悪女・加藤梨伊奈の秘密
盗難容疑
騒然とする教室の中、僕は呆然と手元にあるジャージを見つめていた。ジャージの胸元には「鷲尾」という漢字の刺繍が入っている。僕の名前は雪村というので、誰がどう見てもこのジャージが僕のものでないことは明らかであった。僕はひどく冷静さを失っていた。体中が血の気を失ったようにすうっと冷たくなり、頭の中は文字通り真っ白になっていた。その中で一つの疑問が、僕の脳内に湧いて出た。それは非常にシンプルなものだった。
どうしてこのジャージが僕のカバンに入っていたのだろうか?
考えられる可能性は大きく分けて二つある。
一つは、僕がこのジャージを持ち主に借りるか、持ち主から奪うかして所持していたという場合。そうすれば、意図はともかくとして手に入れたジャージを自分のカバンにしまっておくことは可能だろう。だがこの場合、他ならぬ僕自身が、僕が無罪であるということの証明となる。というのも、僕にはこのジャージを借りた記憶も奪った記憶も、一切ないのだ。もちろん被疑者である僕の証言に信憑性などないだろうが、せめて自分自身の記憶くらいは信じてあげたい。
もう一つは、何者かによって意図的にこの工作が行われたという場合。動機こそ不明だが、僕がロッカーにしまっておいたカバンに盗品であるジャージを忍ばせることは、実際には難しくはないだろう。問題は、僕が何者かにこのような行為を働かれるという心当たりが全くないところにある。僕はこれまでの人生をなるべく波風立てないようにと平凡と過ごしてきた人間で、誰かに恨みを買われたり、あまつさえそれを晴らすような行為を受けるなんてことはとても考えられなかった。
もちろん、知らず知らずのうちに誰に恨みの念を抱かれるということは、生きていれば誰にだって有り得ることだろう。だが、この状況は僕にとってあまりに理解できないものだった。自分のジャージが盗まれるというのならいざ知らず、他人のジャージが自分の使い古したカバンの中に入っているという状況。
そのうえ―――
そのジャージの持ち主が、学年でも指折りの美少女として知られ、クラスでも男女問わず絶大な人気を誇る女子生徒・鷲尾真由美であるなんてことは、にわかには受け入れがたい事実だった。
「おい、皆一旦静かにしなさい!」
担任の家長教諭の声が響き、クラスメートたちのざわめきはやがて収束した。立ち上がっていた者は自らの席に着き、皆一様に唇を閉ざして家長教諭の次の言葉を待っている。
皆が静まったのを確認すると、家長教諭はゆっくりとした動作で教壇を降りた。目標を見定めると、それに向かって歩き出す。僕は教諭がこちらに向かってくるのを見つめながら、なんとかしなければと考えていた。何とかしなければ。だが混乱した頭は正常な状態とは程遠く、僕はまともにものを考えることができなかった。革靴が床を叩く乾いた音が、ゆっくりと近づいてくる。僕はうつむき、ぎゅっと目をつむった。もうなりふり構ってはいられない。このままでは、僕は間違いなく犯罪者扱いをされてしまう―――
次の瞬間、僕は顔を上げたと同時に叫んだ。
「先生」
家長教諭が足を止めた。周囲の生徒がはっと息をのむ雰囲気が感じられる。一体何を言い出すつもりだ―――そんな表情を、教室にいる誰もが浮かべていた。
そんな彼らの心情を代弁するように、家長教諭が口を開いた。
「……何だ」
僕は一呼吸置いてから言った。
「僕は……やっていません。鷲尾さんのジャージを盗んだりなんか、絶対にしていません。僕にはそんな度胸はないし、そうするだけの理由だって―――」
「先生!」
突然、教室の後方からはっきりとした声が飛んできた。女子生徒のものだろう。僕は咄嗟に振り返った。家長教諭も僕から視線を切ると、その声の主へと視線を送る。
そこには、クラス委員長である野村楓が立っていた。机に両手をつき、毅然とした表情を浮かべている。その瞳は真剣そのもので、それは彼女自身の強い意志を内包しているように感じられた。
もしかして―――僕をかばってくれるつもりなのだろうか。普段から真面目で面倒見がよく、誰に対しても分け隔てなく優しい彼女だからこそ、僕はそんな期待を抱かずには居られなかった。相変わらず状況については理解できていなかったが、ひとまずこれで何とかなるかもしれない―――期待と不安が入り混じる中、僕は野村の言葉の続きを待った。
だが、その口から出てきた言葉は、僕の予想だにしないものだった。
「私……見ました。昨日の放課後、雪村君が、鷲尾さんのジャージを盗んでいるところを」
え……?
驚きのあまり、僕は言葉を失った。野村が何を言っているのか、理解するまでに少しの時間がかかった。その間に再びクラス内は騒然となり、あちこちで会話の輪が形成された。
やがて家長教諭の声が響いた。さっきよりも大きな、教室中に響き渡るような声。だがその労力もむなしく、クラスメートたちは誰ひとりひるむことなく、横目で僕の様子を伺いながら会話を続けた。その中には普段僕が仲良くしている友人の姿もあり、僕は愕然としながらその様子を眺めていた。
すると思い立ったように一人の女子生徒が声を上げた。
「わたしも、雪村くんが鷲尾さんのロッカーを開けて何かやってるの、見ました」
それから少し遅れて、今度は別の女子生徒が起立して言った。
「ロッカーを開けて、鷲尾さんのジャージをカバンから引っ張り出してました」
更に他の女子生徒は気弱そうな声で、
「じ、ジャージを抱えて急いでどこかに走り去って行きました」
野村が発言したのを皮切りに、複数の女子生徒が次々と僕を目撃したという旨の証言をしていった。そのたびに「マジ?」「おいおい…」といった反応が教室のあちこちで漏れ聞こえ、僕は茫然自失という表情でその場に立ち尽くしていた。
一体なんだ、これは? いたずらにしても度が過ぎる。一体だれが、こんなことを……。それとも、本当に僕がやったのか? いや、そんなわけはない。だって僕は……。
様々な思いが頭の中を駆け巡り、僕ははげしく混乱した。教室内のざわめきはひときわ大きなものになり、クラスメートたちからの僕に対する視線は、次第に鋭いものに変わっていった。
僕は大きくかぶりを振った。ちがう、僕じゃないんだ。きっと犯人は他にいる―――だが、そんなことをしても容疑が晴れる訳がなく、軽蔑のまなざしは絶えることなく僕の体に突き刺さった。
その中に一つ、ひどく怯えたような、弱々しい視線があることに僕は気付いた。そしてそれが誰のものなのかもわかっていた。僕はためらいながらも、恐る恐るその視線を辿っていった。
そこにいたのは、他の誰でもない鷲尾真由美だった。アイドル並みに整った顔はいつ見ても印象的だったが、それ以上にこんな表情をした彼女を見るのはこれが初めてだった。信じていたのに―――そんな言葉が口をついて出てきそうな、悲壮に満ちた表情だった。僕は慌てて視線を逸らした。これ以上は顔を合わせていられそうもなかった。
やがて、家長教諭が僕の席の前までたどり着いた。それに伴い、周囲のざわめきはピタリと止まった。皆固唾をのんで、事の成り行きを見守っている。僕は涙をこらえながら、教諭の言葉を待った。
そして家長教諭はいつものように低く、しかし力強い声で言った。
「詳しいことは職員室で聞く。ついてきなさい」
アリバイ
結果から言うと、職員室での家長教諭との会話は、終始平行線を辿る形となった。
家長教諭は決して罪の自白を強要したりはしなかった。ただ僕の話を聞き、時には自らの質問を交えながら、僕の本意を引き出そうとした。強面な外見とは裏腹に、教諭の応対は非常に丁寧なものだった。僕は教諭に対するイメージを改めた。そしてなるべくその意向に沿ってあげたいと思った。
だがどんなに会話が続こうとも、僕が「やっていません」と言ってしまえば、それらは実のないものとなってしまう。僕としては絶対に譲れない部分だったし、教諭としてももっとも引き出したい部分だっただろうだけに、時間が経つにつれ二人の心労は計り知れないものになっていた。
やがて家長教諭は腰を上げた。窓の外には、すでに夕日の橙色に染まった風景が広がっていて、六月ということを考えれば、もう大分遅い時間のようだった。壁にかかったアナログ時計を見ると、すでに六時を回っていた。教諭は自分のマグカップに入ったコーヒーの残りを飲み干すと、ため息をついてから言った。
「今日はもう遅い。この件についてはまた明日以降に機会を設けるから、早く帰りなさい」
職員室を出ると、僕は不意にぐったりと倒れこみそうになった。帰りのホーム・ルームから続いていた緊張感から、ようやく解放されたからだろうと思った。僕は少しの安堵を覚えたが、それも束の間、すぐに不安に押しつぶされそうになった。
僕は、これからいったいどうなるのだろう―――そんな考えが、あっという間に頭の中を埋め尽くした。色々気になることはあったが、突然覚えのない犯罪を何者かに着せられてどうしたらいいのかわからない、というのが一番だった。とにかく、このままではいけない。僕は自分にそう言い聞かせると、よろめく足をなんとか立て直し、鞄を取りに行こうと教室へと向かった。
その帰り、僕は尿意を催してトイレへ行った。廊下から静かに生徒ラウンジを横切り、その入口へと入る。
生徒ラウンジとは、各階ごとに設けられた生徒たちの憩いのスペースだ。休み時間にはクラスの垣根を越えた生徒が集まり、それぞれ思い思いに会話に花を咲かせる光景が目につく。さらに、ここには生徒ごとに一つずつ、小型のロッカーが割り振られて置かれていた。どこかアメリカン・スクールを連想させられる光景だが、利便性は確かで、多くの生徒たちが好んで使用していた。僕もその例にもれずに今まで愛用し続けていたのだが―――あんな事件があった後では、とてもロッカーに近づく気にはなれなかった。
トイレには誰の姿もなかった。さすがにこの時間まで残っている生徒は少ないのだろう。僕はほっと胸をなで下ろした。面識のない人間ならまだいいが、もしクラスメートと鉢合わせでもしたら、僕は途端に逃げ出してしまっていただろう。そうしてその事実は明日の朝にはクラス中に広まっているに違いない。僕は自分が無実であると信じている一方で、自分に向けられるあらゆる視線に対して恐怖を抱き始めていた。こんな調子では、明日の登校などままならないかもしれない。考えれば考えるほどそうなってしまいそうだったので、僕は思考を停止しようと、ぎゅっと目を瞑った。
そのとき、不意に入口の方から物音が聞こえた。
何か硬い物を床に落としたような、カン!という乾いた音だった。
僕はぎょっとして音がした方を向いた。しかしそこに人影はなかった。確かに音がしたはずなのに……。僕はゴクリと唾を飲み込んだ。誰かが、僕を見張っているのだろうか。妄想が過ぎると思われるかもしれないが、僕はそんなことを真面目に考えていた。どうしようかしばらく迷ったが、結局トイレの外に出てみることにした。僕はズボンのチャックを閉めると、恐る恐る入口へと近づいていった。
出てみると、周囲には誰もいなかった。日が落ちてきたせいで大分暗くなってはいるが、人影を見落とすほどではない。僕はほっと溜息をついた。このままさっさと帰ってしまおう―――そう思い、生徒玄関に向けて早足で歩き始めようとしたのだが、
「窓」
