file5 「eternal」
気になっていることを、考えないようにするのは難しい。
何より考えないようにするために、そのことを思い出してしまうのだから。
私の能力って、本当に相手にしてみればこの上なく迷惑なものだと、あらためて細胞レベルの遺伝を呪った。
あと数日で南海先生の実習期間も終わる。
そうすれば、私の周りにいる大切な人たちを巻き込むこともなくなるだろうなんて、甘い考えなのかもしれない。
「しおりちゃん、北原くんとケンカでもしたの?」
「えっ!?」
「だって、教室で勉強するなんて、めずらしいから」
「あ…いや、べつにそんなんじゃないんだけど、なんとなく、ね」
「ふーん」
クラスメイトもまばらになった放課後の教室に、さっきまで姿の見えなかった香奈が、フルーツミックスジュース片手に、カバンを取りに戻ってきた。
香奈の言うとおり、めずらしく教室でひとり参考書を広げていた私は、香奈に変な誤解を与えないよう、笑ってみせる。
いつもならまっすぐ部室に行って、むこうで勉強するのだけど、今日は行動パターンを変えた。
川島くんも今日は講習で部室に来ないし、誰にも邪魔されずに勉強できる環境ではあるのだけど、今、ひとりになるのは怖かった。
教室なら北原との約束の時間まで誰かがいるだろうし、この教室じゃなくても、隣のクラスとか、声を出せば誰かに聞こえる場所にいたい。
香奈はカバンを持って私の前の席に座ると、細いストローでジュースを啜った。
「私、保くんとケンカしちゃった」
「……嘘でしょ!?」
顔を上げると、香奈はストローを離した唇を前に尖らせて、目を伏せた。
そして、甘い溜息を吐いた。
「だって、え……ちょっと、あんなに仲良かったのに、何があったの?」
「しおりちゃん、私ってワガママかなぁ?」
と、また大きく息を吐き、天井を見上げた。
きっと香奈と楠木くんのことだから、明日には仲直りしてべたべたくっついてるような気もする。
でも、香奈の唇がぴくりと震えたのを見て、やれやれと思いながらも私は口を開いた。
「大丈夫よ、香奈。そう思うなら、ちゃんと謝ったら?」
恨めしそうな香奈の瞳がこっちを向いたあと、納得しないと言いたげに眉を上げる。
「ホントにしおりちゃんも、北原くんとケンカしてないの?」
「……そんなふうに、見える?」
「だって、しおりちゃん、この前はすっごくニヤニヤしてたのに、今日は超落ち込んでるみたいだし」
妙な指摘をされて、私の脳裏に北原とのキスが浮かんで消えた。
確かに、あの放課後から昨日の日曜日まで、頬が緩みっぱなしだったかもしれない。
思い出すと、誰かに見られたわけでもないのに恥ずかしくなるけど、今はそれどころではないのだと唇を噛んだ。
「ほら! いつもなら、何でもないとかってムキになって怒るのに、今日、しおりちゃん、何だか変だよ」
「……そ、そう?」
うんと眉根を寄せて強く頷く香奈に、いつもの自分の行動を言われて苦笑した。
そう、少しだけ、緊張してる。
こうしているうちにも、何かがまた起こっているんじゃないかって。
ノートの上に手にしていたシャープを置くと、すかさずその手を香奈の両手が包み込んだ。
驚いて香奈を見ると、心配そうにこっちを見つめてる。
「香奈……?」
「しおりちゃん、何か悩んでることがあったら、相談してね。私じゃ頼りないかもしれないけど、絶対力になるから」
「え、あ…う、ん」
突然のことにぎこちなく頷くと、香奈は両手を離し膝の上に戻した。
「私ね、ずっとしおりちゃんに言わなきゃって思ってたことがあって」
もしかして、講義室に閉じ込められていたときのことを思い出したのだろうか。
南海先生が消したはずの記憶が、蘇ったとか。
一瞬にして空気が止まるような感覚に、私は息を飲んだ。
香奈はためらいがちに笑うと、私が予想していなかった言葉を口にした。
「しおりちゃん、ありがとう」
「へ……?」
白い歯を見せて笑う香奈に、思わず全身の力が抜けた。
誰かが見たら、私は今、口を開いたままマヌケな顔をしてると思う。
「ずっと、ずーっとちゃんとありがとうって言おうと思ってて、言いそびれちゃって」
香奈に、そんなふうに感謝されるようなこと、今までに何かしただろうか。
私が何を言われているかわからないと察知したのか、香奈は少し困った顔をする。
「北原くんのこと、怪我させちゃうようなことしたのに、あのあとも、しおりちゃん、ずっと私と一緒にいてくれるでしょう? あんなことして、本当だったら今頃みんなからも無視されて、学校にも来られなかったかも」
夏休み前の話だ。
思い出すと懐かしくなるくらい、ずっと前のことのような気がする。
先輩を想うばかりに、香奈は北原に対して行き過ぎたことをして、最後には刃物で北原の手の甲に傷を負わせてしまった。
「しおりちゃん、あの時私のせいで、みんなから無視されたりしたのに、私がしたこと、誰にも言わないでいてくれたし。ずっと、私の味方でいてくれて、すごく、嬉しかった」
「だって、あれは……香奈だけが悪かったわけじゃないんだし」
たくさんの人の想いが重なり合って、物事が悪い方向に向かってしまっただけ。
あの時は、相手が北原で最悪だと思ったけれど、むしろ、北原で良かったんだ。
だから私たちはみんな、今も繋がっていられる。
そんなこともあったと思い返すと、自然と頬が緩んだ。
「しおりちゃん、私たち、大人になって、おばあちゃんになっても、ずーっと親友でいようね」
「わかった、香奈」
「え?」
「今、楠木くんとケンカして淋しいから、急にそんなこと言うんでしょ」
「ち、違うってば!」
香奈が心細くなってるのは、絶対。
だけど、そんなふうに思ってくれるのが嬉しくて、ちょっとだけ照れくさくて、つい茶化すようなことを言ってしまった。
唇を尖らせて、そんなことないと言う香奈に、適当に相槌を打ちながらも、私はあの講義室での香奈の怯えた瞳が思い出されてならなかった。
「私、絶対しおりちゃんと北原くんの結婚式で泣くから」
「なっ!?」
どうしてそこまで話が飛ぶの!?
ありえない話だと、私が笑い飛ばすと、香奈は真剣な顔で……むしろ、剣幕で反論した。
「しおりちゃんみたいな人には、北原くんしかいないと思う!」
「ちょっとそれ、どーゆーイミ?」
「だって、しおりちゃん、ちょっと変わって……」
そう言いかけて、香奈は慌てて両手で口を塞いだ。
大きく開いた瞳をぐるりと泳がせる。
「北原は変人だけど、私はいたってフツーよ」
と、思ってる。
確かに、みんなと違う感覚を持ってるけど。
両手を離した香奈の口元が、笑うのをこらえて、ぷるぷる震えていた。
「北原くんも、ちょっと変わってるけど、しおりちゃんも同じだよ」
わずかに遠慮したのか、小さな声で香奈が言ったあと、たえきれずに笑い出した。
ごめんと口では謝りながらも、笑い続ける香奈に怒ったふりをする。
この春まで、私はずっと友情や恋愛なんて面倒で大嫌いだった。
それは私が表面上しか知らなかったし、それ以上知るのが怖かったから。
失いたくない、大切な存在。
香奈のこの笑顔を、もう二度とあんなふうに泣かせたりしない。
私は、あの人と同じ道は選ばない。