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四時間目終了のチャイムと共に、私は大きく両手を伸ばし、詰りそうになっていた息を思い切り吐くと、次の瞬間には身体をぐったりと机の上に投げ出した。
「疲れた……」
勉強に集中することで、あの「声」も聞こえなくなるのだけど、授業に集中すること自体、しばらくしてなかった私の脳ミソは、思った以上に疲労しているようだ。
昨日の温室での出来事も、ふとしたときに思い出してしまうし。
かといって、何であんなことになったか考えてみても、どうしても答えが出ない。
この昼休み、ちょっとだけ楠木くんから香奈を借りて相談に乗ってもらおうと思ったのだけど、その香奈が三時間目から姿を見せない。
カバンは置いたままだし、保健室にも行ってないみたいだし。
香奈に限って、めずらしくサボってるのかなと思う。
もしかしたら、楠木くんと一緒に。
「いいなぁ……」
勝手に彼女らのことを妄想して、溜息をつく。
香奈と楠木くんが付き合い始めたのは、私と北原が付き合ったよりも後なのに、今や、わずかな休み時間も廊下でイチャつくほどベタベタなカップルだ。
今までそんなカップルを見てもなんとも思わなかったし、むしろ一目を憚ってくれと願ってたけど、親友である香奈がしあわせそうなのは私も嬉しいし、羨ましいところもある。
「桜井さん」
「はい?」
お昼休みをむかえ賑やかになった教室で、不意に名前を呼ばれ振り返った。
「楠木くん……?」
いつもニコニコベストスマイリーの楠木くんが、めずらしく少し不安そうな顔で立っていた。
でも、一緒にいると思っていた香奈の姿は、どこにも見当たらない。
「香奈、いないよね?」
「うん……私、てっきり楠木くんと一緒だと思ってた」
私は机の横に掛けていたお弁当の入ったカバンを手に取り、立ち上がる。
うつむいた楠木くんが不自然で、思わず顔を覗きこんだ。
「どうか、したの?」
「いや、あの……」
「ケンカでも、した?」
いや、と首をかしげて楠木くんは静かに息を吐く。
「いないんだ」
「え?」
「全然、どこにも」
「……何、それ」
「ケータイも繋がらないし」
楠木くんの瞳が、窓際にある主のいない香奈の机を見つめる。
「たしか、三時間目の物理には、もういなかったけど」
「そうなんだ。二時間目が終わって、休み時間に職員室に行くって言って……それからメールしても返事がなくて。保健室にも行ってみたけど、来てないって。俺、心配で……」
「そう、だよね」
青ざめていく楠木くんに、私は心のどこかで心配ないよ、と呟いていた。
きっと、めずらしくどこかでのん気に昼寝でもしてるんじゃないかと思う。
香奈はマジメで、私みたいにそんなことするタイプじゃないのは、確かだけど。
「ホントに、ケンカとか、してない? 香奈のこと、怒らせたんじゃないの?」
冷やかしで、冗談っぽく言ったのに、楠木くんは苦笑しただけだった。
だって、あの香奈が、そんなに深刻になるような事件に巻き込まれるとは思えないし。
……うん、たぶん、だけど。
私は楠木くんに大丈夫だよと、説得力のない言葉をかけて、いつもどおりの昼休みを過した。
部室で川島くんと北原とお弁当を食べたあと、ちょっとだけ温室内の植物に触れて、最後の10分は、冬休み明けから恒例になった北原から出題されるミニテストをクリア。
教室に戻れば、ひょっこり香奈の姿があるだろうと思ってたのに。
「相沢はどうした?」
古文の先生が誰となく聞いても、クラスメイトは感心もなさそうに首をかしげ、あるいは姿のない香奈の机を振り返る。
もしかして、家で何かあって、カバンも忘れて帰っちゃったとか……?
でも、それなら愛しの楠木くんに連絡くらいするだろう。
まさか、本当に何か事件が起きてる、とか?
いやいや、考えすぎ。
授業に集中、集中。
だけど、おなかも満たされ、柔らかな陽の光が差し込む教室は心地良い。
おまけに日本の古語は、ゆるやかに滑るように美しい。
それは、呪文、いや、優しい夢を見させてくれる子守唄だ。
いとをかし。いとおかし、糸おかし、糸お菓子……。
『……て、………けて』
頭の中で、妙な糸状の菓子が現れはじめた頃、小さな声が私の閉じているはずの扉を叩く。
また、例の、あれか。
『…た……す、け…て………』
違う。
一瞬にして駆け抜ける緊張感と、それに比例するように熱を失い、身体の身動きが取れなくなる。
私は、この意識の持ち主を知っている。
机に肘をついて、うたた寝しそうになっていた体勢のまま、私は瞬きをして息を飲んだ。
……香奈?
かすかに、途切れて聞こえてくる弱い声。
でも、おかしい。
私は今、ちゃんと聞こえないように、頭の中の扉を閉じているはずなのに。
コントロールできなくて、全ての声が聞こえるならまだしも。
『たす…け……て』
どうして、香奈の声だけ……。
口から発せられる声と同じように、意識もまた、個々の色を持っている。
誰かのモノと間違うはずもない。
そして、別人が簡単にそれを真似できるようなものでもない。
『………す……け…』
今にも消えてしまいそうな意識の糸を、辛うじてのところで掴まえた。
意識の波が乱れ、怯えてる。
糸を手繰りよせ、繋ぎとめようとしても、どんどん声は弱くなっていく。
まだ授業は始まったばかりだけど、そんなこと言ってる場合じゃない。
香奈の身が……危ない。
私は静かに立ち上がり、教壇へ向かう。
具合の悪いフリをするのは得意だし、私が「奇病」の持ち主だということは、もはや職員室では有名な話だ。
クラスメイトだって、半分以上、私のことなんかに興味はない。
教室を抜け出し階段の影に隠れた所で、私は目を閉じ、頭の中にある扉を開放した。