背後からの声。不意を突かれ、僕は思わずギクリと体を硬直させた。おそらく僕の死角に潜んでいたのだろう。一体何者だろうかと考えたが、窓というのは僕の名前で、僕のことを名前で呼ぶのは、入学してまだ二カ月も経たないこの高校では一人しかいないはずだった。僕は意を決して、後ろを振り返った。
そこに立っていたのは、やはり同じクラスの春川陸生だった。
僕は安堵し、声をかけようとした。だが陸生の表情は今までに見たことがないくらい沈んでいて、それは本来の陽気な人柄からはとても考えられないほどだった。一体何があったというのだろう。考えてみたが、その原因らしい原因には思い至らなかった。
僕がそうして顔を合わせたまま立ち尽くしていると、陸生は何度か口を開きかけた。だがうまく言葉にできないのか、その口から声が発せられることはなかった。このまま黙っていても仕方ないので、僕は思い切って訊いた。
「どうしたんだ、陸生?」
陸生は僕の言葉にビクリと体を震わせると、ようやく口を開いた。
「窓、今日のことは、その……」
そこで言葉は途切れた。僕は一瞬訝しんだものの、すぐに理解した。陸生は今日の事件について、僕に何か話したがっているのだ。なんだか浮かない様子なのは、陸生なりに僕のことを気遣っているからだろう。そして陸生なら、犯人が僕じゃないと思ってくれているに違いない。そう考えると、僕はすっと肩の荷が下りたように感じられた。
それから堰を切ったように、僕は話し始めた。
「いやー、大変だったよ。いきなり、鷲尾さんのジャージがなくなったから持ち物検査するって言われてさ、まさかと思いながらカバン開けてみたら入ってるんだもん。あれには僕が一番驚いたよ。それから周りのみんなが気付いて、あっという間に僕が鷲尾さんのジャージ窃盗犯として晒し者にされて……あまりに展開が早すぎて、僕には何が何だかわからなかった。ただ、このままだととんでもないことになるってのだけはわかったよ。だから僕は必死に否定しようとしたんだ。だけど弁解しようとしても誰も聞いてくれないし、あげくの果てに僕が盗んだのを見たっていう女子たちが出てくるし……。それから職員室に連れて行かれたけど、結局同じだった。教室にいた時より話は聞いてくれたけど、本当に先生が聞きたいのは『自分がやりました』っていう自白、それだけなんだよね。それがなんとなくわかっちゃって、でもそれを認める訳にはいかないから必死で抵抗したよ。会話はずっと平行線。それであっという間に時間が経って、とりあえずもう遅いからって理由で解放されたんだ」
僕が一気にまくしたてるのを、陸生はうつむいたまま黙って聞いていた。その様子はさっきと変わらないばかりか、それにも増して深く沈んでいるように見えた。僕は本気で心配した。どうもここ数日は、明らかに様子がおかしい。それも、その状態は日を経るごとに少しずつ悪化してきている。特に昨日から今日にかけての陸生の様子は、輪をかけて異常だった。そう、思えば昨日のあの時から―――
そんなことを考えているうちに、思い出した。昨日の放課後、僕にはアリバイがあったのだということに。どうして今まで忘れていたのだろうかと思ったが、それも無理はなかった。なにせここまで急な展開の連続で、落ち着いて事件について考えている余裕などなかったのだ。僕は思わず頬を緩めた。これで容疑者の汚名を晴らすことができるだろう―――僕はそう考え、陸生に訊いた。
「そうだ、陸生。昨日のこと覚えてるか?」
陸生はピクリと眉を動かしたが、慎重に言葉を選ぶようにして言った。
「昨日……一体何のことだ?」
「何って、放課後のことだよ。陸生さ、僕を屋上に呼び出したじゃないか」
「ああ、そのことか」陸生は興味なさそうにつぶやいた。「確かに、俺は窓を屋上に呼び出したな。だけど、それがどうかしたのか?」
「事件が起こったのって、放課後のことだろ。僕は掃除当番が終わった後、すぐに屋上に向かったんだ。それから陸生が来るまで、僕はずっと屋上にいた。陸生が来た後は、家に帰るまでずっと一緒にいたから、僕には鷲尾さんのジャージを盗む機会なんてないんだよ。このことを陸生がみんなに証言してくれれば、僕の無実が証明されるんだ」
僕が意気込んで話してみたものの陸生は、
「ま、まあそうかもな……」
と、曖昧に返事するだけだった。僕は訝しげに思ったが、それよりもあと一歩で無罪を勝ち取れるのだという期待の方がそれに勝っていた。僕は逸る気持ちを抑えながら、陸生に提案した。
「そうだ、できるだけ早い方がいいよね……まだ先生もいるだろうし、陸生、職員室まで付いてきてくれる?」
「え……?」
僕がそう言うと、陸生は驚き動揺したようなそぶりを見せた。話の流れからすると、それほど不自然な提案だとは思えなかったが……。
「もしかして、これから用事でもある?」
「あ、いや……」
「そっか」僕は胸をなで下ろした。「それなら頼むよ、このまま犯罪者になんかなりたくないんだ。一緒に来てくれるよね?」
陸生は戸惑ったような表情を浮かべていた。何か気にかかることでもあるのだろうか。だが僕としても簡単に引き下がるつもりはなかった。何せ、自分の今後の身の振り方がかかっていると言っても過言ではないのだ。何としても陸生に証言してもらわなくては……。そう決意を固めていると、どこからか声が聞こえてきた。
「雪村くん」
それは陸生の背後、つまり僕の前方からの声だった。暗がりの中、きっちり膝下の長さに留めたスカートを揺らしながら歩いてくるのが見える。長めの黒髪は櫛で梳いたばかりかと思うほどに美しく伸びて肩に零れ落ち、鳶色の瞳は眼光鋭く僕をまっすぐと見据えていた。
「の、野村さん……」
クラス委員長・野村楓は陸生の横で立ち止まると、その突然の登場に動揺している僕から、視線を外さずに言った。
「悪いけど、今の話聞かせてもらったわ」
「えっ、今の話って……?」
「雪村くんに、アリバイがあるとかっていう話よ」野村は苛立った口調で言った。「そんな出鱈目、どうやって考え付いたのかは知らないけど……とにかく、関係のない春川くんを巻きこんだりするのだけはやめて」
「で、出鱈目だって……?」
「ええ、そうよ。だって雪村くんが何と言おうとも、今回の事件には目撃者がいるんだもの。それも、私を含めてクラスだけでも五人よ。他のクラスにも見たって子がいるみたいだし……いくら雪村くんが春川くんを盾にとってアリバイを主張したって、誰も信用できるわけないじゃない」
「でも、僕には確かにアリバイが……」
僕が反論しようとすると、野村はそれを手のひらで制した。
「それなんだけどね、そもそもそのアリバイって成り立つのかしら?」
「え、それってどういう……」
「雪村くんは、春川くんに呼び出されて屋上に行った。それで春川くんが来るまでそこで待っていて、合流した後は家に帰りつくまで春川くんとずっと一緒にいた―――そう言っていたわよね? そしてそれが自分のアリバイになると、少なくとも雪村くんはそう思っている」
僕が不承不承といった様子でうなずくと、野村はつづけた。
「仮にその話が本当だとしましょう。だけど……例えそうだとしても、アリバイは成立しないわ。なぜなら、雪村くんには犯行のチャンスが一度だけあったんだから」
「えっ……?」
僕は困惑した。まさか、そんな機会があるはずが……。
すると野村は苦笑に似た笑みを浮かべた。
「それって、気付いていないふりをしているのかしら? それとも本当にわかっていなかったとか……だとしたら相当な間抜けさんね、雪村くんは」
普段の野村からは想像もつかないほどの、挑発的な物言いだった。僕は思わず反論しようと口を開きかけたが、そうしても意味がないと気付いて矛先を収めた。
僕はつとめて冷静に訊いた。「どういう意味だよ、野村さん」
「どうもこうも」野村はあざけるように言った。「あなたが言ったのよ、雪村くん。『陸生が来るまで、僕はずっと屋上にいた』ってね」
「そりゃ、言ったけど……」
僕はそう言いつつも、野村の言葉を頭の中で反芻した。
ずっと、屋上にいた――。
陸生が、来るまで――。
放課後の、ちょうどあの時間帯に――。
もしかして……。
野村は僕の表情の変化に目敏く気付くと、そのアリバイの欠陥について語り始めた。
「ようやく気付いたみたいね。雪村くんは放課後、春川くんを屋上で『待っていた』って言ったけど、それはあくまで雪村くんの証言よね。春川くんが来るまでに事を済ませばいいんだから、手早くこなせば何ら問題はないはず。そうしてから屋上に向かって、何食わぬ顔で春川くんと合流すればいい」
「でも……!」僕は必死に反論する姿勢を見せた。「昨日屋上に行ったのは、そもそも陸生に呼び出されたからで、わざわざそんな日にジャージを盗んだりする必要なんてないはずじゃないか」
「普通に考えればそうだけど、自分のアリバイ作りのためにあえてその日を選んだと考えれば、不思議だとは思わないわ。多少リスキーかもしれないけど、後のことを考えればアリバイがあった方がいいに決まっているもの」
「もし陸生が先に来てたらどうするんだよ。陸生は時間の指定はしてこなかったんだぞ。放課後に、できるだけ早くとしか、約束しなかった」
「さっきも言ったけど、ジャージを盗むのにはそんなに時間はかからないわ。それに、先に来ていたとしても『ちょっと急な用事があって……』と一言添えればいいだけでしょう?」
確かにその通りだ。僕は反論しようにも言葉が出ず、茫然として野村の顔を見つめた。僕は全身から血の気が引いていくのを感じていた。体に上手く力が入らない。アリバイを見つけだした時の希望に満ちた感覚は当の昔に感じられ、代わりにずっしりと重たい負の感情が、容赦なく僕の心にのしかかってきていた。僕はもう立っているのが精いっぱいだった。
そんな様子を見るや、野村は一歩進み出て言った。
「わかったなら、もう無駄な抵抗はやめて。そして早く事件のことについて先生に正直に話して欲しい。それが、雪村くんが罪を償う唯一の手段よ。そして鷲尾さんに謝罪すること。そうしないと、鷲尾さんはいつまでも、雪村くんを畏怖の対象として見るだろうし、私は気が強い方だから大丈夫だけど、他の女子生徒だって雪村くんのことを怖がると思うわ」
鷲尾さんが、僕を怖がる―――
僕は混乱していた。ジャージを盗んだりしていない、それは間違いようのない事実のはずなのに、野村の話を聞いているとなぜだか罪悪感を覚えてくる。いつも笑顔を絶やさない真由美の顔が恐怖にひきつる様を想像するだけで、僕は胸が痛んだ。
すると野村は一転して、普段教室で聞くような優しげな声色で言った。
「もちろん指導はあるでしょうけど、ジャージを盗んだくらいなら停学までにはならないと思うわ。でもこのまま嘘をつき続けていればどうなるかわからない。だから早く先生に話して、鷲尾さんに謝って。私がクラス委員長としてできる限りのサポートをするから。お願い」
野村は右手を差し出した。握手を求めているのだろう。僕は当惑した表情を浮かべた。確かに真由美の怯える様子は見たくない。だけど、ジャージを盗んだことを認めてしまえば、たとえ事件が解決したとしても僕に犯罪者のレッテルが張られるのは避けようがないだろう。そして、当事者である真由美も当然僕をそういう目で見るようになるに違いない。僕にとってそれだけはどうしても耐えられなかった。真由美にとっては、僕など単なるクラスメートの一人でしかないかもしれない。だけど僕はそうではなかった。奥手な僕に対して高校で初めて声をかけてくれた女子。初めはあいさつを交わす程度だった関係も、次第に打ち解けて色々な話をするようになった。真由美は可愛かった。見た目だけじゃなくて、内面も女の子らしい魅力にあふれていた。入学してまだ二カ月と経たないが、クラス外にも隠れファンが大勢いるのだという噂にも頷ける。そんな彼女が僕なんかを気にかけてくれているかどうかはわからない。だけど簡単に諦めることなどできそうになかった。
