file3 「emotion」
「あら……一体どうしたの?」
私と南海先生の顔を交互に見たあと、ホリちゃんの視線は南海先生の腕の中にいる香奈に向いた。
眉をひそめ香奈のそばに来ると、頬や首筋に触れ、南海先生の顔を見上げる。
「まずは、彼女をベッドに運びましょ」
香奈はベッドに横になると、泣きはらした瞼を開いた。
その瞳がぼんやりと辺りを見回し、ホリちゃんのほうを向く。
「大丈夫? 痛いところはない?」
ゆっくりと頷く香奈に布団をかけ、ホリちゃんは微笑みながら汗をかいて前髪の張り付いた香奈の額に触れた。
「少し熱があるわね。ゆっくり深呼吸して、目を閉じて休みなさい。ね?」
ホリちゃんが乱れた前髪を指先で撫ではらうと、香奈は静かに目を閉じた。
それを見ていた私も、一度大きく深呼吸する。
香奈の様子を見ていたホリちゃんが目配せすると、私たちはベッドルームを出た。
「それで? 何があったのかしら?」
私を追い越しながら、ホリちゃんが押し殺した声で聞く。
机に置かれた湯気の立ち上るマグカップを手にすると、こっちを振り返り、私を睨んだ。
「あの……三時間目から香奈の姿が見えなくなって、それで、探してたんだけど」
「授業中に、南海先生と?」
「いや、あの……」
声が聞こえたとホリちゃんに話すことは簡単だけど、香奈が完全に眠っているとは限らないし。
本当の事情、南海先生も私と同じように声が聞こえた、なんて言ったら、そのあとが厄介になりそうで。
戸惑っていると、隣にいた南海先生が口を開いた。
「僕は偶然、桜井さんから彼女がいなくなって探してると聞いて、二人で手分けして探してました。そうしたら、別棟の大講義室に……」
「そうなの、ロッカーの中で、口元はガムテープ張られて、手足も縛られてて……とにかく、大変だったの」
「随分、物騒な話ね。本当なの?」
ひとくち口をつけたカップを机に戻すと、ホリちゃんは眉根を寄せて腕を組んだ。
私はホリちゃんの目を真っ直ぐに見て頷いた。
「あんな教室、いつもは施錠してあるはずだけど……まぁいいわ、相沢さんが目を覚ましたら、事情を聞いてみましょ」
今はまだ授業中だし、香奈が落ち着いてから、担任や彼である楠木くんに知らせればいいとホリちゃんは続けた。
「じゃあ、僕は、次の授業の準備があるんで、一旦職員室に戻ります」
「そうね。何かあったら、連絡するわ。桜井さんも授業に戻りなさい」
ドアに向かった南海先生の背中を見送ったあと、私は黙って首を横に振り、ホリちゃんの表情を伺った。
「私、香奈のそばにいます」
「大丈夫よ、心配しないで。ちゃんと私がそばにいるから」
私は唇を噛んでホリちゃんに目で訴えると、ホリちゃんは呆れたように眉を引き上げ、私の頭にぽんと手を載せた。
『次の休み時間にいらっしゃい。とにかく今は、南海先生も一緒だし、一度戻りなさい』
ホリちゃんの手のひらから伝わる言葉に、私は唇を結びなおし、仕方なく頷いた。
香奈が眠るベッドのほうを見やって、南海先生が開けたままの出口へ向かい、一礼して保健室を出る。
「見つかって、良かったね」
ドアが閉じてすぐに、安堵の溜息と共に、南海先生が言った。
私も頷いたものの、まだ良かったなんて言えない。
「桜井さん」
「……はい」
「ひとつだけ、約束して欲しい」
香奈のことばかり考えていた私は、はっとして顔を上げた。
「僕のこと、能力のことは、誰にも言わないでほしい。たとえ、君の親しい人にも、君の能力を理解してくれている人でも、絶対に」
優しいはずの南海先生の瞳が、深い闇の色に変わる。
ふと翳った表情に捉えられたまま、私が否定することは許されなかった。
「……わかりました」
返事をしたとたんに、南海先生はいつもの笑顔を取り戻す。
「桜井さんなら、わかってくれると思ったよ」
その言葉が、どれほど深い意味を持つのか、笑ってさらりと言えるようなことじゃないことは、私には痛いほどよくわかっていた。
南海先生が私と同じチカラを持つなら、きっと、同じような悩みを抱えてきたはずだ。
私だって、本当は誰にも知られたくなかった。
打ち明けたことで得たものもあるけど、それはきっと、ただ単に相手が良かっただけで。
南海先生は茶色のベルトのシンプルな腕時計を見ると、目を大きく開いて顔を上げた。
「やばい、次の時間の授業プラン、まだ中途半端だったんだ。僕のことは、いずれゆっくり話すよ。そのときは、桜井さんのことも、もっと聞かせて」
「え……」
「もっと、桜井さんのことを知りたいし、僕のことも、ちゃんと知ってほしいから」
同じ能力を持つ者同士として。
そう言葉に出さなくても、意図していることはわかる。
私も、もっと先生のことが知りたいし、今まで抱えてきたもの、今現在抱えていること全てを聞いてほしいと思った。
この前から聞こえてる、不思議な声も、もしかしたら先生にも聞こえているかもしれない。
じゃあ、と背を向けた南海先生が、思い出したように立ち止まり、振り返った。
「もちろん、僕も君のことは誰にも話さないから。だから、そんなに不安そうな顔しないで」
そう言われて、自分がどんな顔をしていたのか、恥ずかしくなって強引に笑ってみせた。
別に、先生を疑って不安なんじゃない。
何か、得体の知れない大きな物が、私の行く先で待ち構えているような感覚が拭えないからで。
再び私に背を向けた南海先生の姿が、階段の向こうに見えなくなるのを見送って、私はもちろん教室に戻ることなく、香奈が閉じ込められていた大講義室にもう一度向かった。
嫌な胸騒ぎを治めるためにも、おそらくそこに残っているだろう、香奈をあんな目に遭わせた人間の意識を探さなくちゃ。
でも、犯人は香奈をあんなところに閉じ込めて、一体どうするつもりだったんだろう。
誘拐? だったら、何も学校内に香奈を隠す必要なんかない。
香奈を恨む誰かの嫌がらせ? もしくは、楠木くんを恨む誰か……。
だけど、ふたりとも誰かに恨まれるようなタイプの人間じゃない。
はやる気持ちが、私に階段を駆け上がらせる。
四階についたころには、大きく肩で息をして、あの時のままの講義室の扉の前に立った。
半開きのドアの向こうに、白い紙が散らばったまま。
そのドアに両手をあて、目を閉じる。
「………?」
頭の中の扉は、開放してあるはずだ。
もう一度、私はこのドアに残された意識を探すため、集中して瞳を閉じた。
「どうして?」
何も、ない?
そんなことは、あり得ない。
どれだけこのドアに誰も触れていないとしても、さっき、私がここに触れて、確かにドアを開けたのだ。
その、自分自身の残した意識さえ、残っていない。
まるで、上から真っ白な絵の具を塗り重ねられたように。
もしくは、誰かがきれいに拭い去ったみたいに。
何も、聞こえない。
背筋を冷たい汗が伝い、ぶつけどころのない苛立ちに、私は思わずドアを蹴飛ばした。