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私のこのチカラは、一体何のためにあるんだろう。
何も得られない焦燥感から浮かび上がってきた疑問に、閉じていたはずの瞳をゆっくり開き、私は頭の中の扉を閉じた。
そして、やっぱり何の手がかりも残されていないドアから両手を離す。
あれから、ホリちゃんの声や、おそらく誰か先生のものと思われる意識が残されていたけど、それ以前のものは見つけられない。
無駄。
私だってわかってる。
だけど、それじゃあ……。
「桜井さん」
沈んだ気持ちを持ち上げてくれるような明るい声に、私は声の主を見た。
「南海先生」
「温室に行ってもいないし、もしかしたらここかと思って」
先生の笑顔に、少しだけ気分が軽くなる。
そして私はあからさまに不機嫌な顔をした。
「先生、聞いてくださいよ。ホリちゃん、今日なんていったと思います? 昨日の香奈のこと、白々しくそんなことあったかしら? って。もう、信じられないっ」
そうなのだ。
改めて昨日のことを相談しに行ったのに、ホリちゃんはまるで全部忘れてしまったみたいな顔でそんなことを言ったのだ。
私の必死な説明も邪険に扱われて、あっさり保健室を追い出されてしまった。
ホリちゃんだけじゃない。
香奈は香奈で、何事もなかったようにケロっとしてるし。
私ひとりで心配して、おろおろして、放課後にこんなことして。
「桜井さんも知ってるでしょ、この学校の体質」
「え?」
「臭い物には蓋。それも、穏便にね」
「………」
私の中で、今まで起きたいろいろなコトが蘇ってきた。
香奈が起こそうとしていたこと、そして、実際にケガを負った北原。
あの時のことはまだしも。
川島くんがしたことと、しようとしていたことは、明らかに犯罪だった。
おそらく先生方もめぼしが付いていたにもかかわらず、もしかしたら大惨事になるかもしれないことを予想していながら、何もしなかった。
だけど、そのおかげで、私たちは今、一緒にいることができるんだけど。
プロスポーツ選手や有名大学に進学するものを輩出するブランド高校。
それに傷をつけないために、安易なスキャンダルは必要ない。
「相沢さん自身、あのことを覚えてないなら、それでいいと言われてね。だから昨日はそのままを堀口先生に伝えたんだ」
「だけど、もし、これから先、また香奈に何かあったら……」
仕方ないとでも言いたげに、南海先生は眉を上げた。
「私はそんなの……許せない」
香奈にあんなことをした犯人はもちろん、事実を覆い隠そうとする先生方も、それになじんでしまったホリちゃんも。
そして、事実を知っていながら、目をつぶろうとしている南海先生も。
「でもね。忘れてしまった方がいいことって、あると思うよ。相沢さんの場合、酷い恐怖だったと思うんだ。忘れなきゃ、トラウマになってしまうかもしれない。だったら、無理に事実を伝える必要なんかないと思わないかい?」
「それは……」
「だけど、もちろん僕も今後彼女が危険な目に合うかもしれないのを、ただのんびり待つ気はしないからね。少しでも、君の力になれたらと思って。それで、桜井さんのこと、探してたんだ」
爽やかな笑顔でそんなことを言われると、思わず眩暈がしそう。
……なんて、そんなこと言ってる場合じゃないのに。
「それに僕は、ほら……同じ、でしょ?」
少しおどけて、広げた両手のひらを私に見せる。
「あ……そう、ですよね」
そうだ、そうなのだ。
昨日はなによりも香奈のことしか、あんなことをした犯人のことばかり考えていたけれど。
南海先生も、私と同じ能力があるんだった。
信じられなかったけど、あの香奈の声を聞き取ったのだから、嘘じゃない。
「先生も、触れたものの声が、聞こえるんですか?」
「触れてなくても、例えば、桜井さんが今何を考えてるのかも、聞こうと思えばできるけど」
「えっ」
ちょっと待って!
そんなこと言われたら、何かちゃんとしたこと考えなくちゃ。
えっと、変なこと思っちゃ恥ずかしいから……うーん……。
馬鹿みたいに思いをめぐらせていると、南海先生が笑い出した。
「大丈夫、このへんのマナーは弁えてるから、好奇心だけで覗いたりしないよ。安心して」
「は…はは……」
そんなの、逆に必死なのを見抜かれたみたいで冷や汗が出た。
だけど、こういう感覚って、きっと……。
誰かさんの顔が頭に浮かんできた時、南海先生が口を開いた。
「僕も、あのあと何か言葉が残されてないかと思って、いろいろ辿ってみたんだけど。変、だよね?」
「あ、はい……そうなんです」
同じチカラがあるのだから、当たり前なのかもしれないけど、そのひとつひとつに私は驚かされる。
信じてくれることと、共有できることは、こうも違うのだ。
言葉にしなくても、同じものを感じられる。
「何も、無くなってる……いや、違うな、真っ白な意識が、上に塗られてるような、そんな感じがする」
そう言って、先生はドアに手を触れた。
真っ直ぐに伸びた指先は、初めて会った時、温室でアイビーを撫でていたもの。
私の気持ちがわかる、っていうのは、本当のことだったんだと思う。
そして、あの指先が私の頬に触れた日。
気がついたら、先生の顔が、真剣な瞳がすぐそこにあったのだ。
私はごくりと息を飲んだ。
とたんに顔が上気していくのがわかる。
「どうしたの?」
「え、や、あ……な、なんでもないですっ」
首をかしげる先生に、私は両手を振って愛想笑いした。
頭の中にある映像をかき消して、次の言葉を探しだす。
「そうだ。先生、最近変な声、聞こえませんでしたか?」
「変な声?」
「私は、ほとんど触れたモノの声しか聞こえないんですけど、その声は、どこからともなく聞こえてきて……助けてとか、淋しいとか。返事をしてって、呼びかけてくるんです」
でも、毎日聞こえていたはずの声は、今日ぴたりと止んだ。
正確には、昨日香奈の声が聞こえ始めた時には、もう聞こえなくなっていたのかもしれない。
南海先生はドアに触れていた手を離して、眉を寄せて一度首を振った。
「ごめん。僕には、わからないな。相沢さんのことと、関係がありそう?」
「関係があるかどうかは、わからないんですけど……私のこの能力をまるで知ってるみたいに語り掛けてきて。ちょっと、怖くて」
「そうか……そういう不安、よくわかるよ」
顔を上げると、南海先生が少し悲しい瞳をして微笑んでいた。
たぶん、先生もこのチカラのせいで、聞かなくてもいいことを、できるなら聞きたくないことも聞いてしまったはずだ。
「大丈夫?」
「はい……先生が一緒なら、心強いです」
ひとりでもわかってくれる人がいるなら、それが同じモノを共有できる人なら尚更、たとえ相手が見えなくても強くなれる気がする。
ふと先生の顔が階段のほうを向いて、私もつられるように視線を送る。
階段を上ってくる足音とその姿が重なるのと同時に、私の耳元で南海先生が囁いた。
「昨日も言ったけど、僕のことは絶対に誰にも言わないで」
現れた人物が誰かすぐにわかったのに、彼と目が合うよりも先に、私は南海先生を振り返っていた。
彼に背を向けた私と、私に顔を近づけていた先生がゆっくり離れていくのを、彼の瞳にどんなふうに映っていたかも知らずに。
私は黙って先生に頷くと、改めて彼を振り返った。
「桜井……」
北原がいつもと違う気がしたけど、それが冷静さを失っているからだということに、その時の私は気付くことができなかった。