なぜなら僕は―――
「雪村くんっ!?」
気付くと僕は走り出していた。後ろに野村の叫ぶ声が聞こえてきたが、振り返ることはしなかった。一気に廊下を駆け抜けて、階段を飛び降りる。足にはジーンとした感触が残ったが、それでも構わず走り続けた。外靴のスニーカーをつっかけ、乱暴に生徒玄関の扉を開ける。すると空気のひんやりとした感触が肌に絡みついた。いつの間にか外はほとんど真っ暗だった。僕は再び走り始めた。これからどうなってしまうかはわからない。不安は際限なくやってくるし、それを解決するすべも見当たらない。だけど着せられた罪を認めてしまうことだけは、どうしてもしたくなかった。そしてそれが当たり前の感情なんだと、自分に言い聞かせた。そうしないと瞬く間に心が折れてしまいそうだった。
僕は真由美のことを思った。きっと今も、何者かが作り出した恐怖に怯えているのだろう。そう考えると、僕は胸がつかえたような息苦しさを感じた。本当なら他人のことなど考えている余裕はないはずなのに、それでも僕はそう感じずには居られなかった。できるならこの手で犯人をとっちめてやりたかった。だけど犯人が誰なのか見当もつかないこの状況で、果たしてそれが達成できるかどうかはわからなかった。
今は、ひとまず耐えるしかない―――
僕はぐっと拳を握りしめ、夜の住宅街を駆けて行った。
悪女の部屋
翌日のクラスメートたちの反応は、僕の予想を上回るものだった。
僕が教室に入ると、みんな一様にピタリと会話をやめ、僕の姿を遠巻きに見つめた。僕はクラス中の視線が一身に注がれているのを感じ、少しぎこちない動きで席へとついた。すると堰を切ったように会話が再開された。聞き耳を立てるまでもなかった。明らかに、それは僕と、僕の起こしたとされる事件についての会話だった。僕は、表面上は普段通りをつくろおうと必死だったが、内心では驚きを隠せずにいた。想像はしていたけど、ここまで露骨に変化するものなのか―――。
だがこれが事実なのだから、受け入れるしかないのだろう。今はとにかく耐えるしかない。その思いを確認していると、一人の女子生徒が僕に近づいてきた。
僕は先んじて訊いた。「何の用? 野村さん」
野村は一瞬だけ目を瞠ったものの、それからいつも通りの丁寧な口調で切り返してきた。
「雪村くん、昨日はどうして逃げだしたの? 折角私がサポートしてあげるって言ったのに」
「そんなの必要ないよ。僕は何も悪いことなんかしてないんだから」
「まだそんなこと言っているの? 」野村は失笑した。「言っておくけど、雪村くんの証言を信用してくれる人なんて、クラスはおろか、学校中探したって見つからないと思うわ。それでも、あくまで自分はやっていないって貫き通す気?」
「ああ、当たり前だろ。何しろ僕はやっていないんだから」
「呆れた。雪村くんってもう少し賢い人間かと思っていたけど、とんだ思い込みだったみたいね」
そう言うと野村はくるりと回って僕に背を向けた。僕が怪訝顔を浮かべてその後ろ姿を眺めていると、野村はわざとらしく肩をすくめた。
「まあいいわ、いくら雪村くんが突っぱねたところでどうこうできる問題じゃないし。私としては、自分で罪を認めた雪村くんを、クラスの皆で暖かく迎えられるのが一番だと思ったんだけど……どうやらそうもいかないみたい。本当に残念だわ。折角出会えたクラスメート同士、仲良くしたいと思っていたんだけどね……」
それだけ言い残すと、野村は自分の席へと戻っていた。するといつの間にか周囲にできていた小さなギャラリーも散会した。僕は大きく天井を仰いだ。野村の言っていることは理解できた。クラス委員長として、このままクラスが崩壊してしまうだろう危機を憂うのは自然なことだと思う。だけど野村の言うとおりにする気はさらさらなかった。僕は自分が犠牲になることでクラスの安寧を守ろうと躍起になるような、立派な人間では決してなかった。そしてそんな人間になりたいとも思わなかった。
僕はただ、自分と真由美の行く末だけを案じていた。
帰りのホーム・ルームが始まると、僕は再び家長教諭に職員室に来るよう命じられた。クラスメートたちは口々にそのことについて囁き合っていたが、教諭に一喝されすぐに静まり返った。僕の席は窓側の一番後ろなので、その光景がよく見渡せた。野村がちらりとこちらを伺う素振りを見せたが、彼女はすぐに前を向いた。僕は野村から視線を切ると、それを隣の席へと移した。
結局、真由美が登校してくることはなかった。だが、それも当然だと思う。あんなことがあった翌日、しかも隣の席にはジャージを盗んだ張本人である(と思っている)僕が座っているのだ。この席に座って授業を受け続けるなど、並大抵の精神力では耐えられないだろう。僕は唇を噛んだ。いくら容疑が濡れ衣だとはいえ、それによって真由美が苦しんでいるのだと思うといたたまれない気持ちになった。
できるだけ早くこの問題を解決しなくてはいけない―――そう思いながらも、解決策を見つけ出せないことにもどかしさ、それに時間が経つにつれ、一歩一歩忍び寄ってくる不安を、僕は感じていた。
職員室での話し合いは、昨日同様、ほとんど意味を成さないものだった。
家長教諭はあらゆる角度から僕を突き崩そうとしてきたが、僕はどんな言葉にも揺らぐことなく、用意されたパイプ椅子に黙って座っていた。家長教諭は声を荒げることはしなかったが、苛立ちのようなものは募っているらしく、なんだか居心地の悪い空気が教諭のデスク一帯を覆っていた。隣り合ったデスクで仕事をしている教諭が迷惑そうにこちらを伺っていた。無理もないだろう。だが家長教諭としても簡単に引き下がるわけにはいかないだろうし、僕が折れることなどは到底ありえなかった。僕はため息をついた。
結局昨日よりも少し遅い時間まで、家長教諭の話は続いた。
ようやく職員室から解放されると、僕はくたびれた足を引きずるようにして廊下を歩き始めた。廊下にはすでに蛍光灯が灯っていて、窓からの景色は真っ暗で何も見えなかった。
僕は階段を降りながら、先ほどの家長教諭の言葉を思い出した。
「……私としても、雪村が無実であると信じたい。だが実際にお前のカバンから鷲尾のジャージが見つかったし、お前がジャージを盗むのを見たという証言がクラスを中心に多く寄せられている。もちろんお前がやったのだという確たる証拠にはならないかもしれないが、容疑者としてお前の名前が挙がってくるのは避けられないことだったと思う。そして他に容疑者候補がいない以上、お前が犯人に一番近いのだということにもはや疑いの余地はなくなってきている。そうなると、いずれお前を犯人として事を処理しなくてはいけなくなってくるだろう。時間の問題だが、おそらく猶予はもう残り少ないと私は見ている。お前が犯人なのかどうか、正直私にはわからない。ただ、残る時間はもう少ないのだということ、それだけは肝に銘じていてほしい―――」
僕が何か解決策を見出すのが早いか、学校側が対処に乗り出すのが早いか―――つまりはそういうことだろうと、僕は思った。そして僕には現時点で解決策のようなものを何一つ持っていなかった。冷静に考えれば絶望的だ。僕は家長教諭との話し合いで、改めてそのことを実感した。
時間は切迫している―――
一体どうしようかと考えを巡らせていると、いつの間にか地下のフロアへと続く階段に足を踏み入れていることに気付いた。どうやら行き過ぎてしまったらしい。引き返そうとしたのだが、ふと視界に周囲とはミスマッチなものが映りこんだような気がして、僕は足を止めた。ゆっくりと階段を下りてみる。階下は照明がついていないようで薄暗かったが、近づいていくにつれそれが何なのか、はっきりと見えてくるようになった。僕は思わず息をのんだ。
他の階と同じ、純白のペンキをまとったまっさらな壁―――
その壁に、どこぞの豪邸に使用されているような、ダークブラウンの立派な木製の外扉がはめこまれていた。
僕は目を疑いながらも、その扉に駆け寄った。するとその左右に備え付けられていたランタン風の照明が点灯し、僕は思わず目を細めた。照明はそれほど華美なものではなかったが、周囲を照らし出すには十分すぎる明るさを持っていた。おそらく最近流行りのLED電灯だろう。なぜこんなところにそんな最新鋭の設備があるのか不思議に思ったが、それよりも注意を払わなくてはいけないのは、目の前の巨大な扉だった。近づいてみて気付いたことだが、その扉は異様な大きさだった。高さはおそらく2メートルを優に超えているのではないかと思う。錠は二つ取りつけられていて、多少錆ついてはいるが頑強そうなつくりをしていた。どこか古風な雰囲気を感じるのは、その西洋風のデザインのせいだろう。僕は扉に近づくと、無意識のうちにその表面に手を当てた。
するとその時、キイイ…という甲高い音とともにその扉が開いた。
僕は驚いた。突然扉が開いたのもそうだが、なんと中から人が出てきたのだ。
「なっ……?」
現れた人物を見て、僕はようやく思い出した。この学校の地下には、知っている人間ならば誰も近づくことのない『悪女の部屋』と呼ばれる場所があるのだということ。
そしてその部屋に住んでいるのは、この世のものとは思えないほどの美貌と悪女的な性格を併せ持つ、れっきとしたこの高校の生徒だということを―――
「誰?」
僕と目が合うなり、その女は冷淡な口調で尋ねてきた。切れ長の大きな瞳が、照明に照らされて濃褐色の輝きを放っている。長い黒髪はちょうど胸の辺りの長さで切りそろえられていて、色白の肌がより映えて見えた。制服は着ておらず、代わりに黒のシフォンフリルワンピースを身に纏っている。僕はその美しさに少しの間見とれていたが、質問されていたことを思い出すとあわててそれに答えた。
「あの、僕は一年六組の雪村窓といいます」
女は「そう」と興味なさそうに呟くと、僕との距離をぐっと詰めてきた。そうすると、僕がほんの少し見上げた先に、女の顔があった。一目で背が高いことには気づいていたが、まさか自分より大きいなんて。僕は少しのショックを覚えた。
だがそんなことを考えているのも束の間、女は僕の顔を覗き込むようにして首を伸ばしてきた。至近距離で目が合う。すると言われようのない羞恥心が込み上げてくるのを僕は感じた。ただでさえ女の子がちょっと近くにいるだけで意識してしまうのに、息が触れ合いそうなほど近くに、これほど美人の女性の顔があっては、僕にはとても耐えきれそうになかった。僕は慌てて顔をそむけると、飛び退るようにして女と距離をとった。
すると女はなぜか満足そうな笑みを浮かべると、妙に優しげな声音で訊いた。
「それで? その雪村くんが私に何の用なのかな」
「えっ、用って……」
僕が口ごもっていると、女は怪訝な顔をして僕の様子を眺めていたが、やがて言った。
「君、もしかして……ここがどこだかわからないで来たの?」
「あ、えっと、そうです」
僕はすっかり女の雰囲気にのまれていた。それでややオドオドとした様子で答えると、女はクスリと小さく笑い、扉の方を向くと、ノブを引きながら言った。
「入って。せっかく来てくれたんだし、お茶ぐらいは飲ませてあげる」
