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「………」
野球にたとえるなら、150km/h以上の豪速球がウリのピッチャーが投げた球は、超スローボール、92km/h。
身構えていたはずの私は空振りして体のバランスを崩しそうになる。
つまり、そこには何にもなかった。
「なんなのよ、アイツ」
あれだけ来るなとか、忠告とか、随分な言葉を並べておきながら、どういうこと?
この廊下は体育館へと続いている。
集団で移動する時には、一年生はここを通って体育館へ行くはずだ。
ただたんに、彼は集会をサボっただけ、か……?
それなら私と同類、逃げることなんてなかったのに。
念のため、まわりを気にしながら先へ進むと、吹き抜けの中庭が見えた。
理事長の趣味である園芸は、この夏から中庭にも進出し、床にはイングリッシュガーデンのようにタイルが敷かれ、幾つもの鉢植えの花や植物があり、おまけに小さな噴水まで登場した。
自称園芸部員の私も、ちょっとやりすぎじゃないかと思うけど、これは理事長の学校だもんね。
それに、この場所も、温室前と同じくらい気に入っている。
だけど、ほとんどの生徒は虫がいやとか、気持ち悪いとかって、あまり近づかない。
その中庭へのガラスの扉が、ほんの少しだけ開いたままだった。
私は、まるで引き寄せられるように中庭に足を踏み入れた。
「暑い……」
ただでさえ風がないのに、中庭は周りを囲まれているから空気がこもってしまう。
この夏休みはどうせ補習で毎日学校に来るのだから、まだ暑くならない朝のうちと、少し暑さが落ち着き始めた夕方の二度、水やりをしてあげなきゃ。
花と緑の匂いに包まれて、幸せな気分になる。
はずだった、いつもなら。
「何?」
言葉を話せない植物から発せられるものは、いつも柔らかくてふんわりと私を包んでくれるはずなのに、今日は何も感じない。
私は目を閉じ、頭の中のトビラを開く。
全てを感じようとするのに、何も聞こえないし、響かない。
こんなこと、今までなかった。
穏やかなはずの空気は、むしろ、どこか緊張して張りつめているみたいで。
植物の葉に触れながらゆっくり足を進めると、つま先に硬いものが当たり、私はそれを見た。
「これ、は?」
白い、小さな箱。
500mlの牛乳パックか、豆腐のパックか、そんな感じ。
手に取ると、中には何かが入っているようだけど、きっちり密閉されているようで開け口が見つからない。
振ってみても中身が動く様子はなく、よくよく耳をあててみると、カチカチと規則的な音がした。
「何やってんだ?」
その声にびくりと体が反応し、思わず箱を落としそうになる。
「な、何って、北原こそ、何してるのよ」
「別に」
ドアを開けて、いつもの冷酷無慈無残非常な目をした北原が立っていた。
「今期も表彰されるんじゃないの?」
「面倒だから、断った」
「……あっそ」
この学校では毎月末の集会で、その月の優秀者が表彰される。
部門はスポーツや成績だけじゃなく、ボランティア活動や、課外活動も含まれるのだけど。
その、成績部門で、北原は毎月トップ、常にステージに上がり賞状を受け取っていた。
夏休みを前にして、今期もコイツがトップだろうと思っていたけど、まさか、断ったとは。
相変わらず、傲慢なヤツだな。
「園芸部員は、理事長の話を聞かずとも、終業式を迎えられる特典でもあるのか?」
「……そんなの、ないわよ」
コイツの一言一言が癇に障る。なのに、どうしていつもこうタイミングよく現れるんだろう。
こっちに来なくてもいいのに、北原は私の前にやってくると手の中にある箱を見た。
そして、北原の手がこの箱に触れようとした時だった。
「何やってるんだ!!」
ついさっきも私に警告した叫び声。
声変わりしたはずなのに、高い声は、私と同じくらい背が小さいから?
北原も手を引っ込めて、ゆっくりと声の主を振り返る。
「忠告したろ、馬鹿か、オマエ!!」
逃げていったはずの彼が、目も口も鼻の穴も大きく開けて、さっきよりも興奮して叫んでる。
だけど、その表情は怒っているわけでもなく、焦っているような、だけど、歪んで引きつっているようにも見えた。
「死にたくなかったら、それを置いてこっちへ来い!」
「へ?」
彼の指先は、私の手の中、白い箱を差しているようだ。
「これのこと?」
私は右手に持って、顔の横で振って見せる。
「う、うわぁっ!! やめろ、とにかく床に置け、早くしろ!」
目を白黒させて大袈裟なジェスチャーとリアクション。
テレビのお笑い芸人なんかより、ずっと面白い。
「時間がない、あと10秒だ、10秒!」
まるで子供みたいな脅し文句に、私はちょっと呆れてしまう。
一体、これに何があるというのだ。
「桜井、これ、何なんだ?」
「わかんないよ。カチカチ音はしてるけど」
「早くしろーっ!!」
ふと北原が表情を変えて、私から奪うように箱を手に取り耳にあてる。
そして、わめいている彼を振り返った。
「まさか」
いつもより、ずっと厳しい北原の視線。
それを受けて、叫び続けていた口が、一度ぐっと閉じる。
「もう、知らねぇ……」
顔を真っ赤にして、ぼそりとつぶやくと、再び彼は逃げるように去っていく。
「桜井、逃げろ」
「はぇ?」
それは、まるでスローモーション。
北原の手の内にあった白い箱が宙を舞い、私の体は強い力で引っ張られ、次には乱暴に背中を突かれて廊下に倒れそうになる。
何すんのよって、北原に言ってやるつもりだった。
突然の破裂音。
ガラスが割れて廊下に飛び散る音は、たくさんの風鈴が揺れるみたいに鮮やかで、でも残酷で。
耳を覆う暇なんてなかった。
キーン。
スタートのピストルを耳の近くで鳴らされたような、そんな大きな音を聞くと、本当に頭の中で甲高い音がするんだ。
体が痛いのは、廊下にコケてるから。
最近は、よくコケるな。で、この前と同じように、私に誰かが覆いかぶさっている。
ぼんやりした頭で現状把握不能な私を、誰かがゆっくりと起こしてくれた。
『大丈夫か?』
たぶん、口でそう言ったのが、耳で聞こえずに手を伝わって頭の中に響く。
大丈夫って、何だ。
私は周りを見て呆然とした。
私が出てきたはずのガラスの扉が割れている。中庭に沿って張られている窓ガラスの数枚が、廊下にむかって飛び散っている。
床に手をつくと、指先に痛みが走り、気がつけば私の周りにも、同じように割れたガラスが散らばっていた。
事態を理解できず頭の中は真っ白になり、痛みの指先を見れば赤い血が滲む。
『殺シテヤル』
この惨状に、あの言葉を思い出したとたん、体が震え始める。
ほんとに、本気?
口が酸素不足の金魚みたいにぱくぱくと動くのに、あまりの恐怖で声も出ない。
気がつくと、抑えきれずに涙が溢れていた。
『大丈夫だ』
優しい意識が聞こえて、抱きしめてくれる。
『大丈夫だから』
まるで魔法みたいに何度も繰り返される言葉は、異常に高揚した頭の中を鎮めてくれるのに、反比例するように涙が止まらなくて。
私は抱きしめてくれているのが北原だということも忘れて、しがみついて泣いた。