file4 「ESP」
例えば。
国語は日本語だから、この先もきっと役に立つに違いない。
英語は、国際社会といわれる世の中だし、まぁ、それなりに覚えていた方が便利なんだと思う。
だけど。
xとyはともかく、∑とか、αだβだ……こいつら、一体、何!?
「うぅぅ……」
低い唸り声を上げて、私は机に突っ伏した。
「わからないぃ……!」
「ったく、うっせーな」
「……ごめん」
向かい側に座って、同じく問題集を広げていた川島くんに怒られて、顔を上げて小さく溜息をついた。
適温に保たれた部室には、冬の暖かな日差しが差し込んでいる。
穏やかな、日曜日。
なのに、私は学校の部室で、しかも問題集なんか広げて朝から勉強中。
北原は午前中だけ講習に出ていて、私と川島くんはテストも近いからと、ここで勉強している。
午後からは、ふたりとも北原にいろいろと教えてもらう予定だ。
すいすい問題を解いているようにみえる川島くんに比べ、私は苦手な数学の問題をちっとも解けないでいる。
数式を見ると、拒絶反応で脳細胞が停止してしまうみたい。
……なんていうのは、北原にとって言い訳にしか聞こえないはずだ。
壁にかけてある時計は、10時半を丁度過ぎた位置を指している。
「休憩しよーっと」
小さい声で呟くと、川島くんの三白眼が下からぎろりと私を睨みつける。
「またかよ!」
「またって、まだ一回しか休憩してないし」
「しっかり伊吹には報告するからな」
「……だって」
「だって、何だよ」
「ホラ、やっぱり息抜きしないと、頭に入るものも入らないでしょ?」
苦しい言い訳だって、自分でもよくわかってます。
いっと白い歯を見せて笑ってみせると、頬を引きつらせた川島くんが呆れてる。
「ま、浪人したら俺と一緒にまた受験だな」
「えっ!?」
「俺も伊吹と同じ大学行くつもりだから」
「……川島くんが、獣医?」
北原が動物のお医者さんになりたいと聞いたときも驚いたけど、川島くんが動物と戯れる姿も想像できない。
「ちげーよ。俺は工学部」
「はは……だよね」
「つーか、しおりこそ、伊吹と一緒だからって、獣医学部で大丈夫なのかよ」
「あぁ……うん……」
「その苦手な数学、必須だろ?」
「え、そうなの?」
「……って、おいっ!!」
目くじらを立てて私に突っ込みを入れた川島くんは、そのまま脱力して頭を抱えた。
大学の入試試験の仕組みは、この前北原から教えてもらったばかりだ。
だけど、とにかく今は基本を押さえることだと言われて、なるべく満遍なく勉強しているつもりなんだけど。
本来そうではないということが、目の前の川島くんを見ていると、なんとなくわかった。
大学についても、他にどんな学部があるのか、まだちゃんと調べてないし。
「とりあえず、休憩っ!」
「しおりーっ!」
川島くんが呼び止めるのも無視して、私は部室を抜け出した。
ほんのちょっと、10分くらい休憩したっていいじゃない?
外に出て思いきり背伸びして、両手を空に向かって伸ばすと気持ちいい。
進路や勉強のことはもちろん、これから考えなきゃいけないことだけど。
「平和、だなぁ……」
体育館からは、体育会系の部活の賑やかな掛け声が聞こえてくる。
温室にはたっぷりの太陽光が注がれて、中にある植物たちも気持ち良さそうだ。
階段を降り、温室に向かいながらも、私はまた香奈のことを思い出していた。
でも、事件はまるで何もなかったかのように、誰彼の記憶からも消えようとしているようで。
あの事件以降、香奈の身に何かが起きることもなければ、やっぱりあの私に返事を求める声も消えたまま。
このままで、本当にいいんだろうか。
私は温室に入ると、すっかり棚の奥へと追いやられてしまった、倉田先生にもらった名も無き花に手を伸ばした。
花が咲くと、願いが叶う、不思議な植物。
倉田先生と私の願いを受け止めるように咲いた花は、北原の願いをきいた後から見事に花芽を付けない。
つい憎らしくなってしまうけど、そんな気持ちは堪えて葉に触れる。
『桜井が、俺と同じ大学に行けますように』
北原は、そんな願いをこの植物に掛けたのだ。
来年の今頃、花が咲いてくれることを願うけど、こんなふうに放置されてちゃ咲きそうにない。
今、このコの面倒を見ているのは北原のはずなのだけど。
「まったく……」
役目を終えて枯れた葉が、ちりちりになって垂れたまま。
私はその葉を取り除き、土が乾いてないか確かめる。
「大丈夫…っと」
葉を撫でると、返事をするように、キラキラとした粒子が指先から伝わってくる。
思わず微笑んで手を離し、私は両手のひらをあらためて見つめた。
南海先生が、私と同じ能力を持っていると知った時、私の心の中を見ることができると聞いたとき、私自身、すごく困惑した。
そして初めて、聞かれてしまう側の立場になって動揺した。
いつも聞こえてくるばかりで、聞こえる身にもなって欲しいなんて考えていたけど。
こんなことをまだ考えている私を、馬鹿だと北原は笑うけど、本当に不安じゃないんだろうか。
北原がキスして抱きしめてくれた時、私も必死だった。
北原の気持ちが聞こえないように、頭の中の扉を懸命に閉じて。
でも、本当は何を考えてるのか知りたくて。
上手く、聞かないフリして聞いてしまえば良かったのかもしれない。
だけどその後、何もなかったようにできる自信なんてない。
好きになればなるほど、どうしたらいいか、わからなくなる。
恋愛って、付き合い始めるのがゴールみたいに思っていたけど、そうじゃない。
北原のことは、信じてる。
それなのに、私の不安が消えない。
こんな力、無ければ良かったのに。
正義のためと思ってしてきたことも、本当に正しかったことなのか。
結局は、幼い頃のお節介みたいに、ただの独りよがりだったのかもしれない。
『そんなこと、ないよ』
その声に、私は息を飲んだ。
そして、ゆっくりとあたりを見回す。
『大丈夫。あなたがしてきたことは全部、間違いなんかじゃない』
何か言葉を出そうとした私の唇が、声を失ったままぱくぱくと動く。
あの、声だ。
ずっと、助けを求めていた、私に返事をしてほしいと叫んでいた声。
混乱と困惑が同時に訪れて、私は身体をこわばらせた。
「全て話すから、怖がらないでほしい」
反射的に身体が危険を感じて、彼を避けるように後ろに数歩下がった。
北原に言われたとおり、やっぱり私は馬鹿で鈍感だ。