「え、でも……」
「いいから。遠慮しないで」
そう言って女は妖艶な笑みを浮かべた。すると心臓がドクンと大きく高鳴るのを感じた。かつてどこかで聞いたうわさ通り、確かに並みの美貌じゃないと思った。だけどそれだけじゃない。彼女の仕草や言葉遣い、立ち居振る舞いの一つ一つに僕は惹かれていた。おそらくそれらすべてが、その独特の雰囲気を醸し出す要因になっているのだろう。今までに出会った誰よりも、目の前の女はその女性的な魅力に満ちていた。真由美もすごく可愛らしい女の子だけれど、それも霞んでしまうくらいの強烈な引力―――
そうして僕は、いつの間にか彼女の居室に招き入れられていた。
部屋内の光景は、ここが学校であるということを疑ってしまうようなものだった。
まず目に飛び込んできたのは、長方形のガラス・テーブルとその左右に置かれている黒い革張りのソファだった。いずれもシンプルながら、落ち着いた上品な雰囲気を漂わせている。テーブルの上には林檎の形を模したエメラルド・グリーンの花瓶が置かれていて、挿された葉の緑とともに、モノトーン・スタイルの部屋にさりげなくアクセントとして組み込まれているようだった。天井にはアンティーク調の黒のシャンデリアが備わっていて、白熱電球の柔らかな光が部屋中に降り注いでいた。壁は全面白で統一されていて、壁時計や絵画といった黒を基調としたアイテムが掛けられていた。扉は二つあり、一つは今入ってきた豪奢な外扉、もう一つは室内のどこかに通じるらしい小さめの室内扉だった。
僕は外扉を後ろ手に留まったまま、しばらく立ち尽くしていたが、女に促されてソファに腰を下ろした。家のソファとのあまりの座り心地の違いに僕は驚嘆の声を漏らしそうになったが、こんなことで驚いていてはまた笑われてしまうかもと思い、黙っていた。女は部屋の片隅にある小さなキッチンでコーヒーの準備をしているようだった。女は僕がその後ろ姿を見ているのに気付くと、再びにこりと笑いかけてきた。僕はあわてて目を逸らし、ソファに深く座り直した。
「はい、どうぞ」
やがてコーヒーが運ばれてきて、僕は火傷しないように注意しながら啜った。正直言って苦かったが、女がブラックのまま飲んでいるのを見ると、それから砂糖を入れることはためらわれた。しばらく二人の間には沈黙が流れたが、女はふう、と一息つくとようやく口を開いた。
「私、加藤梨伊奈っていうの。よろしくね、雪村くん」
女―――梨伊奈は軽やかに笑みを浮かべると、再び湯気の立つコーヒーカップを上品な様子で口に運んだ。ずいぶん短かったが、どうやら自己紹介のつもりらしい。僕はとっさのことに上手く言葉が出ず、小さくうなずくことしかできなかった。そしてそんな動作すら、自分で少しぎこちないものに感じる。
梨伊奈は僕の様子に首を傾げていたが、やがて意を得たというように、にっこりと笑みを浮かべて言った。
「ねえ、もしかして緊張してる?」
「えっ……そ、そうですね。してると思います」
「どうして?」
「それは……えっと……」
あなたが綺麗だからです、とはもちろん言えなかった。そんなことを言える度胸があるのなら、僕はとっくに奥手な自分から卒業できているはずだ。僕がどう言葉を返そうか悩んでいると、梨伊奈はクスッと小さな笑い声を漏らした。僕の反応が可笑しかったのだろうか。僕はカーッと顔が熱くなるのを感じた。
すると梨伊奈は少しだけ申し訳なさそうな口調で言った。
「ごめんね、意地悪なこと言って。雪村くんがあんまり可愛いから、つい」
「か、可愛い……?」
「うん、すっごく可愛い。あれ、もしかして自分では気づいてない?」
僕は大げさなくらいに首を縦に振った。そんなことは言われたこともないし、思ったこともなかったからだ。
すると梨伊奈は意外そうな表情をした。
「ふーん、そうなんだ。自分では気づかないものなのかな?」
「そ、そうですね……自分の事って、言われて初めて気付くことも多いですし」
「あ、それって私も経験あるかも。どうしても自分じゃ気付かないことって結構あるんだよね。それもふとした時に言われたりするから、けっこうショックなの」
僕もそれには素直に同意した。何しろ、たった今それを体験したばかりだったのだから。
梨伊奈はコーヒーカップを口に運ぶと、一呼吸置いてから言った。
「ところで、雪村くんは私が何者か知ってる?」
「いえ、詳しくは……ただ噂を聞いたことがあるくらいで」
「噂? それってどんな?」
しまった。僕は慌てて取り消そうかと思ったが、梨伊奈はすでに興味津々といった様子でこちらを見ていた。僕が困ったように視線を宙に泳がせていると、梨伊奈は身を乗り出し、魅惑的な笑顔を向けてきた。
「ね、教えてくれるかな」
どうやら断れる雰囲気ではないらしい。僕は渋々了解すると、その噂について知っている限りのことを話した。
この学校の地下には『悪女の部屋』と呼ばれる場所があること。そこに住んでいるのは一人の女子生徒で、この世のものとは思えないほどの美しい容姿を携えていること。女子生徒は見返りを提供する代わりに、男子生徒はおろか、教師までも誘惑し従えていったこと。やがて学校中の男という男がその女子生徒の言いなりとなり、事実上学校の半分の人間が支配されてしまったこと。そうしてその女子生徒は誰に言われるでもなく『悪女』として、この学校に君臨するようになったということ―――
僕は話し終えると、梨伊奈の反応を待った。梨伊奈はほっそりとした腕を組んで何やら小声で唸りながら、独り言のようにつぶやいた。
「うーん、まあ強ち間違ってもいないけど……ちょっと飛躍しすぎてる部分もあるかな。でも、おおよそのイメージはあってるかも。雪村くんはどう思う?」
「ぼっ、僕? ええっと……」
僕が困惑しながらも真剣に考えを巡らせ始めると、梨伊奈は苦笑交じりの表情を浮かべて顔の前で手を振った。
「冗談よ、雪村くん。君が私と出会うのは今日が初めてなんだから、私のイメージなんてまだしっかりとは描けていないでしょ? どうしたって答えようがないじゃない。今のはちょっとからかっただけ」
笑いながら梨伊奈が言うのを、僕もまた小さく笑みを浮かべて聞いていた。とはいっても僕の笑顔は女のそれとは違い、恥ずかしさを紛らわすための手段として無理にやっているだけのぎこちないものだった。どうも梨伊奈の前では、自分がどうしようもなく間抜けで愚かな人間に感じてしまう。普段ならかわせるはずの冗談でも、梨伊奈の口から発せられれば、それは魔法の言葉のように僕を縛りつけてしまうようだった。
「優しいんだね、雪村くんって」
「へっ?」
突然の言葉に、僕は思わず空気の抜けたようなかすれ声で訊き返してしまった。
梨伊奈は言った。「だって、私ったらさっきから、君を困らせるようなことばかり言ってるじゃない? 普通の人だったら怒ったり、愛想を尽かしたり……少なくとも、いい感情を持つことはないと思う。なのに君は、嫌な顔一つせずに私の話に耳を傾けてくれてる。それって、とっても優しいことだと思うんだけどな」
「そんなことないです、僕は別に……」
「謙遜しないの。人に褒められた時は、素直に受け取るのが吉だよ」
そう言って梨伊奈は僕に笑いかけた。花が咲いたようだという表現も大げさではないほどの、本当に美しい笑顔。自然と心臓が高鳴ってしまう。やはり梨伊奈には、無条件に男を惹きつける何かがあると、僕は感じた。それはその圧倒的なルックスや、彼女本来の内面的な部分によるものばかりではない。細かく挙げればきりがないだろうが、その小さな要素の積み重ねこそが、加藤梨伊奈という女性を、彼女たらしめているのだろう。
果たして梨伊奈が『悪女』と呼ばれるべき存在なのか、それはわからない。ただ、梨伊奈にはその才能が十分にあるということだけは自信を持って言えるだろう。負のイメージばかりが先行してしまうような言葉だが、少なくとも男の気を惹きつけるという部分において、梨伊奈という女性を形容するに最もふさわしい言葉に思えた。
「ごめん、私のせいで話がそれちゃったね。ええっと……そうだ、私が何者かって話だったよね」
「あ、はい」
僕が我に返って返事をすると、梨伊奈はコーヒーを一口飲んでから言った。
「単刀直入に言うとね、私は『解決屋』なの」
「かいけつ…や?」
「そう、解決屋。あんまり聞いたことないでしょ?」
確かに耳慣れない単語だ。だが意味の類推は難しくなかった。『かいけつ』という音から連想される漢字は『解決』ぐらいしかないからだ。他にもいくつかあるが、使われる頻度は比較にならないだろう。
だとすると解決屋とは、あらゆる問題を『解決』する便利屋のようなものだろうか。
「たぶん、雪村くんの思っている通りよ」梨伊奈は僕の顔を見て言った。「解決屋っていうのは、自分の力ではどうにもできない問題事を、私が綺麗さっぱり解決してあげちゃいましょーって活動なの。そしてここがその部室。ちゃんと部活動としてだって認められているんだから」
「ええっ、本当ですか?」
「ええ、ただそのままの名前じゃなくて、『解決部』っていう名称で登録されているの。でも、これじゃなんだかかっこ悪いでしょ? だから私は創部以来ずっと、解決部じゃなくて解決屋って呼んでいるの」
「そうなんですか……」
「うんっ」
梨伊奈は元気よく答えると、「それで、なんだけどね……」と切り出した。
「雪村くんの問題事、私が解決してあげようか?」
「………………ええっ!?」
僕は思わずソファから飛び上がった。どうして、僕に問題事があることを知っているのだろう。僕は梨伊奈に例の事件のことはおろか、自分が何かに困っているというようなことを一度も口にした記憶はないのだ。
「どうして知ってるの、って顔してるね」梨伊奈は得意げな表情を浮かべた。「簡単よ。雪村くんったら、私と会ったときから、ずうっと浮かない顔してるんだもの。あれなら何か心に取っ掛かりがあるんだなって、誰が見たってわかる。雪村くんは気付いていないかもしれないけど、君ってすっごくわかりやすい人なんだから」
そこが可愛いところなんだけどね、と付け加えて梨伊奈は笑顔を浮かべた。
なるほど、僕は見抜かれていたのか―――自分の間抜けさにほとほと呆れる一方で、やはり梨伊奈には抜け目がないなとも感じていた。この鋭い視点も、梨伊奈が『悪女』だと噂される所以のひとつなのかもしれない。僕は一人納得しながら、梨伊奈の惚れ惚れするほど綺麗な笑顔を見つめた。
梨伊奈は言った。「もちろん興味本位で言っているわけじゃないの。正式な部として活動している以上私にもプライドはあるし、実際に活動を始めて今までで、解決できなかった問題は一つもないわ。さすがに依頼の細かな内容はプライバシーにかかわるから教えられないけど……そうね、例えば浮気の疑いのある人の身辺調査とか、ストーカーの被害を聞いて犯人を割り出したりとか、最近では冤罪事件の回避なんてのもやったかな」
冤罪の回避―――
僕はその言葉を聞いた瞬間、再び立ちあがった。梨伊奈は僕に何か言いたげに口を開きかけたが、怯んだように口を閉ざした。おそらく僕の顔が、これまでとはうって変わって真剣な表情をしていたからだろう。僕は梨伊奈の座るソファまで近寄ると、そこに膝を折って言った。
「お願いします。僕を、冤罪の危機から救ってください」
僕は頭を下げた。手を伸ばし、額を固い床に擦りつける。
土下座だった。
