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「王子サマって、どうして倉田先生が王子サマなのよ」
あはは、と笑って返したものの、たぶん、ものすごくわざとらしかったと思う。
こっちを向いてる北原の視線をそむけるように、私は体ごと向きを変えた。
いくら鈍い私だって、北原の言い方がどんなにまわりくどくたって、これくらい理解できる。
「夏休み中だし、倉田先生は担当している講習もないから、しばらくは彼女のそばについていたいって」
私の質問に答えず、北原は決定的なことを言う。
「そう、なんだ」
感情を押し殺した声は低く、たどたどしくて。
私は器用に動揺を隠すことができない。
先生が病気じゃなくて良かった、なんてふうには思えなくて。
彼女が病気でかわいそうとか、そういうことも無視して、私のテンションはひたすら下降する。
「大変だね」
なんとなく口から出た言葉は、感情のこもってない社交辞令。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
だけど、私にとって、先生の存在が癒しであることに変わりない。
これからも、変わらないはずだ。
病室のベッドに座っている、綺麗で可憐な彼女に微笑みかける先生の顔が浮かんでは消える。
そうしてるうちに、どこからともなく、怒りにも似た感情がこみ上げてきた。
「この前くれたチョコレートのお礼に、情報収集してやったよ」
「……それはそれは。わざわざありがとうございましたっ」
最っ低。
確かに、私と先生の貴重な時間を潰してくれた北原に、そのとき持っていた超苦いカカオ99%チョコレートを押し付けたけど。
だけど。
こんな話をされるくらいなら、あのチョコレート10枚食べるほうがマシだ。
私は北原を睨んで立ち上がる。
こんな北原と一緒にいたってイライラするだけだ。
もう社交辞令はもちろん、口を開きたくない。
「……あ」
帰ろうと足を進めてから、私はスカートのポケットの中で揺れている香奈の携帯電話を思い出した。
立ち止まり振り返って、私は北原にケータイを向けた。
相手の許可なんかとるもんか。
無礼を承知で私は北原の名前を呼んだ。
ふと顔をあげてこっちを向いた瞬間、シャッター機能のボタンを押すと、この場にそぐわないマヌケな機械音がぴろろんと鳴った。
保存してディスプレイが被写体に戻ると、北原の表情が不機嫌になっていく様がありありと見える。
「どういうつもりだ」
「写真撮っただけよ」
「勝手だな」
「いいじゃない、あなたのこと大好きな女の子から頼まれたんだから」
怒りの真っ黒いオーラを発しながら立ち上がって向かってくる北原に、私は慌てて携帯電話を折りたたむと、ポケットにつっこんだ。
普段の非情な目つきには慣れたけど、本気で睨まれるとやっぱりまだ怖い。
「出せよ」
「い、嫌よ。それにこれ、彼女のケータイだし」
「関係ないだろ」
面と向かって至近距離で凄まれると、危うく簡単にケータイを渡したくなってしまうけど、ここは我慢だ。
背を向けて走って逃げればOK!
さぁ、私、早く逃げろ。
だけど、私はメデューサに睨まれたみたいに、体が固まって動かない。
「誰かを使って何かを手に入れようとする女に興味ない。持ち主に伝えとけ」
「そんなっ……女の子は臆病なんだから」
「笑わせるな」
って、笑ってないし!
私も笑えないし……。
「き、北原くん、どうしたの、そんな怖い顔して。桜井さんも、何かあったの?」
その声に呪いを解かれたのか、私は自由になった体を声のするほうに向けた。
そこには、血相を変えた倉田先生が、眉根を寄せて私と北原を交互に見ながら立っていた。
「……あ」
いつもとは明らかに違う感情がこみ上げて、どうしたらいいのかわからなくなる。
先生に会えたんだから、嬉しいはずなのに、楽しくなれるはずなのに。
「桜井さんに勝手に写真を撮られたので、消去をお願いしたんですが、きいてもらえないんです」
「え、そうなの……それは……」
少し考えてから、先生はにっこり笑った。
「それは……ほら、好きな人の写真ってほしくなるでしょ。だから、許してあげたら?」
「えっ!!」
先生、私が北原のことを好きだって誤解してる?
違うかな、違うよね。
「やり方が卑怯なので、許せません」
「うーん、不器用な女性ほど、可愛らしいと思うよ。それに、ふたりはお似合いだし」
えーっ!?
しおりは999のダメージをうけた。
しおりは死んでしまった。
十字架が描かれた棺桶を引っ張って教会に連れて行ってくれる仲間はいない。
もう、立ち直れないよ。
「先生、誤解しないで下さい。彼女が俺のことを好きだっていうわけじゃないんです」
「そっか。うん、恋って難しいよね」
わずかな光のような北原の反論も、先生には伝わったのか。
誤解されたくない私たちをよそに、倉田先生は納得した顔で、うんと頷く。
いや、だから、違うの、先生!
必死になって私も反論することができたのに、何か言おうとして私は止めた。
なんとなく、何も言えなくなってしまった。
先生のその笑顔は、初めから自分だけのものじゃないってわかってたけど。
きっと、愛しい人には、もっと違う表情で話をするんだろう。
「桜井さん?」
気が緩んだ。きっと今、私、サイテーな顔してる。
それを先生に覗き込まれて、無理やりに頬の筋肉を上に引っ張った。
「大丈夫だよ、北原くんも良い人だから、きっと許してくれるよ」
いや、先生、それも誤解。
この部分は冷静に否定したい。
引きつった顔のまま、私は首をかしげた。
ふと、先生の腕の中に、大事そうに抱えられている小さな鉢があるのに気がついた。
夏の暑さのせいなのか、数枚広がる緑の葉っぱが、ぐったりしている。
私の視線に気付いた先生の口から、ふぅと小さな溜息がもれた。
「ちょっと目を離したすきに、こんなふうにしちゃってね」
困って笑う先生は、何度も見たことがある。
だけど、今みたいに、少しだけ悲しそうなのは初めてだった。