けて鼻をかんだ。
背後でピコピコと操作する音がする。
ええい、もうどうにでもなれ。
香奈には謝ればいいし、写真なんか、またこっそり撮る機会があるだろう。
とにかく、とにかく、とにかく! 一刻も早く、北原のそばから離れたい。
鼻をかみ終わって、涙も拭いたし、大きく深呼吸して、帰ろう。
ケータイを返してもらおうと振り返ったときだった。
ぴろろん。
私に向けられたケータイが、またしてもマヌケな音をたてた。
……へ? なんで。
ディスプレイを眺めながら操作する北原が、片方の口角だけ上げて笑った。
「泣き顔、可愛く撮れてるよ」
「ちょ、ちょっと! やめてよ、消してよね」
取ろうとすると、北原はケータイを持った手を私の手が届かない、高い所まで上げる。
「これ、俺から彼女に返すよ」
「へ!? って、誰かわかってるの?」
「相沢香奈だろ」
げ、どうしてバレてるの。
ひるんだ私を一瞥すると、操作を終えて、北原は香奈のケータイをズボンのポケットに納めた。
「俺は誰かさんみたいな能力を持ってない分、敏感なんだよ」
そう言うと、私に背を向けて歩き出すから、慌てて私も後を追いかけた。
「そんな写真、香奈に誤解されるわよ」
北原だって私とのことを勘違いされるのは嫌なはずだ。
「べつに、俺はかまわないけど」
「えっ?」
「じゃあな。川島のこと、考えておけよ」
予想してなかった答えに立ち止まる私をよそに、北原は明かりが点きはじめた、特別講習が行われている別棟へとゆっくり走り出した。
そうだ、すっかり忘れそうになっていたけど、川島くんのこと、考えなくちゃ。
失恋したって、落ち込んでる場合じゃない。
北原にいじられて、へこんでる場合じゃない。
私は握り締めていたティッシュを、香奈のケータイが入っていたポケットにしまうと、長く伸びた自分の影を追いかけるように、教室へと歩き出した。




