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「先生、彼女、熱があるみたいですよ」
さっき、体温計のお知らせ音が聞こえた気がした。
倉田先生と、女の人の声がする。
それ以外、何も聞こえない。
頭の中を占めていた黒い意識も、消えた。
「大丈夫ですか」
重いまぶたを持ち上げると、白衣を着てない倉田先生が心配そうな顔してこっちを見下ろしている。
足元に見えたのは、事務室のおねえさんだ。
体温計をケースにしまうと、私の視界から消えてしまう。
「高い熱が出てるから、今日は帰ったほうがいいね」
優しい先生の微笑みに、一体何が起きたのかわからなかった。
ぼんやりと身体を起こすと、私に倉田先生の白衣がかけられていたことに気がついた。
「そういえば、この前も体育館で倒れたんだったよね。体調に気をつけなきゃだめだよ」
「はい……」
職員室の応接ソファに、私は横になっていたようだった。
授業が始まったようで、残っている先生は少ししかいない。
「宮元くんが、ここまで連れてきてくれたんだよ。体調が良くなったら、お礼を言うといいね」
そうだ、私、保健室の前で先輩と……。
熱のせいか、頭がうまく働かない。
できればこのまま、倉田先生の白衣を被って眠っていたい。
「家の人、呼ぼうか?」
動けないでいる私の前に、倉田先生はしゃがんで私を覗き込む。
先生、家まで送ってください、なーんて言えたらいいのにな。
きっと困った先生は、どうしたらいいかわからずに苦笑するだろう。
そんな風に甘える勇気もなくて、私は家に電話してもらうよう、先生にお願いした。
先生が電話する姿を、私は目で追っていた。
前に、冗談で彼女がいるのか聞いたことがある。
先生は否定せずに、少し赤くなって笑ってたっけ。
正直すぎる反応に思わず笑いをこらえたけど、反面、どこかで淋しかった。
叶わないとわかっていても、ずっと一緒にいたいっていう香奈の気持ち、ほんの少しだけど、わかるような気がする。
母親が迎えに来てくれるということで、私は教室までカバンを取りに行き、香奈のことを気にしながらも、玄関へと降りた。
その間、さっきまで私に掛けられていた白衣を着た倉田先生が、心配してずっと後をついて来てくれる。
「僕は宮元くんみたいに抱きかかえてあげることができなくてごめんね。彼は本当に格好いいよね」
後ろにいた先生にそんなことを言われて、私は思わず足を止めた。
「だ、抱きかかえ……?」
「そうそう、こうやってね」
と、先生はお姫様抱っこのポーズをとった。
「………」
熱が、下がっていくのか、それとも上がったのか、一気に冷や汗が出る。
「宮元くん、すごく心配してたよ。もしかして、桜井さん彼と」
「先輩、クラスメイトの彼なんですっ」
なんとなく先生の次の言葉がわかるような気がして、あわててそれを遮った。
冗談じゃない、北原に続いて宮元先輩? しかも、それを倉田先生に……。
うぅ、信じられない。
そうなんだって言う倉田先生が、楽しそうに笑ってる。
とたんに、保健室の前で起きた事件が私の頭の中にありありと蘇ってきた。
先輩、私と付き合わないかって、言ったよね……?
それって、私が香奈と友達だってわかってて言ったの?
だとしたら、かなり幻滅。
もともと、そういう噂のあった先輩だし、香奈が泣くかもしれないってことは最初からわかってたけど。
でも、ひどすぎるよ。
男に好きな女を取られて、その男が仲良くしてる女を自分のものにする。
そして、想いを寄せて、彼のために一生懸命になってる彼女を裏切って。
見た目とはまるで違う彼の本当の顔。
何もかも完璧でいたいというプライド。
それを北原が一度だけじゃなく、二度までも踏みにじろうとしてるから?
先輩の意識はホリちゃんだけじゃない、間違いなく北原にも向けられている。
「……ってことは」
「ん? どうした?」
「あ、や、いえ。なんでもないです」
思わず声が出てしまったことが恥ずかしくて振り返ると、倉田先生が不思議そうな顔をしていた。
「そういえば、カトレアがひとつ咲きそうだよ」
「本当に?」
「うん、白いのね。ほら、芽が伸びてたの。つぼみが膨らんできてるよ」
先生は、先輩みたいなこと、決してしないんだろうな。
……しないでほしい。
「だから、早く風邪を治して、見にいってあげて」
「はい」
誰か好きな人がいるなら、その人としあわせになってほしい。
「あ……そうだ」
「ん?」
「しばらくホリちゃ…堀口先生、休みって、聞いたんですけど、どうかしたんですか?」
いつもなら、どうでもいいことなのだけど、先輩から、昨日北原と一緒にいたという話を聞いて、気になってしまう。
倉田先生は、少し考えてから口を開いた。
「堀口先生のおじいさんが亡くなってね。同居していたらしいから、家も忙しいんじゃないかな。いつまで休むとか、詳しいことは僕もよく知らないんだけど」
「そうだったんですか……」
家族が死んだことにして会社を休むOLさんがいるって話は聞くけど、まさか、ホリちゃんに限ってそんなことはないだろう。
だけど、昨日、北原とふたりで車にって。
そんな時にわざわざ会ったりするだろうか。
北原が今日休んでるってことは、もしかして、家族公認のお付き合い!?
「あ、桜井さん、お母さん来たみたいだいよ」
慌てた顔した母が倉田先生に頭を下げながらやってきた。
「ありがとうございました」
私も先生に一礼して学校を後にする。
家に帰るなりぷっつりと緊張の糸が切れて、何も考えずにぐっすり眠ってしまった。
数日後、学校で何が起きるのかなんて、想像することもないまま。