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「え……香奈?」
放課後、保健室に香奈を迎えに行くと、すっかり顔色も良くなってソファに座り、ホリちゃんに差し出されたミルクティに口をつけていた。
さりげなくあの時のことを聞き始めたホリちゃんに対して、香奈が返した言葉に私は愕然とした。
「なんだ、ただの貧血だったのね?」
気が抜けたようにホリちゃんが笑うと、次には私のことを睨みつけた。
「しおりったら、相沢さんの手足が縛られてた、なんてこと言うのよ? もう、大事件が起こったのかと思ってびっくりしたじゃない」
「え?」
目を丸くして驚いて、香奈が隣に座っている私を見て笑う。
「なんでそんなこと言ったの、しおりちゃん」
声を上げて、さも面白そうに、いつもの香奈が笑ってる。
本当に、何も無かったみたいに。
何でそんなことを言うのか、同じことを聞き返したかった。
「だって、香奈……」
「担任にね、去年の卒業式のDVDを取って来いって言われたの。それで教えられたロッカー開けたら、なんだかわかんないけど、たくさんプリントとかファイルが落ちてきちゃって、それを拾おうとしたところまでは覚えてるんだけど……立ちくらみみたいに、目の前が真っ暗になっちゃったの」
唇を尖らせ困った顔をして、上目遣いで私とホリちゃんのほうへ視線を送る。
そして、申し訳なさそうに、ごめんなさいと続けた。
「謝ることじゃないわよ。授業をサボってた誰かさんが、イケメン教育実習生と一緒に見つけてくれたわけだし」
「えっ、ホント?」
いつもなら、事実と違うホリちゃんの言葉に突っ込むところだけど、香奈の態度に私はただただ驚いていた。
「香奈、本当に覚えてないの?」
息を飲んで、私は香奈の手首にそっと触れた。
ごめん、本当はこんなことしたくないんだけど。
香奈を信じてないわけじゃないけど、それならどうしてそんな嘘をつくのか、教えて。
真剣な私に対して、香奈は何度も瞬きをして、そのあといつものように笑顔を見せた。
「う…ん、ごめんね、しおりちゃん。本当に私、あの時からさっきここで目を覚ますまで、何も覚えてないの」
『どうしちゃったのかな? 本当に何かあったの?』
『でも、どうして南海先生も一緒だったの?』
『もしかして、北原くんと進展しないとかって悩んでたから、大人の南海先生と浮気しちゃってるとか?』
『ダメダメ、そんなことしおりちゃんに聞いたら、また怒るに決まってるもん』
『保くん、心配してるかなぁ』
『それにしても、しおりちゃん、どうしてこんな怖い顔してるの?』
私は思わず香奈の手を離して、いっと歯を見せた。
「じゃあ、香奈は南海先生がお姫サマ抱っこしてくれたのも、覚えてないんだ」
「えぇぇぇっ!? 何それーっ、うそぉーっ!」
両手で頬を包みこみ、絶叫すると、香奈はみるみる顔を赤らめた。
そして、潤んだ瞳で切なげに溜息をつく。
「どうして覚えてないんだろう、もったいないぃ」
やっぱり、香奈が私に嘘をついているようには思えなかった。
あの時の、常軌を逸した香奈の様子はしっかり私の目に焼きついてるのに。
でも……。
香奈がいつもどおり元気になって、良かった。
そのとき、ドアをノックする音がして、香奈のヒーローが登場した。
「保くん!」
「香奈! 心配させんなよ」
つい、今の今まで南海先生にときめいていたくせに、香奈はすぐさま楠木くんに駆け寄った。
そして、ここをどこだか、私たちがいるのをわかっているのか、楠木くんはかまわず香奈を抱きしめる。
見てられなくて顔を戻すと、目の前のホリちゃんに笑われた。
大丈夫? 心配させてごめんね。 怪我はない? 平気……。
愛を囁くような二人の会話に、私は消えてしまいたくなる。
「はいはい、そこまでにしてよ。楠木くん、ちゃんと相沢さんを家まで送ってあげてね」
もちろんです、と楠木くんの声が聞こえて、私はソファの背中越しにふたりを振り返る。
「しおりちゃん、ありがとう。また明日ね」
「うん」
バイバイと手を振り、楠木くんとしっかり手を繋いで、ふたりは保健室を出て行った。
「さぁて、しおりはどういう言い訳を準備してるのかしら?」
振り返るやいなや、さっきまで香奈が座っていた場所にホリちゃんが座ると、背もたれに肘をかけて目を細める。
「ホリちゃん」
「ナニよ?」
「例えば、だけど、あまりにもショックな出来事って、忘れちゃうこと、ある?」
変な言い訳なんてしない。
ただ真っ直ぐにホリちゃんの顔を見上げて私は聞いた。
「それは、相沢さんがショックで記憶喪失になっちゃったとでも言いたいの?」
「うん……」
「そんなの、漫画やドラマの話よ。実例がないわけじゃないけど、そのほとんどが狂言といわれるほど、信憑性のないものだし」
「だけど、香奈、本当にロッカーの中で縛られてて……」
でも、あの香奈のあっけらかんとした表情と、心の中の声。
私が見たものを否定してしまう事実が、香奈の中にあった。
「六時間目に私も大講義室を見に行ったけど」
「あ! じゃあ、あったでしょ、テープ!」
香奈の手や足の自由を奪っていたテープをはがしたのを、そのままにしておいたはずだ。
あのあと、犯人の意識を探しに行ったときにも、そのテープに何かが残ってないか確かめてきたし。
ただそこにあったのは、香奈の恐怖で怯える意識だけで、それを香奈に貼り付けたであろう人物のモノは残っていなかったのだけど。
ホリちゃんは徐々に顔をしかめて首を横に振った。
「そんなのなかったわよ。とにかく相沢さんが言ってたとおり、辺りは紙だらけだったから、片付けてきたけど?」
嘘、だ。
どうして。
必死にホリちゃんに訴えたいのに言葉が出なくて、開いたままの口をゆっくりと閉じ、唇を噛んだ。
「ねぇ、しおり、大丈夫? やっぱり勉強のし過ぎなんじゃないの。伊吹に少し言ってあげようか?」
「そんなんじゃない。だって、本当に、香奈は」
言いかけたところで、後ろのドアが開く音がして、私は再び唇をへの字に結ぶ。
「失礼します」
その声に、私は思わず振り返った。
「あら、しおりの新しいカレの登場だわ」
私の耳元でぼそりと囁くように言うと、ホリちゃんは立ち上がり、彼を迎える。
「どうしたの、南海先生」
「実は……相沢さんのことなんですが」
「あらら、誰かさんと同じね」
ホリちゃんの視線を追うように、南海先生の目が私を見つける。
よかった、南海先生なら、私と一緒にあの場面を見てたんだから、ちゃんとホリちゃんに話をしてもらおうっと。
ふたりが見たって言えば、ホリちゃんだって、信じてくれるはずだ。
南海先生は躊躇いがちに笑うと、口を開いた。
「ごめん、堀口先生に話があるんだ。桜井さん、ちょっとはずしてもらってもいいかな」
「あ……はい」
拍子抜けした私は立ち上がり、何か深刻そうな南海先生と、それを面倒くさそうな顔で腕を組んでるホリちゃんに追い出されるように保健室を後にした。