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並んだ机の右上には、「きたはら いぶき」「さくらい しおり」とそれぞれシールがはられていたっけ。
明るくて、元気で、私たちは仲良しだったんだけど。
ある日、伊吹くんは、顔を真っ赤にして、もじもじしていて。
そのうち、赤い顔が白くなって、とってもつらそうで。
大丈夫って手を握ったら、必死な訴えが聞こえたんだ。
だから、授業中だったけど、伊吹くんを助けるつもりで、私は先生に言った。
『せんせぇーっ、イブキくん、うんこしたいってぇ』
そう言ったら、クラス中が笑ってしまったんだよね。
そして、泣きながら伊吹くんは、教室を出て行って。
その後何日か、学校を休んでしまった。
登校してくると、クラスメイトのいじめっ子から、汚いあだ名を付けられて、笑われて。
また学校に来なくなったと思ったら、転校しちゃったんだよね。
転校の理由が、この事件だったのか、親の事情だったのかは知らないけど。
「だけど、子供の時なんて、そんな話、よくあるじゃない」
小さい頃なんて、下ネタばっかで。
でも、時間が経てば、みんな忘れてさ。
そう思って北原の顔を見上げると、有無を言わせない、細めた目で私を睨んで見下ろした。
「おかげさまで、子供ながらに、相当傷ついたぜ」
「ごめん……」
威圧的な視線に、あまり心にはない謝罪の言葉が勝手に口をついた。
コイツ、やっぱり、よっぽど根に持つタイプかな。
「クラス中の笑いものにされたことは、別になんとも思ってないよ。オマエの言う通り、よくある話だ」
「え……?」
「必死に隠してたことを、決して口に出して言うはずのないことを、突然言い当てられた方の気持ち、考えたことあるのか?」
私は緩んだ口元をきゅっと締めて、唇を噛んだ。
「誰にも聞こえないはずの声が、聞かれてる。人に言えないことを考えてはいけない、考えてることも、すべてまわりには聞こえてるんだって思うと、俺は頭が狂いそうだった」
「そんな」
「だから、俺はもう何も考えなかった。口にも出さなかった。どんどん引きこもってく俺を見て、心配した親が転校させたけど、しばらくはそんな状態から抜け出せなくて」
そんなこと、考えてもみなかった。
あの絵梨ちゃんとのことが起きるまで。
言葉を失った私から、視線を遠くにある保健室の方へ向けると、小さな溜息が降ってきた。
「世の中の道理を理解したって、もしかしたら、周りが全員聞こえないふりをしてるだけで、本当は全部見られてるんじゃないかってね。バカな話だけど、そんな風に疑うクセはなかなか治るもんじゃない」
北原の言葉を聞きながら、沢山のことを思い出していた。
もう、曖昧で消えそうな、小さい頃のこと。
もしかしたら、北原だけじゃなく、私はもっとたくさんの人の心に傷を残したんじゃないだろうか。
あの、絵梨ちゃんさえも。
そして、今、宮元先輩のことも、傷つけようとしてる……?
「でも、さっきの桜井の話聞いて、やっと楽になれたよ」
少し、柔らかな笑みを含んだ口調でそう言った。
その言葉を聞いて、私も楽になれた気がして顔を上げる。
「頭がおかしいのは、俺じゃなく、桜井だったってことがわかったからさ」
あ? 頭がおかしい?
私は思わず首をかしげた。
「頭がおかしいって、どういうこと?」
北原の口元が緩くカーブを描いて、再び蔑むような目が私に向けられる。
「頭、おかしいじゃん。俺らなんかとは違う部分の脳が発達してるってことだろ? うらやましいぜ」
なぁーっ!!
なんなのよ、嫌味たっぷりなその言い方。
私は両手を握り締めて、閉じた唇の奥で歯軋りをする。
それにねぇ、笑ったアンタ、無表情より怖いんだけどっ。
コイツの言葉に、少しでも心が動いたことに、今更後悔した。
私がコイツを傷つけてしまったことは、素直に謝りたいけど。
なんだか、とんでもない天敵とめぐり会ってしまったような気がする。
「あ! いた、しおりーっ、心配したのよ、大丈夫だったぁ?」
階段から、何も知らないクラスメイトたちの明るい声が響いた。
良かったぁ、普段は面倒なお友達付き合いも、こんな時には天の助け。
五、六人いるうちの一人の目が、私の後ろにいる北原に一瞬向けられ、駆け下りてくる足が少し遅くなる。
その彼女の視線が私の方を向いて、ニヤリと笑った。
「はい、カバンも持ってきてあげたよ。帰ろぉ」
「うん……ありがと」
コイツと離れられるのは、嬉しいんだけど。
まだ宮元先輩が保健室から出てきてないから、ホリちゃんのことはちょっと心配だし。
カバンを受け取って、適当に返事しながらも、この場を離れるべきか否か迷った時だった。
明るい笑い声と共に、保健室のドアが開いた。
「あれ、宮元先輩じゃん」
一人がそう言うと、そこにいた全員が宮元先輩に目を向けた。
楽しそうに、中にいるであろうホリちゃんに声をかけ、失礼します、とドアを閉めると、サラサラの前髪をかきあげて、颯爽と玄関へ向かっていった。
「ヤバイ、宮元先輩って、マジカッコイイよね。香奈うらやましいっ!」
だよねぇとみんなが頷いて、先輩に見とれている間に、静かにゆっくりと北原が階段を上り始める。
とりあえず、心配するようなことはなかったみたいだし。
これで、私も安心して帰れる。
先輩を騒いでいた彼女らが、突然静かになったかと思うと、いきなりみんなで私を取り囲んだ。
「で?」
「え?」
「誰、アイツ」
取り囲んだ一人が、声を潜めてそういうと、全員が階段の踊り場まで上りきって見えなくなりそうな北原の方へ視線を向けた。
「へ!?」
思いもかけない誤解に、私はすっとんきょうな声を上げてしまった。
再び、全員の興味津々でギラギラした目がこっちを向いて、私はブルブルと頭を横に振った。
「一組の、北原くん」
「で?」
で?って、聞かれても。
「保健室で会っただけだよ」
「ふぅん」
一斉に刺さる、わかったような痛い視線。
「保健室で出会って、恋が芽生えちゃった?」
「ちょっ……!」
どうして、そうやって簡単に恋しちゃうわけ!?
確かに、最近そんな話もなかったし、アイツは見た目も悪くないし、いつもなら嘘ついて「好きになっちゃった」なんて言えたかもしれないけど。
だけど、嘘でも、冗談でも、そんなこと言いたくないっ!
「違うってば、そんなの、ナイナイ」
「へぇ。しおりが否定するのも、めずらしいよねぇ」
「案外、マジだったりしてぇ」
うんうん、と妙に納得したような顔をして、頷きながら、一人、また一人と玄関へ向かい始める。
「絶対! そんな関係じゃないってば!」
「はいはーい」
嫌だ、そんな誤解しないでよ。
みんなに追いついて、否定したって、もう取り合ってくれない。
確かに私は、必死になって否定するようなキャラじゃないし。
余計誤解させちゃうかなぁ……。
でも、あんな目をして人を見下すようなヤツを、嘘でも絶対好きになんかなるもんか。
……冗談じゃない。
冗談じゃないっ!!