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記憶を乱された頭の中は、思うように働かない。
北原に話したいことはたくさんあるのに、伝えたいことがあるのに、言葉に変換し、口から発する機能の動きが鈍い。
床にごく近いところで平行する私の視線の向こうには、倒れた机と、その隣でしりもちをついたような体勢で、口元を拭う南海先生の姿があった。
「大丈夫か?」
伸ばした指を、北原の手がしっかりと握ってくれる。
背中に手をあてて、身体を起こしてくれる。
「どうした? 何が、あった?」
低い声で、いたって冷静に私に聞く北原が、わずかに震えていた。
乱れた呼吸を整えるように、何度も大きく息をしている。
思考能力が回復してきた頭が、倒れていた南海先生をもう一度確認するよう、私の瞳に命令した。
まさか。
北原の握りしめた右手が、少しだけ赤くなっている。
「優等生でいつも沈着冷静な北原くんが、校内で誰かを殴るなんて、めずらしいこともあるんだね」
顔をしかめながら立ち上がった南海先生は、痛そうに左の口元を撫でた。
目の色を変えた北原もまた、ゆっくりと立ち上がる。
「先生のほうこそ、実習中の身で、誰もいない教室で女子生徒に何してたんです?」
「彼女から、聞いてないのか」
ちらりと私を見やって、南海先生は楽しそうに笑った。
「僕たちの、特別な関係」
たまらず私も重い身体を引きずるように、北原の隣に並んで立った。
わざと誤解させるような言い方を否定しようと北原を見ると、さっきまで南海先生を睨んでいた冷たい瞳がこっちを向いた。
「桜井さんのこと、信じてあげられないみたいだね」
「……先生には、関係ありません」
「彼女は、特別だから。フツーの人間じゃないから、いくら頭脳明晰の北原くんだって、戸惑って当然だよ」
淡々と話す南海先生に、北原は目を細めた。
「桜井さん、彼はね、すごく悩んでるんだよ。君に触れれば、自分の弱い部分も、前の彼女と比べてることも、僕と桜井さんの関係を疑ってる愚かで女々しい気持ちも、すべて伝わってしまうって」
私を見ていた南海先生の視線が、北原に移ると感情を失う。
息を飲んだ北原が、ゆっくり口を開いた。
「何を……」
「何を? 何だよ。今更ココロを読まれたくらいで驚くことじゃないだろ? 彼女にそういう能力があるんだ、他の誰かが持っていてもおかしくない。桜井さんのチカラを認めてる北原くんなら、すぐに理解できるだろう?」
瞬きを繰り返す北原の瞳が、今の話の是非を問うように私を見つめ、考えを巡らせるようにゆっくりと下を向く。
「桜井と、『同じ』、なのか?」
「話そうと、思ってたの。だから、今日……」
この時間に、北原の教室で会おうと、昨日メールしたのに。
南海先生の前では、どんな隠し事もできない。
でも、そのことよりも、南海先生が言った北原の気持ちに、どうしようもなく動揺していた。
「だったら、何だって言うんですか。それで、桜井と先生が特別な関係だと?」
「そう、思わないか?」
腕を組んだままの南海先生に、黙って北原は首を横に振った。
北原の鋭い眼差しが私にぶつかると、思わず私はうつむいてしまう。
「ずっと、何かおかしいと思ってた。桜井は、前から知ってたのか」
「……ごめん。どうしても、話せなくて」
顔を上げられない。
どうして、と小さく呟くような北原の声が聞こえた。
「そんなふうに彼女を責めないでくれ。彼女は、僕のことを理解して、信じてくれて、能力のことは誰にも言わないと約束してくれたんだ」
「約束?」
「僕らは、能力者であることを知られることで、どれだけ辛くて大変な思いをするのか、よく解ってる。だから、例え親しい誰かにも、絶対に言わないでほしいって。まぁ、北原くんには理解できない世界だろうけど」
私の視界にある、北原の拳に力が込められたのがわかる。
理解、なんて、北原に求めていない。
私はただ、こんな私を受け入れてくれるだけで十分で。
「僕は、誰よりも、桜井さんのことを理解してあげられる自信がある。彼女のすべてを受け入れて、愛することができる。君が今、桜井さんに抱いているような恐怖感だって、もちろん無い」
恐、怖。
大きく鼓動が鳴って、恐る恐る私は南海先生を見た。
「桜井さん、君が僕にすべてを知られるのが怖いように、彼も、君に何もかもを知られてしまうんじゃないかって、ひどい恐怖を抱えてるんだ」
自らの鼓動が心臓を壊してしまいそうなくらい、酷く鳴っている。
だけど、いつかそんなことを宣告されるんじゃないかと、どこかでわかっていた。
頭を抱えようとした時、横にいたはずの北原の影がすばやく動く。
「黙れ……」
北原に胸座を掴まれても、南海先生は不気味に笑ってる。
「もう一度、殴るのか?」
「うるさい」
完全にいつもの冷静さを失った北原がいた。
まるで、知らない人みたいに。
「君がそれだけ頼りないから、彼女の気持ちも簡単に揺らいだのさ。どうして彼女が僕のことを君に話さなかったか、本当の理由がわかるか?」
返事をする代わりに、北原の腕からわずかに力が抜けた。
「君が彼女のことを信じられなかったように、彼女も、君を信じてないんだ。桜井さんは、君のココロを読んだわけじゃない。彼女の不安を考える余裕がないほど、君は桜井さんのチカラに怯えてる。その態度が、尚更桜井さんに不信感を抱かせた」
「北原……」
名前を、呼んだ。
少しでも落ち着きを取り戻してほしくて。
人のココロの中は、決してイイコトばかりじゃないと、私は知ってる。
だから、北原だって、そんなふうに思うことはあるし、私だって。
信じることを簡単に止めてしまったり、ふとしたことで強く思ったり。
わかってるから、だから……。
こんな私の気持ちも、ちゃんと話さなきゃいけない。
思ってばかりで、怖くて、できなくて。
ふと、北原の手が、南海先生の胸元から離れた時だった。
「そんなに怯えるなら、子どもの頃のように、またすべて閉ざしてしまえばいい。そうすれば、楽になれる」
囁くように、南海先生の声が呟いた。
そして、彼の右手が、北原の額に触れた。
「……だめ!」
「つらいことも、すべて、忘れればいい」
「北原、離れて!!」
叫びながら、北原の身体を掴んだ。
なんで、もっと早く。
もっと、もっと早く、ちゃんと話さなかったんだろう。
もしかしたら、こうなるかもしれないことを、予測してたくせに。
どうして。
掴んだ身体は、予想以上の重さになって、私の頼りない腕の中をすり抜けていく。
なんとか支えようとしたのに、折り重なるように、私の身体も一緒に床の上に崩れ落ちた。
私の膝の上にあるのは、瞳を閉じてしまった北原の横顔。
「き…た…はら……?」