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眠ってしまった横顔に、触れることができなかった。
心臓はうるさいほど早鐘を打っているのに、頭のてっぺんから一気に血の気が引いていく。
まるで自分のものではなくなってしまったような震える指先で、やっと端整なその顔に触れる。
途端に逆流した血液が熱を帯びて、怒りと共に全身を駆け巡った。
「何て…ことを……」
声がかすれ、奥歯がカチカチ音を立てる。
「返してっ。北原の記憶を、返して!」
なんとなくぼんやりと焦点の合わない視線だけ、私に送ると、南海先生は声を殺して笑った。
「僕がやったんじゃない」
「今更そんな言い訳」
「言い訳なんて、これ以上僕には必要ない」
うつむいた先生からくぐもった笑いが消えると、私たちに近づいて、横たわる北原のそばにしゃがんだ。
そして、私の感情を逆撫でするような穏やかな顔をした。
「誤算だ」
「……え?」
「まさか、本当に自分から閉じてしまうなんて、思ってもみなかった」
「自分って……どういう」
「彼は、自分の意思で意識を閉じた。……おそらく、何をどうしても、目覚めないだろう」
今の感情を声にする言葉がみつからない。
北原がしたのと同じように、私も南海先生に掴みかかって殴りたかった。
「彼を目覚めさせるとしたら、おそらく方法はひとつ。君が彼の意識の中に入り込んで、眠った意識を起こすしかない」
「……北原の、中って? そんなこと」
できるわけない。
今までしたこともないし、どうしたらいいのか、わからない。
私は北原の名前を呼んで、何度も肩を揺さぶった。
力の抜けた身体は、ぐらぐらと揺れるだけで、硬く閉じた瞼はぴくりともしない。
安らかな北原の寝顔は、いつもより少しだけ子供っぽくて、優しくて。
「起きて」
頬を叩いても、反応がない。
「自分の都合で、人のココロを傷つけてはいけないんだよね。君は彼を助けたい、でも、そのためには、彼の意識の中に入るしかない。入れば、彼が最も嫌がってた、君に見せたくない部分を見てしまうことになるだろう」
「そんな……ひどい」
「何と言ってくれてもいいよ。君の正義がどこまで通用するのか、僕は確かめたいだけさ。彼を起こすことができるのは、君しかいない。君が無事に彼を起こして、彼の中から戻ってこれたなら、僕は今までのことを謝るし、君のことも、諦めるよ」
こんなふうになってまで、ためらってしまう私がいた。
でも、北原を失ってしまっては、全て、意味がない。
嫌われても、いい。
私は息を飲んで、北原の頬を包むように両手をあてた。
「ひとつだけ、忠告するよ」
指先に集中しようとした時、南海先生の言葉に私は顔を上げた。
「僕もそんなこと、したことがないし、できるかどうかわからないよ。それに、彼の中で迷ってしまったら、君は戻ってこられないかもしれない」
「それって……」
「命がけ、だよ?」
ヒトの意識に飲まれてしまえば、私はいつも気を失っていた。
同じように、北原の意識に入り込めばいい。
そうすれば、いつものように、きっと目が覚める。
迷っている時間はない。
絶対に、北原を起こして、一緒に戻ってみせる。
不安を無視して、私は北原に触れて瞳を閉じた。
『僕も、君が嫌いだ』
白い光に包まれながら、聞こえたのは南海先生の声。
私は触れた指先から、細い糸を伸ばすように、北原の中を探っていく。
先生が言うように、閉じてしまった北原の意識は、簡単に見つけられない。
声を、ココロを、聞かせて。
お願い。
突然、真正面から吹く強い風と共に、脱力し重くなった身体を脱ぎ捨てた私の意識が、何も見えない、道なき迷路へと踏み込んだ。
目が覚めると、広がっていたのは無限の暗闇。
音もなく、ただ静かで、恐怖は感じない。
闇の中で、私の身体だけが、ぼんやりと白い光を帯びていた。
「北原……?」
呼びかけた声は響きわたることなく、吸い込まれるように消える。
足の裏に感触のない空間を、私はゆっくりと歩き始めた。
ここが、北原の、意識の中?
無我夢中で、ただ中に入り込むことだけを考えて、この闇にたどり着いた。
歩き続けても変わらない景色に、ふと足を止め、泣きそうになる。
何も考えず、こんなことをしてしまったけれど、もし、これが先生の罠だったら?
こうしているうちに、本当に私たちの記憶を消していたら?
北原だったら、どんな判断をしたんだろう。
冷静に考えて、南海先生の言葉を試すような駆け引きをしただろうか。
「北原、起きて」
できるだけ大きな声で叫んで振り返ってみても、何の反応もない。
このところずっと、自分のことばかりで、北原のことなんてちゃんと考えてなかったのかもしれない。
勝手に不安になって、きっとこう思っているだろうと決めつけて。
北原の言葉も信じないで、自分の想いばかり募らせて。
理解してくれるんだと思って甘えていた罰だ。
ふと、足元にやわらかい物が触れて、慌ててそこへ目を向けた。
長く伸びた尻尾が、絡みつくように肌に触れると、今度は顔をあげて小さな声でにゃあと鳴いた。
「びっくりした……」
まるで微笑んでるみたいな顔して、子猫は座った。
真っ白な身体に、ブルーの瞳。
首をかしげる子猫を前に、私がしゃがんで手を伸ばそうとした時だった。
「えっ……」
何の音も無く突然現れた手が、私の視界から子猫の身体をさらっていった。
慌てて顔をあげると、逃げるように走り去る少年の背中が見える。
「ま、待って!」
懸命に逃げる彼が、わずかに振り返り、私ははっと息を飲んだ。
「いぶき、くん」
名前を呼ぶと、彼の足が止まる。
そして、ゆっくりとこっちを振り返った。
小学校一年生のころ、ほんのひとときだけ、机を並べていた北原の姿。
私を見る瞳は怯え、硬く閉じられた唇はへの字に震えている。
彼の腕の中から鳴き声が聞こえると、子猫のほうへ向き直り、淋しそうな横顔で子猫を抱きしめる。
「嫌だ!! 来るなっ」
『しおりちゃんも、先生も、お父さんもお母さんも、みんな、大きらいだ』
幼く弱い、北原の声が静かに響いた。
「ごめん、ね」
いぶきくんを傷つけるつもりはなかった。
何も、知らなかったから、本当のことでも、行ってイイコトとワルイコトがあるということの判別ができなかったから。
私は少しずつ、子供の姿の北原に近づいた。
「ごめんなさい」
唇を噛んで、深く頭を下げる。
再会した北原は気にしてないような態度だったけど、こうして傷ついた幼い彼が、まだ意識の中に存在している。
顔を上げようとした時、私の横を、誰かが通り過ぎた。
「大丈夫、私がそばにいるから」
彼女はそう言って、幼い北原を抱きしめる。
子猫が北原の腕の中から逃げ出すように飛び出すと、私の足首に暖かい体を摺り寄せた。
私はどうすることもできずに、ただふたりを見つめた。