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「やればできるじゃん、私」
冬休み前に北原から渡されていた、高一レベルの数学問題集を、一冊終わらせた。
参考書やら教科書やらを見ながら問題を解いていたとはいえ、達成感と喜びで泣いちゃいそう。
来年の今頃は受験真っ只中だということを、まだぼんやりとしか想像できない。
4月には、受験用にクラス替えも行われるし、そうなれば教室の雰囲気もガラリと変わるのかもしれない。
誰も居なくなった教室に、秒針が時を刻む音だけが響く。
気付けば太陽も西に傾いて、生徒達の声も遠くから聞こえてくる。
不意によぎる不安に、私は机の上にあったものをまとめてカバンに詰め込むと、席を立った。
「約束の時間まで、あと5分、僕に付き合ってくれる?」
音を立てず開かれた扉から、あの人の声が静寂を破く。
「僕には、ここにいられる時間が限られてるからね。周りから不審がられずに君に近づけるのは、あと数日しかない」
穏やかな優しい笑顔は、その奥にある鋭い牙を隠すためのカモフラージュ。
獲物を見据えた瞳は、どこまでも深い闇の色を隠さず、私の不安や焦りを急かした。
南海先生に気付かれないように息を飲んで、視線を逸らす。
そんな態度とはうらはらに、胸が痛くなるほど、早くなる鼓動を抑えきれない。
後ろのドアから逃げ出せばいい。
そして、北原の教室まで全速力で走って。
「笑えるね」
カバンを胸に抱きしめた時、南海先生がそう言って微かに笑った。
「君が僕を否定するってことは、自分自身を否定するのと同じなんだよ?」
迫る影にある程度の距離を保とうと動かした体はぎこちなく、ぶつかった机がたてた音に動揺する。
よろめく体を立て直して顔を上げると、私に向かって手が伸びてくるのが見えた。
すべての思い出や記憶を闇に変えてしまう、恐ろしい指先。
私は首を横に振ってその手から逃れると、次の瞬間、空を掴んだ指の向こうに、苛立ちから歪んだ南海先生の顔があった。
「どうして? 僕の気持ちをわかってくれたんじゃないのか」
言葉と同時に、突然こめかみから激痛が走る。
「い……」
痛い。
南海先生の感情に飲み込まれないよう、私のココロが共鳴しないように必死で閉じた扉がぐらぐら揺らぐ。
気持ちを伝えようと口を開いても、音の無い息が漏れるだけで。
腕の中から、抱えていたはずのカバンが床に落ちた。
視界が闇に変わり始め、次に瞼を開けると、私は床に手をついていた。
身体が、頭が重い。
『桜井さんが素直に僕にすべてを預けてくれたら、こんなことをするつもりなんてなかった』
拒み続けていた声が、頭の中で響く。
『僕だけの、君でいてほしいんだ』
先生の経験してきたことも、そのことでどれだけつらい思いをしたのかも、私にはよくわかる。
でも、だからって、先生がしてきたことを、私は許せない。
たとえ自分のためだけに能力を使ったとしても、誰かを傷つけちゃいけない。
それも、一番大切だった誰かを。
このチカラを否定されても、どれだけ疎ましがられても、それでも、私は自分の大好きな人たちを守りたい。
だから、私は先生だけの存在になんてなれない。
この私の気持ちが、どこまで南海先生に聞こえているのかわからないけれど。
飛んでしまいそうな意識を呼び戻して、私は重い頭を上げた。
そんな葛藤もすべて、彼の記憶と一緒に消してあげるよ。
唇の動きと、脳内に伝わる南海先生の声。
『僕の気持ちをわかってくれるなら、こんなことをしてしまうことを、許してほしい』
冷たい汗をかいた額に、南海先生の手のひらが触れる。
その手を払おうと振り上げた右手が、先生の腕に触れることなく、力なく床に落ちる。
「い、や……」
絞り出した抵抗の声に、南海先生の唇が、きれいな半月を描く。
『大丈夫。何もなかったように、彼の記憶は消してあげる。心配しないで、僕が幸せにしてあげるよ』
こんなことをして、また罪を重ねて。
誰かの記憶を消して、その人の過去を操作したつもりでも、先生自身の記憶は変わらないのに。
先生が傷ついて、悲しい思いをした記憶は、先生の中から永遠に消えないのに。
例えば、新しい記憶に塗り替えられた私が、先生の隣で一緒に笑うようになっても、私が北原のことを好きだった事実は、それを強引に塗り替えてしまった罪の意識は、また先生の中にある闇を広げてしまう。
ねぇ、先生、聞こえてますか。
また、私が先生にとって不都合なことを起こしたなら、こうして記憶を消すの?
「うるさいよ、桜井さん。僕を、イライラさせないでよ。君にひどいことはしたくないって、言ってるのに」
感情を失った冷淡な口調。
そして、抑えていたものを勢いよくぶつけるように、脳内にねじ込まれる映像。
私は閉じかけていた瞼を見開いて、叫び声を上げようとするのに、大きく開かれた震える口にはこれ以上必要ない空気ばかりが吸い込まれる。
先生の手のひらから伝わる意識、無数の鋼の腕が、頭の中にある扉を激しく叩く。
ボロボロに崩れかけた鍵は、もう。
「いやぁっ!!」
開け放たれた扉から、眩しい白い光が私を包む。
その向こうから迫り来る、深い闇。
夢中で額にあてられた手を振りほどこうと、両手でその腕を力任せに掴むのに、うまく力が入らない。
防壁を失った記憶たちが、襲い掛かる暗闇に引きずり出されていく。
それは、コンピューターがファイルを探し出すように、すばやく正確に。
もう、だめかもしれない。
だけど、嫌だ。
絶対に、北原のこと、忘れたくなんかない。
頬を熱いものが伝っていく。
泣いてる場合じゃないのに。
引き止めようとした大切な記憶が、少しずつ切り取られていく。
あの日のことも。
キスをして顔を上げると、そこには誰もいない。
まるで、夢を見ていたみたいに。
幻みたいに、消えていくなんて。
北原。
北原、助けて……。
「桜井!」
声が聞こえてすぐに、頭がふと軽くなった。
支えをなくした私の身体は、ぐらりと揺れて床に転がる。
机同士が重なり倒れる音がしたあと、焦点の合わない私の瞳に、ぼんやりとキレイな顔の男の子が映った。
私の記憶は、脳は、それが、北原だと認識する。
「北原……」
よかった。
まだ、覚えてる。