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色彩の無い空間は、温度も、感情も、何も存在しない。
目の前では、HRを終えたクラスメイトが、賑やかに教室を出て行くところだった。
でも、その音が、聞こえない。
見慣れた教室から、こっちに声をかけて出て行くのは、知らない顔ばかり。
表面上は、このクラスの一員として、極普通に溶け込んでいるのに。
誰にも打ち明けられない心の中は、孤独。
自分で作り上げた塀が、あまりにも高くて。
そして、それは自分が悪いのだと、理解している。
まるで、私だ。
だけど、この世界は、南海先生のもの。
なるべく目立たず、そつなく適当に周りと歩調を合わせ、何も知らないふりをして笑ってる。
誰かにわかってほしいのに、誰にも触れてほしくない心の中。
『でも、彼女なら、わかってくれる』
暖かな色を帯びた南海先生の声がすると、一際華やかな笑顔がこちらに向けられた。
肩より少し伸びた髪をなびかせ、目の前に来ると、全てを受け入れてくれるような優しい笑顔で私の……南海先生の手を取った。
柔らかい感情の波が伝わり、胸の奥で静かに溶ける。
広がる甘く切ない気持ちが心地よい。
『ずっと、一緒にいるよ。
柊くんの隣で、私が柊くんを守ってあげる。
だから、そんなふうに「ひとり」になろうとしないで』
真っ直ぐに、じっと目を見て訴える彼女は、心の中に小さな希望の光を灯してくれた。
私の心に、北原が足跡をつけたように。
シアワセの裏側に見え隠れする不安も、目の前の彼女が打ち消してくれると信じてる。
でも。
彼女の顔が、表情がぐにゃりと歪んだ。
背後にあった教室の風景が、一面の闇に変わる。
『何を、考えてるの?
あなただけ、私のことを何でも知ることができるなんて、ずるい』
暗闇に白く浮かび上がる彼女の顔から、笑顔が消えた。
それでもまだ、躊躇いがちに笑おうとしてる。
彼女の、言葉にならない猜疑心の塊が、重い鉛となって脳内に響きわたる。
気持ちをできるだけオブラートに包んで口から吐き出しても、その心の奥が、聞きたくない言葉が、南海先生には聞こえてしまう。
『わずかな気持ちの変化も、ささいなことでも、あなたには聞こえてしまうのね。
ねぇ、私はどうしたらいいの?
あなたに秘密なんかないの。
でも。
信じて。
違うの。
お願い、わかって』
『苦しいの』
『お願い、私に、近づかないで』
我慢できずに、彼女の瞳から一筋の涙が頬を伝い、そして、落ちた。
「……!!」
涙が零れた瞬間、今まで音の無かった空間に、ガラスが割れるような鋭く繊細な音が響きわたった。
思わず耳を覆うと、ぬるりと生暖かい感触に手のひらを見た。
彼女の光に照らされるそこには、赤い液体。
『ごめんなさい、ごめんなさい。
あなたのこと、傷つけたくないのに。
だけど、このままじゃ。
私、壊れちゃうよ』
顔をくしゃくしゃにして、笑いながら泣く彼女から、再び何かが剥がれ落ちる。
まるでパズルのピースが欠けていくように、彼女の一部が次から次へと下に零れ落ち、割れていく。
止めようと手を伸ばしたいのに、身体がこわばって動かない。
叫びたいのに、声が出ない。
どうすることもできない。
『だって、僕は、バケモノだから』
みんなと同じはずなのに。
やっぱり、だめなんだ。
わかってほしいけれど、そんなことを望んじゃいけないんだ。
彼らが、理解できるはずがない。
闇の中に膝をつき、形を失くした彼女のかけらを手ですくう。
白く輝いていたはずの光は明るさを失い、砂が指の隙間から流れていくように、両手の中で闇と同化し消えた。
背後から、孤独を笑うように風が吹きつける。
消えたのは、目の前の彼女だけじゃない。
わずかな希望の光も、以前と同じ闇の中に消えた。
それなら、最初からなければよかったのに。
期待しなければよかったのに。
風に体温を奪われて、身体が震える。
熱く甘い感情も、なにもかも、流れている血液もすべて凍りついてしまえばいい。
でも、自分を殺す勇気なんて、ない。
だから、重い十字架を背負ったまま、このまま、生きていくしかない。
目が覚めると、私は地面にぺたりと座り、南海先生の腕の中で泣いていた。
繰り返す嗚咽で何度も身体が揺れる。
「彼女は、一生懸命過ぎたんだ。もう原因なんか忘れちゃったけど、たぶん、些細なことでケンカしたんだ。そして、彼女は僕を裏切った」
私の髪を撫でる先生の指先から、わずかな憎しみが伝わってきた。
「周りの人間に、僕のこの能力のことを話して、あんな変なヤツとは付き合えないと言いふらした。だけど、周りはどうしたと思う?」
指が止まり、私を強く抱きしめて、先生は静かに嘲う。
「彼女の頭がおかしくなったってさ。当然だよね。人の心が聞けるなんて、そんなこと、いきなり言われて信じられるわけがないだろ? もちろん、みんな直接僕に話を聞きに来たよ。だけど……僕は彼女の裏切りが許せなかったんだ」
『だから僕も、彼女を裏切って、みんなと一緒になって彼女を笑ったのさ』
今もまだ、先生の心の中には冷たい風が吹きつけている。
指先は熱を帯びていても、伝わる感情は温度を失ったまま。
私を抱きしめる力が強くなるのも、身体が震えていることを私に悟られないがため。
「そして、彼女は……本当に、狂ってしまった」
『僕の、せいだ』
「でも、そうすることしかできなかった」
いばらの感情が、すがりつくように私の中に入り込み、先生の中から戻ってきたばかりの私に絡みつく。
でも、痛みは、ない。
むき出しのはずの棘は、その感情の内側を向いて、南海先生を苛み続けている。
もがいても自分の傷を深めるだけだと知っているのか、どこか静かで、それがなおさら悲しかった。
「僕を、受け入れて」
何をどうしたら、先生の棘をぬいてあげることができるのか、私にはわからない。
ただ、今まで誰とも感じたことのなかった何かが、共鳴しているのがわかる。
そこから生まれる柔らかな光が私たちの絡まりあった感情に降り注ぐと、ゆっくりと解け、溶かされていく。
あとに残るのは、優しく甘い感覚と、細かな光の粒子。
『やっと、めぐり逢えた』
癒されていく、先生の感情。
でも、私は。
『お願いだ。もう、ひとりになりたくない』
南海先生の悲しい思い出の中にいた彼女と、北原の影が重なる。
私もいつか、今まで以上に彼を傷つけてしまうのだろうか。
そんなふうに思うのは、先生の感情がまだ私の中に残っているから……?
「僕は、君を突き放したりしないよ」
その言葉に、しまいこんでいたはずの記憶が引きずり出される。
触れることを拒む、北原の態度。
本意じゃなかったとわかってる、でも。
「ずっと、一緒にいよう」
こんな厄介な私なんかより、彼の隣にいるべき人は、他にいるのかもしれない。
そして、私が一緒にいるべき人も、自分に見合ったふさわしい人なのかもしれない。
涙と一緒に熱い感情が冷まされていく。
私の背中からも、風が吹いた。