こんなことをしたのは生まれて初めてだった。そしてこれからも、こんなことをすることはないと思っていた。何せ僕はこれまで、平凡を絵にかいたような人生を送ってきたのだ。いつも目立つようなことは避け、できるだけ人の影に隠れながら生きようとした。そうした方が楽だったし、それで僕にとっては十分に楽しい人生だったからだ。
だがそれも、たった一つの事件で瓦解した。それも、身に覚えのない冤罪によってだ。僕は初めその気持ちに気付かないようにしていた。それは感情を起こすことを面倒くさがってのことではない。その方が解決後の話がスムーズに進むし、何より後に残りにくいからだ。どうせ誰かの悪戯に決まっているさ―――僕は心のどこかで、事件をそう楽観視していたのだろう。
だけど事件は解決しなかった。僕は事件の容疑者として校内でゆるぎない地位を確立しつつあった。僕は耐えしのごうとした。みんなの言葉から、視線から、逃げ続けようと思った。そうすればいつか真相がはっきりするはずだから。だけどもう限界だった。あと数日も経たずに僕には何らかの処分が下される。その内容自体は大したものじゃないのかもしれない。だが、僕の学校での居場所は永久に失われてしまうだろう。僕はそれを一番恐れていた。僕は平穏無事に暮らせればそれでよかった。気の合う友達と行動を共にし、隣の席に座る可愛い女の子と時々話をすることができれば、それだけで十分だった。
それを、何者かが悪意を持って壊したのだ。
僕は、いつの間にか激しい怒りの感情を、胸の内に感じていた。この事件を起こし、僕を犯人へと祭り上げた人物。必ずこの学校のどこかにいるはずだ。本当なら自分で探し出して鉄拳の一つでも食らわしてやりたかった。だけど僕では力不足だった。容疑者の候補はおろか、事件の糸口さえ見出せない。僕にはもう恥も外聞もなかった。誰でもいい。誰でもいいから、僕を救ってほしい。その思いだけが、僕を土下座という、本来屈辱を感じるべき行為へと突き動かしていた。
「僕はもう、耐えられません。学校での居場所がなくなってしまうことも、鷲尾さんの笑顔が失われてしまったことも、犯人が今も罰せられることなく、どこか安全なところに身を隠していることも。全部暴いてほしい。暴いて、僕や鷲尾さんを救いだしてほしい。もちろんタダでとは言いません。僕の出来る限りで何でもします。だから……僕を、救ってほしい」
僕は目を瞑った。梨伊奈から提案してくれたこととはいえ、引き受けてくれる確証はなかった。もしかすると法外な報酬を請求されるかもしれない。それでも、出来る限りでそれをのもうと思った。その覚悟はあったし、そうするしかもう道は残されていなかった。
「顔を上げて、雪村くん」
梨伊奈の声が聞こえ、僕は体を起こした。梨伊奈は床に正座し、不安そうに僕の顔を覗き見ていた。僕もまた彼女の顔を仰ぎ見た。お願いします――その悲痛なまでの決意を溢れんばかりに瞳に宿して。
梨伊奈は僕に立ち上がるよう促し、僕はそれに従った。梨伊奈の顔は、やっぱり僕がほんの少し見上げた先にあった。だけどさっきとは表情が違った。真剣なまなざしが、僕の意思を問うように鈍く光を放っている。僕は気圧されないよう、ぐっと歯を食いしばった。少しでも動揺があれば、断られるような気がしたからだ。
やがて梨伊奈は、張り詰めた雰囲気を崩すように、表情を緩めた。
「わかった。私でよければ、君の力になってあげる」
「ほ、ホントで――」
「ただし!」梨伊奈は遮るようにして言った。「残念ながら、タダとはいかないの。それに私が求める報酬はちょっと特殊だし……それでも、私に仕事を依頼する?」
考えるまでもなかった。僕が迷いなく頷くと、梨伊奈はにっこりと微笑んだ。
「雪村くんのこと、必ず私が救ってあげるわ。そのかわり……約束を、忘れないでね」
悪女の本領
「さて、じゃあ早速で悪いんだけど、話を聞かせてくれる?」
梨伊奈はソファに座り直すと、僕にも向かいに座るように促した。口元は笑っているが、その目は真剣そのものだった。それだけで、梨伊奈の仕事には十分すぎるほどの成果が期待できるのではないかと僕は思った。梨伊奈に従いソファに座ると、僕はその苦しみの始まりである、昨日の帰りのホーム・ルームでの出来事から話し始めた。
帰りのホーム・ルームが始まると、担任の家長教諭が突然持ち物検査を実施すると言いだしたこと。原因は鷲尾真由美のジャージが突然消えたというもので、もし誰かが間違って持っていっているのなら教えて欲しいと、教諭が真由美に代わって言ったこと。僕がロッカーにあるジャージ用のカバンを持ってきて開けたところ、そこにはなんと真由美のジャージが入っていて、僕のジャージはなかったこと。僕はパニックになり、自分は盗んだりしていないと、窃盗を疑われてはいないのに口走ってしまったこと。すると委員長の野村が、僕が盗んでいるところを見たと言いだしたこと。他にも複数の女子が手を挙げ、一様に野村と同じ証言をしたこと。僕はその後家長教諭に連れられ、職員室で事件について詳しく知っていることを訊かれたこと。それから帰りに陸生と野村に会い、野村に自白するように迫られたこと。それを拒むと、翌日からは更に僕の噂が広まったのか、ますます居場所がなくなってしまったこと。
そうして今に至り、梨伊奈に助けを求めているのだということ―――
梨伊奈は終始黙って僕の話を聞いていたが、それが終わると数回頷いて言った。
「なるほど、事件の内容についてはよくわかったわ。それにしてもひどい話ね、無実の罪を着せられるなんて……それも可愛い女の子のジャージを盗んだ犯人扱い」
「はい……」僕は同意しながらも、気付いてすぐに訊き返した。「あれ、鷲尾さんのこと知ってるんですか?」
「え、知らないけど。どうして?」
「いや、だってその……か、かわいいって」
僕が言うと、梨伊奈はこともなげに答えてみせた。
「簡単なことよ。だって雪村くん、鷲尾さんのこと好きでしょ? それも片思い」
「なっ……」
僕は言葉を詰まらせながらも、すぐに叫ぶような声で否定した。
「違いますよ! だいたい、それとこれとどういう関係があるんですか」
「あれ、そんなに慌てるってことは図星なのかな? 私は冗談のつもりで言ったんだけど」
梨伊奈が妖艶な笑みを浮かべると、僕はみるみるうちに顔が熱くなっていくのを感じた。どうやらすぐには治まりそうもない。僕は頬に手を当てながら、鋭い視線を梨伊奈に向かって投じた。梨伊奈はひるむ様子も見せずにこちらを愉快そうに眺めていたが、埒が明かないと思ったのか、ふう、と一息つくと、先に口を開いた。
「ごめんごめん、ちょっとからかいすぎちゃった。反省するね。ただ、さっきは冗談だって言ったけど、根拠もなしに言ったってわけじゃないんだよ?」
「……どういう意味ですか」
「ありゃりゃ、まだ怒ってる? えっとね、さっき私は雪村くんが話しているのを黙って聞いていたじゃない。するとね、雪村くんは『鷲尾さん』の単語を出すときだけ、微妙にトーンが違ったり間があったり、とにかく他の単語よりも強い意識が感じられたんだよね。多分本人じゃ気付かないくらいのほんの少しの違いなんだろうけど、注意して聞いてたらよくわかった。だから、雪村くんは鷲尾さんに対して特別な感情を抱いている……つまり好きなんじゃないかなって思ったの。まあ、確証はなかったんだけどね」
僕はなんだか得心まではいかないものの、根拠づけられた説明に頷かざるを得なかった。やっぱり梨伊奈はただ者じゃない―――その思いが、僕の中で更に強まった。
「……じゃあ、片思いっていうのは?」
「もしすでに二人が深い関係にあるんだったら、雪村くんはちゃんと鷲尾さんに、自分が無実だってことを説明するはずでしょ? そうしなかったのは、信じてもらえるだけの自信がなかったから……つまり、二人の仲はまだそれほどでもないってことじゃないかな」
確かにそうだ。僕はこんなことにも気付けなかった自分がなんだか恥ずかしくなった。どうやら僕には注意というものが足りないらしい。今後は気をつけようと、こっそりと胸の中で自分を戒めた。
僕はついでとばかりに質問を重ねた。
「それと最初の……えっと、可愛いっていうのは? それが一番気になるんですけど……」
「あぁ、実はそれについてはたいして根拠はないの。高校生の男の子が片思いする相手って、見た目が可愛らしい子がほとんどでしょ? ただそれだけよ」
梨伊奈は小さく笑った。言葉こそ自信なさげだが、本心ではほとんど確証を得ているように僕には感じられた。どうも梨伊奈には、僕の考えていることはお見通しらしい。
そう思うと、先ほど梨伊奈に対して腹を立てた自分がなんだか馬鹿らしくなった。何せ相手は『悪女』と呼ばれ学校中で噂されている、男なら否が応にも惹きつけられてしまう絶世の美女なのだ。そんな彼女と争おうなど、初めから間違っている―――僕はようやくそこに思い至ると、苦笑した。梨伊奈はきょとんとしてこちらを見つめていたが、ふと気がついたように口に手を当てた。
「あっごめんね、私のせいで随分話がそれちゃったみたい……じゃさっそく、雪村くんが提供してくれた情報を整理して、事件について考えてみよっか」
「はい、よろしくお願いします」
梨伊奈は頷くと、さっきまでよりも低い、落ち着いたトーンで話しだした。
「事件の発端は、鷲尾真由美さんという雪村くんのクラスメートのジャージが、いつの間にかロッカーから消えていたことから始まった。それを聞いた担任の家長先生が、誰かが間違って持って行ってしまったのかもしれないと思って持ち物検査を実施した。クラスメートたちはみんな、自分の持っているジャージの名前を確認していった。すると雪村くんが自分のロッカーから取り出したカバンから、なんと鷲尾さんのジャージが出てきた。それを周りのクラスメートが見つけて、雪村くんはあっという間に犯人として非難の目を向けられた……これで間違いない?」
「ええ、間違いないです」
「鷲尾さんの証言が正しいとすると、犯人は鷲尾さんのジャージを彼女のロッカーから持ち去り、それを雪村くんのロッカーに入っていたカバンに入れ替えた……そう考えるのが一番自然よね。生徒ラウンジには普段は人が多いけど、朝早くとか、下校時間を過ぎてしばらく経てば人気はほとんどなくなるから、犯行自体は十分可能。問題は、誰がやったのかってことだけど……雪村くん、誰か心当たりない?」
急に質問を振られて驚いたものの、僕はすぐにかぶりを振った。
「ないですよ。あったら、とっくに自分で捜査していたと思います」
そんなこともわからないのかと少々意外に思ったが、どうやら梨伊奈の意図していることは違ったらしい。
「そうじゃなくて……さすがに質問が悪かったかな。えっと、クラスの中で鷲尾さんに好意を抱いていそうな人っている?」
「そりゃ、たくさんいますけど……」
「やっぱりそうなんだ。じゃ、もっと言うと……」梨伊奈は考えるようなしぐさをした。「君と鷲尾さんが楽しくお話ししているのを、妬ましそうな目で見ている人、いなかったかな?」
「えっ」僕は驚きを隠さずして訊いた。「それって、どういう意味ですか?」
「えっとね、鷲尾さんってすごく可愛い子なんでしょ? だったら鷲尾さんのことが気になっていたり、好意を持っている人って相当数いると思うの。その中でも、クラスメートはいつも鷲尾さんを近くで見ているわけだから、自然と他のクラスの人よりも強い感情を持つようになるはずよね。すると自分以外の人間と楽しく話しているような姿を見たら、当然ジェラシー……つまり嫉妬の感情を抱くでしょう。普通はそれを表に出したりはしないけど、中にはそれに耐えられない人がいてもおかしくない。するとそういう人は、きっと行動にでる。いろいろ手段は考えられるけど……例えば、鷲尾さんのジャージを盗んだ犯人に仕立て上げて、鷲尾さんとの関係を完全に破壊する、とかね」
