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「じゃあ、またね」
そう言って南海先生は私の横を通り過ぎると、北原とすれ違い様、私のほうを振り返って微笑んだ。
先生の姿が階段の向こうに消えると、彼を追っていた北原の視線が私を見つける。
何も言わず、かといっていつものように睨み付けるわけでもなく、じっと私を見たまま立ち尽くす北原に、私はあることを思い出して青ざめた。
「ご、ごめん!!」
私は両手で頭を抱えて、次にはその手を顔の前で合わせて北原に深々と頭を下げた。
「今日、勉強教えてもらう約束だったよね……」
ゆっくり頭を上げながら、北原の様子を伺ってみる。
相変わらず何を考えてるかわからない無表情のままだ。
私はうなだれたまま、少しずつ北原のほうへ足を進めた。
今日は、有志を募った講習だから私の勉強に付き合ってくれると、以前から約束してくれていた日だったのに。
私のバカ。
今の今まで、すっかり忘れてた。
「実は昨日、香奈がここで」
「聞いた」
私の話を遮るように、北原が口を開いた。
「都子から、今聞いてきた」
「あ……そ、う……」
淡々と抑揚のない北原の声と、マヌケな私の声が、誰もいない廊下に響く。
そして、再び訪れたのは、耳が痛くなりそうな沈黙。
「怒ってる、よね?」
聞くまでもないことを口にする私。
いつもなら明確に怒りが瞳に現れるのに、今の北原にはそれがない。
静かに瞬きをして、まるで気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐く。
「何してた?」
押し殺したような声と共に、嫌な緊張感が肌を通して伝わってきた。
同時に、胸の中が締め付けられるような錯覚に陥る。
「何って…だから、香奈をここに閉じ込めた人の何かが残ってないかって、ちょっと調べてたんだけど」
「貧血、だったんだろ?」
「それは違うの! ホリちゃんも信じてくれなかったんだけど……昨日、私が香奈を見つけたとき、香奈、ロッカーの中で」
北原の眉がぴくりと動く。
「本当なの。香奈本人も……どうしてかわからないけど、倒れたって言ってるけど。でも、本当に口にもガムテープ張られて、手首も、足首にもぐるぐるテープが巻かれて、ロッカーの中に閉じ込められてたの」
あの時の、恐怖に怯える香奈の瞳が脳裏に蘇る。
私がこの目でしっかり見た事実なのに。
でもきっと、北原だったら信じてくれるはずだ。
「南海先生は?」
「え?」
「どうして一緒に?」
一度言いかけた言葉を飲み込んで、私は口をつぐんだ。
僕のことは絶対に誰にも言わないで。
南海先生の言葉が、頭の中でリフレインする。
北原には話しても大丈夫、私はそう思うけど、でも。
私は大きく息を吸った。
「昨日のこと、ちゃんと順番に話すね。まず、香奈がいなくなって」
「いいよ」
「……何?」
「もう、昨日のことはいい。まだ調べたいなら好きにしろよ。俺は先に部室に行ってるから」
私を見下ろしていた瞳が空中を彷徨って、北原は私に背を向けた。
どうして。
ぷつりと糸が切れてしまったみたいに、突き放されたような気がした。
「待って……!」
だけど、階段を降りていく背中は、振り返ってくれない。
怒ってるのは確実だけど、理由はきっと、今日の約束を破ったことだけじゃない。
まさか、川島くんが南海先生と私の「あのこと」をしゃべっちゃったとか?
ううん、川島くんに限って、そんなことしないはずだ。
ホリちゃんが余計なこと言ったとか……。
北原がこんな態度を取ってしまう原因をぐるぐる頭の中でめぐらせながら、私も階段を降り、北原の横に並んだ。
「ごめんね。でも、昨日のことは、ちゃんと話したいの。北原にはわかってほしいし、どんなふうに思うか意見も聞きたいし」
「南海先生は、わかってくれてるんだろ」
「え?」
「別に俺じゃなくていいなら、余計なことは聞きたくない」
「……北原」
そんなんじゃ、ないのに。
今まで、何かが起きた時、ちゃんと向き合ってくれたのに。
すくんだ足が北原との距離を少しずつ広げていく。
「どう…して……?」
体中をどくどく音をたてて巡る血液が、まるで温度を失くしてしまったようで。
焦っているのに、どうしたらいいかわからない。
私は駆け寄って、北原の腕に手を伸ばした。
「触るな」
明らかに嫌悪を帯びた声色に、私はすぐ手を引っ込める。
磁石の同極同士が瞬時に離れてしまうように、北原の腕もまた、触れられるのを避けて遠退いた。
「ごめん、なさい……」
搾り出した声が震えた。
渇いた喉に無い唾を強引に飲み込んで、私は唇を噛んだ。
今までが、あまりにも上手くいきすぎていたから。
いつだって、北原が最初に手を差し伸べてくれたから。
だから、こんなふうに背を向けられると、何をどうしていいのかわからない。
私にとって、その言葉がどれだけ重くて悲しい意味を持つのか、北原だってわかってくれているはずなのに。
すぐそばにある背中が、とても遠い気がして。
何か言葉を口から吐き出さなきゃ、込み上げてきたものが、睫毛の先から零れ落ちそうで。
だけど。
いつも肝心な時に、バカな私は言葉が見つからない。
息を殺してうつむくと、涙がひとつ、落ちた。
「そんなことより、月末のテスト」
そう言って、やっと振り返ってくれた北原に、私は慌てて涙を拭って顔を上げた。
目が合うと、北原は呆れたように溜息を吐いて頭を抱えた。
「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
広がった距離を埋めるように、一歩ずつ階段を上がってくる北原に、涙なんか見せないつもりだったのに。
私より一段下、すぐ目の前に北原の顔が現れた時、瞬きをした私の瞳から、我慢していた涙が次から次へと溢れ出した。