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気がつけば、夏の太陽も西に傾いている。
時計はとっくに六時を過ぎているのに、この学校にはまだ生徒が残ってそれぞれ目の前に掲げた目標に向かって身を削っている。
私はやっと数字やら公式やら訳のわからない文字たちから解放されたものの、あまりの疲れに机に突っ伏した。
もう、北原も帰っただろう。
だけど、彼らの受ける講習は、夜十時過ぎまで続けられるって聞いたことがある。
「よくやるなぁ」
私はこの学校に入学したことを、心の底から後悔してる。
学生の本分は勉強、なんて言うけれど、そればっかりじゃあオカシクなりそうだよ。
レベルひとつ下げて受験すべきだった。
こんな学校に入るために一浪した川島くんなのに、先生からあんなふうに思われてるなんて可哀相だ。
私は重い腰を上げると、両手を天井に向かってぐっと伸ばす。
ついでに大きなあくびをひとつ。
「あ、いた、桜井さん」
その声に、慌てて口を閉じ、振り返る。
「中庭に、アゲハチョウの幼虫がいたんだよ。桜井さん、チョウは苦手だった?」
「あんまり得意ではないですけど」
笑顔だった倉田先生は、少し困った顔をするけど、すぐにまた微笑んだ。
そして、私を手招きすると、一緒に見に行こうと誘ってくれる。
先生に会うのは久しぶり。
ノートを渡されてから、本当に会うことがなくて。
それにしても、こんな笑顔で楽しそうな先生、初めて見た。
だけど、夏休みにチョウの観察なんて、一応園芸部員ではあるけど、小学生の夏休みの宿題してるみたいだ。
忘れがちだけど、倉田先生は生物の先生だもんね。
背を向けた先生にわからないよう、私はそっと笑う。
さっきまでの嫌な気分も、勉強の疲れも、川島くんのことも、今だけは忘れられる。
先生がここにいることで、私の顔は勝手に笑っちゃうし、なにより、うれしい。
胸が弾むって、こういうことだ。
「桜井さんが、ノートに書いてたから、様子を見に行ったんだ」
「あ、あのミカンの木ですよね」
「うん。アゲハチョウは柑橘系の木が好きなんだよ。それにしても珍しいな。最近はもうこの辺じゃほとんど見かけないからね」
いつもより、早口で饒舌。
チョウについてまだまだ語る倉田先生に相槌を打ちながらも、理事長が実をつけるのを楽しみにしていたミカンの木が丸坊主になる姿を想像する。
きっと、怒るんだろうなぁ。
つい何日か前から、葉が虫に食われているのに気がついたんだけど。なんとなく怖くて虫を探す気になれなかった。
割りばしでつかんでポイすればいいとわかっていたけど、放置してた。
でも、先生、ちゃんとノート見てくれてたんだ。
西日が差す廊下をふたりで歩く。
ずっと、ずっと廊下が続いてればいい。このまま、先生の横を歩いていたい。
心の奥が何かにぎゅっと締め付けられて、弾けとんだ光は体中に広がってく。
嬉しいはずなのに、悲しいのは、痛いのはどうして?
だけど、そんな甘い夢も中庭のドアを開けるまで。
「……どうして」
ぼそりとつぶやくと、私は唇を噛んでそいつを睨みつけた。
「あ、北原くんも温室のところにいたから、誘ったんだ」
先生ってば…なんて余計なことを。
いや、まぁ、北原と話はしたかったんだけど、今この瞬間じゃなくたって良かったのに。
カミサマがいるなら、相当意地悪だと思ってしまう。
睨み返してくる北原なんて無視して、私は先生の後をついていく。
「そういえば、ふたりとも、大変だったね」
先生が振り返り、私たちに言う。
中庭もあの爆発で被害を受けたはずだけど、以前と変わらない植物たちが穏やかに揺れている。
あのミカンの木も、被害を受けなかったのか、変わらない状態だった。
そして、いつしか私の足も、北原の頬も、傷は消えていた。
「でも、無事で良かった」
先生はとびきりの笑顔でそう言ってくれるけど、心から頷けないのは、となりに北原がいるからかな。
それとも、川島くんのことが解決してないからかな。
モヤモヤした気持ちを抱えたまま、私は北原と一緒に1メートルちょっと背丈のあるミカンの木に近づいた。
先生が指差した先にいるのは、緑色で背中に鮮やかな水玉模様をつけたうごめく虫。
青々とした肉厚の葉を、おいしそうに食べている。
「本当は、カラタチの木がいいんだよね。昔はよく生垣なんかに使われてたんだけど、棘があってね、最近はあまり好まれないんだ。でも、きっとどこかにあるはずだから、探してくるね」
「理事長は?」
「うん、今、旅行中だから内緒ね」
目を輝かせて芋虫をみつめる先生を見てると、私も彼の目線の先にあるものが愛おしく見えてきてしまうから不思議だ。
本当は、私の大好きな植物を食い散らかす虫なんて大嫌い。
蝶も、羽根はキレイだと思うけど、胴体部分が好きになれないのに。
「このままちゃんと育ってくれれば、今はこんな姿だけど、二週間ぐらいでキレイなアゲハチョウになるよ」
楽しみだねと言われると、私も笑顔でうんと頷いてしまう。
しばらく芋虫に見入っていた先生は、ふと腕時計を見て体を起こした。
「じゃあ、もう先生は行くね。明日、カラタチが見つかったら、この子は移しておくから心配しないで」
「はい」
いつものように、先生は手を振って私たちに背を向ける。
そして、北原と中庭に取り残されたことに、思わず小さな溜息が出てしまう。
北原は、私が先生を見送る間も、しゃがんで芋虫をじっと見ていた。
「桜井に殺されなくて良かったな」
ぽつり、芋虫に向かって話しかけると、上目遣いでこっちを見る。
「な…何よ」
「落書きも、役に立ったって訳だ」
「落書き?」
「交換日記」
「……?」
「あ、観察日記だったか」
立ち上がると、あっという間に私は見下ろされる。
それと同時に小馬鹿にしたように笑われて、意識せずとも私は唇を前に尖らせた。
補習の合間をぬって、先生から渡されたノートにメモを取る私を見て、北原はいつも無駄だと呆れてた。
「そうよ、こういう時のために書いてるんだから」
「どうだか」
「別に。北原にわかってもらえなくてもいいわよ」
さして変わりばえのない植物の観察をノートに書くことが、あまり意味がないってことは自分でもわかってる。
そのうしろにある、少しでも倉田先生と繋がっていたいという気持ちを北原に見透かされたような気がして、私はちょっとむきになった。
だけど、そんなこと気にしてる場合じゃない。
「そう、ちょうど北原に話したいことがあったの」
話せる相手が北原なのは癪だけど、しょうがない。
それに、今の状況を変えるにはちょうどいい。
「川島くんのこと、なんだけど」
私が彼の名を出すと、北原の目の色が変わった。
「何か、あったのか」
「うん……」