「なっ……」
僕は言葉を失った。二の句が継げずに、ぼんやりと目の前のテーブルに視線を落とした。確かに僕は犯人に対して、強い憤りを感じていた。自分をこれだけの苦境に追いやった人間だ、そう考えるのが自然だろう。
だから僕は犯人に対して、得体のしれない悪意に満ちた人間像をイメージしていた。ニュース番組で報道されるような犯罪者とまではいかないまでも、それに似たイメージは抱いていた。こんな事件を起こすのはそういう性質の人間だと、考えるともなしにそう感じていた。
それがまさか、犯人はクラス内にいるかもしれないなんて……。
冷静に考えれば、クラスメートの誰かが犯行に関わっている可能性は極めて高い。だが僕は想像すらしていなかった。それは事件とか事故といったものが、自分の知らないところで、知らない理由で起こされているものだと、当事者となった今でも、まだ心のどこかで思っていたからかもしれない。これまで絵にかいたような平凡な人生を送ってきた僕にとっては、事件や事故といったものは非現実的な、自分には関わりのないものだと思っていたのだ。
そしてそうだからこそ、僕は事件にあって以来、こんなにも心を乱しているのかもしれない―――
「それでどう、雪村くん。心当たりない?」
長い解説を終えると、梨伊奈は再び尋ねた。僕はまだ少しばかり動揺していたものの、必死で当時の様子を思い浮かべた。僕が真由美と話している時に、目を光らせていた人物―――それはたくさんいたような気もしたし、全くいなかったような気もした。要するに僕にはわからなかった。何せ僕は真由美と話すときはそれに夢中で、他のことに気を払う余裕などなかったのだ。ただでさえ普段から注意力のない僕だ、無理もない。
だが、仕方なくその事を告げようと口を開きかけた時、一人のクラスメートの顔が思い浮かんだ。なぜそいつの顔が浮かんだのか僕にもわからなかったが、考えてみると僕が普段まともに顔を合わせているのはそいつだけで、他のクラスメートの顔はぼんやりとしてうまく思い出すことができないのだった(もちろん真由美は別だが)。
それは僕が唯一親しくしている友人―――春川陸生だった。
陸生と初めて出会ったのは入学式の日だった。クラスメートの一人一人が緊張した面持ちで自己紹介をしていく中、人一倍元気な声で返事をし、ピシリと姿勢を正して立ち上がった姿を、今でもよく覚えている。
その後陸生の周囲にはすぐに人だかりができたが、陸生は脇目もふらずに一人で佇む僕に向かって歩いてきた。僕はびっくりしながら陸生の顔を見つめたが、陸生はくしゃくしゃの笑顔を見せたと思うと、次の瞬間には僕に馴れ馴れしく話しかけてきた。僕はどうして自分に構ってくるのか訊いた。すると陸生は、自分がぺちゃくちゃうるさいから相方は静かなくらいがいいんだと言った。僕は抱き続けていた警戒心があっという間に氷解していくのを感じた。陸生は驚くらい無垢で、純真な存在だった。
その一方で、女の子の相手は苦手なようだった。陽気な陸生には女の子から声を掛けてくる光景も珍しくないが、陸生は女の子が相手になると途端に口下手になり、曖昧に笑顔を返すことしかできなくなるのだった。その傾向は特に可愛い子に対して強いらしく、真由美が朝のあいさつをしたときなど、陸生は今にも卒倒しそうなぐらいに顔を真っ赤に赤らめ、その後僕が介抱したのを今でも覚えている。
考えたくはないが―――こうして思い返してみると、陸生には動機があるのだと僕は思った。女の子、とりわけ真由美を強く意識していたようだし、口下手な陸生が気持ちを表すために行動に出るというのは、それ自体は頷けることだ。
だがその行動が極めて道理に反していること、それにその対象が友人である僕だというのは、いつもの陸生の純真無垢な姿を考えると想像もできなかった。陸生は確かに不器用な人間だが、善悪の区別ぐらいはつくはずだし、あまつさえ僕に対してそんな悪行を働くなんて、信じたくない以前に信じることができなかった。
しかしその一方で、陸生を信用するのに一抹の不安があるのも確かだった。というのもそれは、陸生の事件前日からの行動が―――
「……おーい、雪村くん。聞いてる?」
目の前でひらひらと手を振られているのに気付いて、僕ははっとした。いつの間にか梨伊奈が僕の隣に座り、その華やかすぎるくらいの笑顔を僕に向けている。
僕は思わずソファの隅に背を寄せた。
「な、何ですか急に?」
「何ですか、はこっちのセリフよ。雪村くんったら、私が心当たりない?って訊いたっきり、どこかに飛んでいっちゃうんだもの。雪村くんがそのままじゃお話にならないし、だから私がこうやって引き戻してあげたってわけ」
「そうだったんですか……すみません」
僕は素直に頭を下げた。梨伊奈はそんな僕に対して小さくかぶりを振った。
「いいよ、別に。それより……」
「それより?」
「なに、考えてたのかな?」
梨伊奈はそう言うと魅惑的な笑みを浮かべた。僕は梨伊奈の意図がわからずにいたが、次の瞬間に梨伊奈が足を組みかえると、僕は慌てて目を逸らした。初めて会った時は触れていなかったが、梨伊奈の着ている黒のシフォンフリルワンピースの丈はなかなかの短さで、フリル付きの可愛らしい裾からは大胆にも色白の太腿がかなりの部分まで見え隠れしていた。当然、足を組んだり元に戻したりを繰り返せば、露出度はさらに高まる。
僕がいけないと思いながらも視線を外せずにいると、梨伊奈はここぞとばかりに攻め込んできた。
「やだ、雪村くんどこ見てるの? いやらしー、もしかしてさっき、ずうーっと考えていたのも、えっちなことだったりするのかな?」
「なっ……!な、何を……」
僕が思い切り首を回転させて目を逸らすと、逃がさんとばかりに梨伊奈の手のひらが僕の手をやさしく包み込んだ。僕がビクンと体を硬直させると、梨伊奈は猫撫で声で言った。
「いいんだよ、雪村くん。えっちなこと考えてたって……私、雪村くんなら……」
「な、何言って……」
「言わなくたってわかるでしょ? それとも、女の子に恥をかかせる気?」
僕は大きくかぶりを振った。もう自分でも、何をしているのかよくわからない。心臓は飛び出るんじゃないかとばかりに脈打ち、頭は熱で寝込んだ時のようにぼんやりとしていた。視界の中に、梨伊奈の顔だけがはっきりと映りこんでいる。
その梨伊奈が静かに口を開いた。
「じゃ、目を閉じて」
僕は梨伊奈に言われるがままに従った。まだ僅かながら理性が抵抗を続けていたが、湧き上がる欲望がそれらをあっさりとはねのけた。漆黒の暗闇の中で、僕はただその時を待った。
そして、その柔らかなものが僕の唇に触れた。
僕は驚いて目を開きそうになったが、なんとかこらえ、それからは唇に全神経を集中した。これが、女の子の唇なのか―――思ったほど柔らかくはないが、しっとりとしていて心地よかった。初めてのキスは好きな女の子としたいと漠然と考えていたが、後悔の念は欠片もなかった。なにせ、梨伊奈のような美少女と初めてのキスを迎えることができたのだから、これ以上のことはない。鷲尾さんの顔が脳裏に浮かんだが、それも一瞬のことだった。
やがて梨伊奈から唇が離された。名残惜しい気持ちもあったが、梨伊奈なら頼み込めばもう一度してくれるかもしれない。僕はそう考えながら、ゆっくりと瞼を開いた。
そこにあったのは、笑いを堪えているような梨伊奈の顔と、突き出された二本の指だった。人差し指と中指―――それが罰ゲームなどで用いられるしっぺをするときのように、二本がぴったりくっついたような形を成している。
僕が余韻に浸りながらも困惑した表情を浮かべていると、梨伊奈はついに耐えきれなくなったとばかりに思い切り吹きだした。いつもの上品で大人びたイメージからは想像もできないほどの、大胆な笑い声。
僕は呆気にとられてその光景を見ていたが、やがて笑いがおさまると梨伊奈は少々せき込みながらも、声を絞り出すようにして言った。
「こんなに笑ったのっていつ以来だろう。ほんと雪村くんって、超がつくほどの純情っぷりよね」
「あの、何の事だかさっぱりわからないんですが……」
僕が恐る恐る言うと、梨伊奈は再び笑い転げ、それから浮かんだ涙を指で拭いながら、さっきよりも落ち着いた声で言った。
「ごめんね、もう笑わないって約束する。あのね、簡単に言うと私、また雪村くんをからかっていたの。君が私の話そっちのけで、何だか思いふけっていたみたいだったから……仕返しってわけじゃないけど、君のぼーっとした顔見てたら、何かしてやりたくなっちゃって」
「はあ……」
僕は曖昧に返事をした。そういえば梨伊奈は、僕に出会ってすぐのときにも同じ類のことを仕掛けてきたのだった。僕にからかいがいがあるのか、梨伊奈がからかうことが好きなサディスティックな性質の人間なのかはわからない。もしかしたらその両方なのかもしれない。だがいずれにせよ、これからはもっと警戒しなくてはいけないと思った。わかっているだけでは、不意を突かれたときに対処できそうにない。
僕はまたしてもそう自分を戒めていると、ふと気づいたことを訊いた。
「えっと、それじゃあれは……?」
「あれって?」
「その、キス、です……」
消え入りそうな声で僕が告げると、梨伊奈は吹きだしそうになりながらも、笑うまいと口に手を当て、それから答えた。
「あれはね、ただ指を押し当てていただけなの」
「ああ、指を……ってええ!?」
「こうやって、人差し指と中指をぴったりくっつけて、それを君の唇にあてがっただけ。もしかしてばれるかなって思ったけど、その様子だと上手くいったようね」
「……上手くいきすぎです」
「そうみたい」
梨伊奈は悪戯っぽく笑った。僕はやれやれと思いながらも、やっぱり梨伊奈には敵わないなと思った。『悪女』たる彼女なら、この程度の誘惑はお手の物なのだろう。もっと手の込んだ悪戯――それこそ冗談ではすまされないようなもの――もできるに違いない。もっとも僕に対しては、前者で十分すぎるくらいの成果があるようだが。
梨伊奈がいつの間にか姿を消していたので、僕はしばらくソファでくつろいでいたのだが、やがてお盆のようなボードの上に深めの器を二つ載せて持ってきた。器の口からはほかほかと湯気が立ち上っている。首を伸ばして覗いてみると、それはどうやらかけそばで、一つが僕の目の前に置かれた。いつの間に作ったのだろうか。僕が顔を上げて梨伊奈の表情を伺うと、彼女はにっこりと笑った。
「いっぱい笑わせてもらったからね、これはそのお礼。お腹空いたでしょ?」
「そういえば……」
部屋の中に時計がないせいで時間の感覚がなかったのだが、ケータイを取り出してみると、時計はすでに九時を回っていた。お昼に弁当を食べて以来何も食べていないので、腹の虫はずっと鳴り続けていた筈なのだが……梨伊奈の強烈な存在感を身近に感じていたせいで、気がつかなかったのかもしれない。ともあれ今はものすごい空腹感で、すぐにでも目の前のそばに食らいついてしまいたかった。
梨伊奈は持っていた割り箸の一つをを僕に差し出した。
「はい。どうぞ召し上がれ」
「いただきます!」
