file6 「Love is?」
視聴覚室は、別校舎の二階だ。
お金持ちの理事長は、かなりの設備投資をしたようで、無意味なほど特別教室がたくさんある。
そんな教室ばかりが集められた別棟、しかも一番奥にある視聴覚室の前は、ほとんど人気がない。
ホリちゃんが宮元先輩が来るのを待っている間、私はいても立ってもいられずに、保健室を飛び出した。
お願いだから、何も起きていませんように。
私、どうして必死になってるんだろう。
人の感情や恋愛ゴッコに友情っぽいハナシなんて、面倒でうっとおしくて、大嫌いなはずなのに。
こんなに一生懸命走るなんて、きっと小学生の徒競走以来だと思ったら、不謹慎にも笑えた。
「香奈!」
ふたりの姿が見えた。
そして、床の上に転がる光る刃。
まさか、遅かったの?
うつむいていた香奈が、ゆっくり顔を上げた。
「しおりちゃん……」
今にも泣きそうな顔で、閉じた唇が小刻みに震えている。
「私、もう、これ以上できないよ……でも、がんばったんだよ、先輩のために」
細めた瞳からぽろぽろとこぼれはじめた涙から、まるで悲しい音が聞こえそうで。
私は床の上のカッターを拾って刃を閉まった。
香奈の横にいる北原を見ると、首を横に振る。
見たところ、ふたりとも怪我はしてないみたいで、ほっとしたのも束の間。
「けど、そんなのはアンタの自己満足だ」
「ちょっと……!」
もう、どうしてそんなこと言うんだろう。
北原の信じられない言葉に言い返そうとした時、香奈のほうが先に口を開いた。
「そんなの、わかってる!」
いつも女の子らしい香奈から想像できないくらい大きな声で、私は驚いた。
「だけど、どうしても、先輩の気持ちを叶えてあげたくて。大好きな人にしあわせになってほしいから、だから」
「じゃあ、その為なら、誰かを傷つけて、自分も傷ついてもいいって?」
「北原くんだって、宮元先輩や、あやのさんを傷つけたくせに!」
唇を噛んで睨みつける香奈に、北原は一瞬眉をひそめた。
『あやのさん』って、もしかして、北原の、本命の彼女?
これ以上の話を、私が聞いてはいけないような気がした。
「宮元先輩からあやのさんを奪って、そのあやのさんを簡単に手放して。宮元先輩だったら、留学だってきっと止めたに決まってる。そうしたら、今頃ふたりはしあわせに一緒にいたはずだわ」
本当に、そうだろうか。
私はぼんやりと、そう思った。
「あやののこと、どんなふうに先輩から聞いてるのか知らないし、誤解されたって俺はかまわないけど。そうやって理由つけて、本当のアンタの気持ちはどうなんだよ。もしアンタの言うとおり、ふたりが今も付き合っていたなら、アンタは先輩と付き合うこともできなかった。じゃあ、あやのを恨んで先輩を奪おうって考えたんじゃないのか?」
心の奥の裏側を見透かされてしまうような、鋭く冷たい瞳。
淡々とした口調で北原が告げると、香奈の表情が歪む。
「そんなの…わかんない」
うなだれた香奈の顔が、さらさらときれいな髪に隠れて見えなくなった。
私は揺れる肩に手を伸ばして、そのまま香奈を抱きしめた。
「北原、言いすぎだよ」
確かに香奈は、現実を美化しすぎてるかもしれない。
そして北原の言ってることも、間違ってない。
それぞれが、過去の分岐点で違う道を選んでいたなら起きたかもしれない事実。
だけど、あくまで観測でしかなくて、本当のことなんて誰にもわからない。
誰かの気持ちなんて、本人でさえ曖昧なのに。
抱きしめた香奈から伝わるのは、迷いや不安、消えない悲しみ。
『私がしたことは、間違ってない、間違ってない、先輩はきっと喜んでくれる』
先輩を信じる小さな気持ちだけが、今の香奈自身を支えていた。
「香奈、大丈夫だよ」
私はそう言うのが精一杯で。
自分があの女の子たちと同じ部類なら、一緒になって北原につっかかって、香奈が喜ぶようなことを言ってあげられるんだろうけど。
北原を見上げると、面倒くさそうに溜息をついている。
ふとヒールの足音が聞こえて、私たちは音のするほうを向いた。
白衣を翻しながら、さっそうとホリちゃんがこっちにやってくる。
手なんか上げちゃって、また楽しそうに。
「先生、これ、どういうことですか」
後ろからついてきた宮元先輩が、私たちに気がついて声を上げた。
「あら、宮元くんの永遠のライバルと新旧彼女が揃って楽しいじゃない?」
センセー、それってどういう分類ですかっ!
私たちの今の状況を逆なでするようなこと言わないでよ。
案の定、先輩も足を止めて固まってる。
「私がふたりっきりで宮元くんに個人授業でもしてあげると思った? 残念ながら生徒に興味はないって前にも言ったわよねぇ」
動かない宮元先輩の手をつかみ、ホリちゃんは強引にこっちに引っ張ってきた。
露骨に嫌な顔をしてる先輩なんて、初めて見る。
「いいかげん、フィールド以外でも闘争心を燃やす性格、直したほうがいいんじゃない?だいたい、あやののことは、伊吹にとられた時点で勝負はついていたはずよ。負けは負けだと潔く認めなさい」
ホリちゃんの言葉に、一瞬で宮元先輩の顔が上気したのがわかった。
再び先輩は足を止め、勢いよくホリちゃんの手を振りほどいた。
「一体何なんですか!?」
「いつまでもいじいじとした仕掛けなんかしてないで、スポーツマンらしく、正々堂々と戦ったらどう? 一発殴って気持ちに決着つけたらすっきりするんじゃない?」
笑顔を変えずに、ホリちゃんが北原に合図するように視線を送る。
まっすぐな北原の瞳と、もう決して爽やかなんて言葉の似合わない宮元先輩の視線がぶつかった。
「しおりちゃん……」
香奈の震える手が、私の腕をぎゅっと掴む。
私はただ頷いて、張り詰めた空気の中、息をのんだ。