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三階まで来ると、確かに香奈の存在を近くに感じたものの、手応えがなかった。
残るは四階の大講義室だ。
南海先生が先に行った気配はないし、見つかったなら声をかけてくれるだろう。
私は階段を駆け上がり、入学してから今まで、一度しか来たことのないフロアに足を踏み入れた。
講義室は、大学みたいな上下にスライドする大きな黒板に、階段状の座席がある教室だったとおぼろげに記憶がある。
入学してすぐ、学年のレクリエーションで利用して以来だ。
つきあたりは書庫になっていて、廊下はしんと静まり返っている。
『助けて、誰か、助けて……』
「香奈……?」
見渡す限り、廊下には香奈の姿は見つからないし、彼女が隠れてしまいそうな場所もない。
講義室のドアに触れ、ガラスの向こうを覗き込んでも、姿は見えなかった。
でも、おそらくこのフロアにいるのは、間違いない。
ドアに両手をあて、意識を探ろうとした私は、そのドアに鍵がかかってないことに気がついた。
「開いてる……」
軽く力を加えただけで、ドアは簡単に横に動いた。
本来、使用されない特別教室には鍵が掛けられているはずなのに、開いているなんておかしい。
まるで、私をワナに引き入れるように、口を開けて待ってるみたいだ。
大きな不安に緊張が覆いかぶさって、私は一度大きく息を吐いた。
「香奈っ、いるの?」
妙に上ずった声が、不気味なほど物音ひとつしない広い室内に響く。
『助けて』
香奈の意識と共に、ドアのすぐ脇にあったスチールのロッカーが小さな音を立てた。
資料かまたは何かの機材が収納されているのか、私の背丈より高い、ふたつ並んだ奥側のロッカーの中から、何かが動く音がする。
「香奈……?」
呼びかけても返事はない。
ただ、両開きの扉の向こうで、何かが起きている気がして。
嫌な想像が脳裏をよぎり、私はそれをかき消し、思いきって扉を開けた。
「!」
途端に私の足元は、中から雪崩れてきた資料やファイル、バラバラになったA4用紙に埋め尽くされる。
そして、目の前の光景に私は声を上げることも出来ず、呆然と立ち尽くした。
不規則に左右に動き続ける眼球が、下から私を見つけ認識すると、溢れるように涙をこぼし始めた。
「香奈っ!」
彼女を見つけたことで、安堵などできなかった。
むしろ、全身が震えて止まらない。
香奈の口元を覆う茶色の布テープを必死ではがし、紙の山に埋もれた彼女をロッカーから引きずり出す。
「香奈、大丈夫? なんで? どうして? 何があったの?」
手首にも、足首にも巻かれたテープをはがし、香奈自身の動揺など考えずに、私は矢継ぎ早に質問を浴びせた。
香奈の体が全て自由になって、床に座ったまま彼女の肩を掴み向かい合った時、私よりも香奈のほうが大きく震えていることに、やっと気が付いた。
「しおりちゃんっ……こ…わかっ……たぁっ……」
肩を大きく揺らし唇を噛むと、次の瞬間、香奈は私にしがみつき声を上げて泣き始めた。
「香奈……もう、大丈夫だから」
どうするか迷って、私は香奈の感情が入り込んでこないよう、頭の中の扉を閉じ、香奈をしっかりと抱きしめる。
今、香奈のココロの中を覗いたなら、どうしてこうなったのか、簡単にわかるかもしれない。
だけど……。
「大丈夫だよ」
そんなこと、できない。
あんなところに、身動きもとれずに閉じ込められていたなんて。
どれだけ恐ろしかっただろう。
香奈の甘い香りのする髪を撫でていると、階段を駆け上がる足音がして、まもなく南海先生が現れた。
開かれたままのロッカーの扉から流れ出した白い紙の海の中で、泣きじゃくる香奈と、彼女を抱きしめる私。
そんな景色をしばし呆然と眺め、かぶりを振ると大きく息を吐いた。
「ケガは、ない?」
南海先生の声に、香奈は体を震わせながら泣き顔を上げる。
一気にテープを剥がしてしまったせいか、香奈の顔には赤い痕がついてしまっていた。
「何が、あったんだ」
近づいてしゃがみこむと、南海先生は香奈と私を交互に見た。
すると、香奈が何度も首を横に振る。
「わかんない……何も……ただ、気がついたら、真っ暗で……怖くてぇっ」
焦点を結ばず、大きく開かれた香奈の瞳の奥には、一体何が映っているのか。
ぎゅっと目を閉じ、血の気を失った唇から、食いしばった白い歯が覗く。
そして、まるで音を立てるように、睫毛の先から次から次へと、涙が私の膝の上に落ちた。
「香奈……」
混乱してるのか、ふと泣き止んだかと思えば、思い出したように再び泣き始める。
その様子が、とても尋常じゃなかった。
香奈が思い余った行為をしてしまった時、あの時でも、こんなに取り乱したりしなかったのに。
「とりあえず、保健室で休んだほうがいい。立てる?」
香奈の手を取って南海先生が立ち上がると、まだ震えの止まらない香奈の身体は立ち上がろうとして、バランスを崩す。
揺らいだ彼女を私が支えると、南海先生が香奈の華奢な身体を軽々と抱き上げた。
南海先生の両腕の中で、香奈はまるで先生の胸に顔をうずめるように、うつむいたままだ。
「桜井さんも、一緒に行こう」
「あっ、はい」
ロッカーから散らばった物をそのままに、私たちは講義室を出た。
南海先生の背中の横に、香奈の力の抜けた細い足が揺れる。
誰がどうして、こんなこと。
……許せない。
香奈の怯えきった姿に、それまで私の中で膨れ上がっていた不安は大きな怒りに代わっていた。
階段を降りようとして、私はもう一度講義室のほうを振り返った。
こんなことをしたのが誰なのか、絶対に見つけてみせる。