僕は箸を割ると、勢いよくそばにありついた。かなりの熱々だったが、構わず麺をすすり、つゆを喉に流し込んだ。薄味のつゆに、鶏肉とねぎを添えただけの簡素なものだったが、味は絶品だった。腹を空かせていることを抜きにしても十分なほど美味しいだろうと思った。僕はあっという間に完食すると、弛緩しきった表情でソファの背にもたれた。
「ふうー、満足」
「どう、おいしかった?」
「ええ、すごくおいしかったです。えっと……加藤さん」
「あっ、初めて名前で呼んでくれたね。嬉しい。だけど、できれば名前で呼んでほしいかな」
「じゃあ……えっと、り、梨伊奈さん」
「うん、ありがと」
梨伊奈は満面の笑みを浮かべた。悪い気はしないのだが、名前を呼ばれただけでここまで嬉しがる人も珍しい気がする。僕は少々面食らいながらも、気になっていたことを尋ねた。
「あの、梨伊奈さんは料理もできるんですね」
「ちょっとだけだけどね。食べられればいいっていう程度で、こだわりは全然ないかな」
「でも、味は絶品でしたよ」
「ほんとに? じゃあこれも食べる?」
梨伊奈は自分の前にある器を指さした。梨伊奈がほんの少し手をつけたようだが、まだほとんど作りたての状態のままである。
「え、いいんですか?」
「うん、いいよ。私はもう十分だから」
これだけで足りるだなんて、梨伊奈はかなりの小食なのだろうか。僕は少し心配になるくらいだったが、せっかくの厚意を無駄にするのもはばかられた。
やっぱり、何度食べてもおいしい。薄味のおかげで何杯でもいけそうだ。さっきはかきこむようにして食べてしまったので、今回は味わうようにして、静かに麺を啜った。
梨伊奈は穏やかな目をして僕が食べるのを見つめていたが、やがて僕に向かって訊いた。
「そうそう、大分話が脱線しちゃったけど……結局、さっきは何を考えていたの?」
「さっき? ああ、それはですね」
僕は口の中に残っていたそばを飲みこむと、梨伊奈の問いに答えた。
「梨伊奈さんに言われて、クラスであやしい人がいないか考えてみたんですけど……僕はあんまり周りのことを気にしないほうなので、鷲尾さんうんぬんの以前に、誰かの視線を感じたり、妬まれていることに気付いたり、そういうことは全くなかったと思います」
「そっか、それは残念ね……」
「ただ」僕はテーブルに視線を落とした。「ひとりだけ、何だか妙なやつがいまして」
「妙?」梨伊奈は怪訝顔をした。「それってどういう?」
「そいつは僕の友達で、春川陸生っていうんですけど……何というか、事件が起こる少し前から、急に様子がおかしくなっていたような気がしまして」
「それは、具体的に言うと?」
「たとえば……事件が起こる前の日のことなんですけど、陸生が僕を屋上に呼び出したんです。それも放課後になってすぐに。僕は何の用事があるのか訊いたんですけど、陸生はとにかく来てくれの一点張りで、何も教えてくれなかった。だけど陸生は数少ない仲のいい友達だし、もしかしたら何かサプライズのようなものを用意してるのかなって思って、陸生の言うとおり屋上に行くことにしました。陸生は普段から人を驚かしたりするのが好きなやつだったんで、ありうるかなって。ただ、それにしてはずいぶん暗い顔をしてたなって、今になってみると思うんですよね……」
僕は梨伊奈の様子をちらりとうかがった。彼女は真剣に僕の話に耳を傾けているようだった。『解決屋』を名乗るだけあって、切り替えの早さはさすがというべきか。僕はせっかくの雰囲気を壊さないようにと、すぐに話を再開した。
「それで放課後、僕はすぐに屋上に行きました。陸生にはいろいろ準備があって遅れるかもしれないと言われていたので、のんびり待つことにしました。天気も良かったですからね。だれもいない屋上の真ん中に寝転んで、しばらく時間をつぶしました。だけど、しばらく待っても陸生は現れませんでした。僕は1時間ほど待ったところでさすがにおかしいなと思って、陸生に電話してみました。だけど陸生は出ませんでした。僕はそれからも少し待ちましたが、何かあったのかもしれないと思って一旦校舎に戻ってみようと思いました。するとそのとき、ちょうど扉が開いて陸生が現れました。僕が遅れた理由について尋ねると、陸生は肩にかかった大きな金属製の箱を指差して、これの準備に手間取っていたんだと言いました。その箱の中にはテレビでしか見たことのないような立派なカメラが入っていて、陸生は夕焼けを撮影するために、僕を助手として呼んだのだといいました。僕は陸生にカメラの趣味があるなんて知らなかったので驚いたんですが、どうやら陸生は最近写真部に入ったらしくて、それでコンクールか何かに出すために、なにかきれいな写真が必要だったそうです。普段の陸生を知っている僕としては、それもまた驚きだったんですが……そればかりは人の勝手だと思ったので、僕は特に口出ししませんでした。それから撮影が始まりました。陸生は終始慣れない様子でしたが、シャッターを押す陸生の表情はちょっとだけ嬉しそうでした。だけど笑顔を見せたのはそのときだけで、そのあとはやっぱり暗い顔をしていました。気になりはしましたけど、明日になったらけろっとしているかもしれないと思って、その日はそれで別れました」
「なるほど」梨伊奈は真顔で言った。「それで、次の日……」
「はい、次の日の放課後に例の事件が発覚しました。僕は犯人扱いされ、職員室に連れて行かれた」
「陸生くんは?」
僕は沈んだ口調で言った。「あいつは、前の日と同じでした。朝からずーっと沈んだ顔をしてて、さすがにクラスのみんなも気味悪がっていた。僕はなんとか声を掛けようとしたんですが、あいつはなぜか僕を避けるようなそぶりを見せたんです。それで僕はとりあえず放っておいたんですが、事件があって……。それから、職員室に行った帰りに陸生に会ったんですが、やっぱりまだ、いつもの陸生じゃありませんでした。それどころか今度はもっとひどい状態でした。まるで見えない何かに怯えているような……はじめは僕があんなことになったからかと思っていたんですが、それもどうやら違ったようでした。というのも僕は、陸生に前の日に屋上で写真を撮ったことを、みんなの前で証言してもらって、それをアリバイとして無実を主張しようと思ったんです。だけどその提案をしても、陸生は曖昧な感じで取り合ってくれなかった。僕はさすがに妙だと思いました。もしかして、陸生は―――」
「何か、隠してるかもしれない?」
「………はい」
僕は頷いた。陸生が僕に対して、何かを隠している。実際、それはかなり早い段階から気付いていたことだった。だけど僕は目をそむけていたのだ。本当のことを知れば、もう陸生とは友達でいられないかもしれない―――そんな恐れを、心のどこかで抱いていたからだろう。
だが、それが自分本位な身勝手な感情であることにも僕は気付いていた。本当に陸生のためを思うなら、たとえどんな結末を迎えることになろうとも、真実を明らかにするべきなのだ。それが僕にとっての救いであり、陸生のためでもあった。
初めから選択肢は一つしかなかったのだ―――
「梨伊奈さん」僕は思い切って口を開いた。「覚悟はできています。だから……」
「うん、わかってる。私の仕事は事件を解決することだから、それについて遠慮はしない。たとえそれが、雪村くんの望まぬ結果になろうとも……ね」
「……はい」
「ただし」梨伊奈は僕の考えを遮るように言った。「それは陸生くんが真犯人だとしたら、だけどね」
「えっ」僕は驚いて言った。「それってどういう……?」
「どうもこうも、言葉通りの意味よ。陸生くんが犯人じゃないなら、雪村くんの心配は杞憂に終わる。そうでしょ?」
「それは、そうでしょうけど……」
再び沈みかけたところで、僕はようやく梨伊奈の言葉の意味に気付いた。
「梨伊奈さん、もしかして……犯人が誰だかわかっているんですか?」
僕の興奮交じりの声に、梨伊奈はかぶりを振った。
「ううん、さすがにそこまでは。だけど、陸生くんを犯人だと考えるのはまだ早すぎると思う。確かに怪しむべき点はいくつかあるし、動機についてもあるようだけど……それだけじゃ、容疑者候補の域を出ないでしょう。それに、気になることが一つあるの」
「気になること?」
「うん、さっき雪村くんが話してくれたことなんだけどね」梨伊奈は言葉を選ぶようにして言った。「陸生くんは、屋上に立派なカメラを運んできたのよね。そして自分は写真部に入ったのだと言った。これって、おかしいと思わない?」
僕は「えっ」とつぶやいたきり、言葉を失った。確かに陸生が写真部に入ったというのには驚いた。だがそれ自体は間違ったことではないし、僕も陸生の友達とはいえ、彼のすべてを知っているわけではない。陽気な人柄に隠れて、そういう趣味を持ち合わせていたことに気がつかなかっただけかもしれないのだ。誰にでも意外な一面というのはあるものである。
それの、どこがおかしいというのだろうか―――
梨伊奈はあらためて訊いた。「どう、わかった?」
僕はかぶりを振った。「いえ、僕にはさっぱり……というか、全然普通じゃないですか? 写真部に入ることが、それほどおかしなことには思えないんですけど」
「それが、そうでもないの。と言うよりそもそも陸生くんは、写真部になんて入れるはずがないのよ」
僕は首をかしげた。とても自分では答えにたどりつけそうにはない。
すると梨伊奈は淡々とした口調でその真実を告げた。
「だって、写真部は去年限りで廃部になったんだから」
悪女の本質
写真部は、去年限りで廃部になった―――
その事実が意味するところは、さすがの僕にもすぐに理解できた。廃部になり、それ以来に一度も復活していないのだとしたら、写真部という部活動はこの学校において存在し得ないことになる。
それはつまり、陸生が写真部に所属しているという事実はありえないことを意味していた。
梨伊奈は言った。「陸生くんがどういうつもりで写真部員を名乗ったのかはわからない。だけど、写真部が廃部になったのは確かよ。私が実際に見て確認したことだから、よく覚えてる」
梨伊奈が言うのだから間違いないのだろう。もはや疑いの余地はなかった。やはり陸生は、僕に何かを隠している。そしてそれがばれないように嘘をついた。どういう意味があるのかはわからないが、これが事件と無関係だと考える方が難しかった。
「陸生のやつ、何考えてるんだ……」
僕がつぶやくと、梨伊奈もそれに同意した。
「そうね、廃部した部活の部員を名乗るなんて……普通に考えたら、嘘をついているとしか思えない。だけど、陸生くんは実際に写真部で使うような立派なカメラを持ってきたんだよね。もちろん陸生くんが自分で用意した可能性もあるけど……」
「えっ」僕は思わず訊いた。「それは、どういう意味ですか?」
「もしかすると、陸生くんの言ったことはあながち嘘じゃないかもしれないってこと。少なくとも、旧写真部の備品であるカメラを何らかの形で手に入れた可能性はあると思う。写真部自体は廃部にはなったけど、備品は元の部室に保管されていたはずだから」
「そんな……じゃあ、写真部は復活していたってことですか? 一度廃部になったっていうのに」
「部員さえ集まれば作り直すことは可能よ。だけど……」
梨伊奈はそこまで言ったきり口を濁した。僕が怪訝な目で梨伊奈のうつむいた顔を見ていると、彼女は小さくかぶりを振った。
「ごめんね、私も混乱しているみたい……こうなったら、事実を確認した方が早いかな。ちょっと準備してくるね」
そう言い残し、梨伊奈は室内扉――二つある扉のうちの小さい方だ――を開けると、部屋の中に消えていった。言葉の意味はわからなかったが、それほど時間はかからないだろうと思い、僕はとりあえず黙って待っていた。するとやはり数分と経たないうちに、梨伊奈は姿をあらわした。さっきまで着ていた黒のシフォンフリルワンピースではなく、この学校の制服を身にまとっていた。
僕は驚いた拍子につぶやいた。
「梨伊奈さん、それ……」
「うん、学校に行くならやっぱり制服の方がいいと思って。どう、似合う?」
梨伊奈は両腕を斜めにひろげてみせた。そしてその姿を、僕はじっくりと見つめた。改めて言うまでもないことだが、やっぱり梨伊奈はきれいだった。そして制服は、その大人びた雰囲気に意外なほどよく似合っていた。このまま街を歩いていれば、一体何人の男が言いよってくるのかわからないほどだ。
僕は素直に言った。「似合っていますよ、すごく」
梨伊奈は笑顔でかえした。「ありがとう。滅多に着ることないから、自分では違和感っていうか、しっくりこないんだけどね」
「えっ、滅多に着ないって……?」
「あれ、言ってなかったっけ。私、学校にはほとんど行っていないの。テストだけ受けて、単位はちゃんともらってるけどね。おどろいた?」
僕がうなずくと、梨伊奈は微笑した。
「まあ、普通は学校に行っていないなんておかしいよね。しかも学校の中に住んでいるなんて、まさしく変人。だけど、私はそう思われてもなんとも思わないの。だって私は……」梨伊奈はいちど言葉を切ると、強調するように言った。「私は、特別だから」
僕は沈黙していた。といっても、黙りたくて黙ったというわけではなかった。どう反応すればいいのか、僕にはわからなかったのだ。
梨伊奈としても、僕に何か期待していたわけではないようで、結んでいた唇をひらくと、明るい声で言った。
「ごめんね、変な話して……忘れちゃっていいから。それよりせっかく着替え終わったんだし、さっそく学校に向かう準備をしましょ」
「はい……」
僕が力なくつぶやくと、梨伊奈は笑顔を浮かべた。それは完璧なものだったけど、それゆえに何だかぎこちなさを感じた。だが、今の僕に何ができるわけでもない。とりあえず今は目の前のことに集中しよう。僕はそう思った。
「それじゃ、まずは電話ね」
「電話?」僕は思わず訊き返した。「電話って、だれに?」
「えっと、この学校の生徒よ。そして、『解決屋』のかつての依頼人」
「依頼人……それって僕のような、ですか?」
「そうよ。プライバシーがあるからあまり詳しくは話せないけど……ある分野にすごく精通している人なの。今回はその力を使わせてもらう」
言い回しに微妙な違和感を覚えたが、梨伊奈が電話をかける姿が見えたので僕は思考を停止した。少し離れた位置で、梨伊奈の様子を見守る。かすかに呼び出し音が漏れ聞こえてきて、僕は緊張した。やがてその音が消えると、梨伊奈はそれと同時に告げた。
「ツシマくん? 私、加藤梨伊奈です。ちょっとあなたの力を借りたいんだけど…………えっ? それは、急ぎの用事なのかな。…………うん、それはわかったけど、約束のことはちゃんと覚えてるよね? もしかして…………そう。それならいいんだけどね。いちおう言っておくけど、私を欺こうとしても無駄よ。実際にツシマくんの顔を見さえすれば、すぐわかっちゃうんだから…………うん、おりこうさんね。それじゃ、さっそくやってほしいことなんだけど……」
梨伊奈は電話口に向かって話し続けていた。口調は終始おだやかだったが、要求する内容に遠慮はいっさいないようだった。それどころか、まるで脅しているような……。それで僕は途中で聞くのをやめ、ソファに座って電話が終わるのを待った。梨伊奈はくるくると立ち位置を変えながら、何かを熱心に説明しているようだった。それから数分して電話は切れた。
僕が駆け寄ると、梨伊奈は笑顔をこぼした。
「なんとか、ツシマくんに協力してもらえることになったわ。これであと三十分も待てば学校に入れるようになると思う」
「はあ」僕は頭をかきながら言った。「それで、何を依頼したんですか?」
「そっか、そういえば言ってなかったね。雪村くんも知っているかもしれないけど、学校には防犯システムというのが備わっているの」梨伊奈はソファに座りながら説明した。「生徒が学校にいるときはもちろん動かないけど、夜になって校舎から人がいなくなると、それが作動されるの。校舎のあちこちにセンサーがあって、それが反応すると、今度はカメラが一斉に録画を開始する。カメラもたくさん設置してあるから、あやしい人影があれば最低でもどれか一つには映ってしまう。防犯システムっていうのはそういう仕組みよ」
「えっと」僕は当惑しながら言った。「もしかして、依頼っていうのは……」
「そう。学校に設置された防犯システムをストップしてもらうの」
「ええっ! そんなことってできるんですか」
梨伊奈はこともなげに言った。「うん、システムは職員室にあるコンピュータで管理されているから、それをハッキングしてしまえばいいの。パソコンの知識がない私にはとてもできないことだけど、ツシマくんならお手の物よ。証拠も残らないから、警察うんぬんというのも心配ないわ」
すごい話を聞いてしまった。僕は狼狽したが、すでに引き返すという選択肢は残されていないらしい。僕は仕方なく、気になっていたことを質問した。
「あの、どうして夜に写真部室へ行くことにこだわるんですか? 別に明日になってからでも問題ないと思うんですけど」
「甘いなあ、雪村くんは」梨伊奈はちっちっ、というように指を振った。「自分で言うのもなんだけど、私は学校では名の知れた有名人なの。たまに授業に出ようと学校に行ったら、それだけでたいへんな騒ぎになったこともあるくらい。そんな私が日中に堂々と学校を歩いていたら……それこそ、写真部どころじゃないでしょ? こっそり行くにしても、リスクはどうあってもつきまとうし……そう考えたら、誰もいない夜が、一番安全でしょ?」
「まあ、そうですね……」
「それに」梨伊奈は付け加えるように言った。「雪村くんは、いつ先生に処分を言い渡されるかわからない身なんでしょ? 可能性としては低いかもしれないけど、それこそ明日の朝にも言い渡されるかもしれない。そうなったら、もう事件解決どころじゃないわ。だから、できることは早めにやった方がいいの。あとから後悔したっておそいんだから」
僕はうなずいた。梨伊奈の言うとおり、確かに僕は甘かった。切羽詰まった状況だっていうことはわかっていたはずなのに、梨伊奈という頼れる存在に出会ったせいで、すっかり慢心してしまっていたのかもしれない。僕は拳を強く握りしめた。もう油断したりしない、そう自分を戒めるようにして。
それからしばらくして、梨伊奈の携帯が鳴った。僕たちは立ち上がり、用意した懐中電灯を手に取ると外扉の前まで移動した。
そこで梨伊奈は言った。「さて、それじゃいこっか。鬼が出るか蛇が出るか……とにかく、確認してみればわかるはず。雪村くん、準備はいい?」
「もちろんです」
梨伊奈はうなずいた。僕は懐中電灯のスイッチを確認すると、重い扉を押しあけた。
当然ながら、部屋の外は真っ暗だった。僕は懐中電灯のスイッチを押しかけたが、その前に背後からの強烈な光が、あたり一帯をまぶしく染め上げた。僕がおどろいて振り返ると、逆光を浴びた梨伊奈の暗い顔が微笑み返してきた。
「来るときに気がつかなかった? ここにセンサーライトが設置されていること」
「いえ……気付いてはいたんですけど、すっかり忘れてました」
巨大な扉の上方、その左右の壁面に、ランタンを模した照明がまばゆい光を放っていた。内部に組み込まれた電球の大きさからは、想像もできないほどの光量である。やはり、LEDを利用したものに間違いないだろう。
僕は訊いた。「どうしてセンサーライトなんか取り付けているんですか?」
梨伊奈は少し考えるそぶりを見せてから言った。「そうね、明確な理由はないけど……あえて言うなら何かと便利だから、かな。ごくたまにだけど、知らないで私の部屋を訪れてくる人がいてね……試しにセンサーライトを取り付けてみたら、そういう人はぱったりいなくなったの。雪村くんが初めてよ、このセンサーライトを取り付けて以来、私の部屋に知らないでやって来たのは」
なるほど、確かにうっかり地下へと足を踏み入れた人間がいたとしても、ふいにこのまばゆい閃光をくらうことがあれば、少なくとも扉の中に入ろうとしたりする気は失せるだろう。それどころか、ほとんどがすぐにその場を離れるに違いない。僕のような、きわめて鈍感で注意力の足りない人間をのぞいては。
梨伊奈は前に歩み出た。「さて、ここでおしゃべりしていても仕方ないわ。はやく上に行きましょ」
「そうですね」
僕はうなずき、先導するようにして階段を上っていった。梨伊奈も後に続いた。
一階にたどりつくころには背後のライトは消え、僕たちは懐中電灯をつけた。廊下に出ると、僕は隣に立つ梨伊奈に訊いた。
「写真部の部室って、どこにあるんですか」
「旧写真部ね」梨伊奈は間違いを正すように言った。「部室なら、二階のつきあたりの方ね。特別教室がいくつか並んでいる、その先の端にあるの」
「なるほど、それじゃこのまま階段を上りましょう」
二人は並び立ち、階段を踏み外さないようにゆっくりとのぼっていった。やがて二階の廊下に出て、僕たちは右に折れると、そのまままっすぐに進んだ。左右には深い闇にしずみこんだ教室が、静かに佇んでいた。扉の窓は塗りたてられたように真っ黒で、中の様子はうかがえなかった。僕は梨伊奈に何か話しかけようかと思ったが、怯えた様子が彼女に伝わることを恐れて、結局口は開かなかった。さっきのようにからかわれるくらいなら、暗闇に潜む恐怖に怯えている方が、まだましだと思った。
それから少しして、僕たちは目的の教室の前についた。僕はごくりと唾をのみこんだ。ここに、事件について何らかの情報が隠されているかもしれない―――そう考えると、にわかに心臓の鼓動がはやくなっていくのを感じた。僕は覚悟をきめると、まっすぐ扉に手をかけた。
だが扉は開かなかった。どうやら鍵がかかっているらしい。少し考えれば容易に想像がつきそうなものだったが……僕がまたしても自分の注意力のなさに落ち込んでいると、梨伊奈はブレザーのポケットから金色にかがやく鍵を取り出した。
僕は訊いた。「それ、この部室の鍵ですか?」
梨伊奈はかぶりを振った。「いいえ、これはマスターキーよ」
「マスターキー?」僕は思わず梨伊奈の言葉を復唱した。「マスターキーって、すべての扉が開くとかいう……?」
「そうよ、これ一本で学校中の扉がひらくっていう鍵。本当は学校に一本しかないっていう代物だけど、私が複製したの。以前に校長先生に言って、どうにか借りられたときに、知り合いの鍵屋さんに頼んでね」
「それって、いいんですか……?」
「仕方なかったの」梨伊奈はしずんだ顔で言った。「そのときの依頼を達成するのに、どうしても必要でね……でも、他のことには使っていないから安心して。今日をのぞけば、だけど」
「はあ……」
僕はあいまいにうなずいた。梨伊奈はちいさく笑うと、ためらいもせずにマスターキーを鍵穴にさしこんだ。そのままくるりと回転させる。ガチャ、という音が静寂のなかに響き渡った。梨伊奈は鍵穴からマスターキーを引き抜くと、それをふたたびポケットにしまった。
「さあ、開けるのは雪村くんの仕事よ」
僕はうなずくと、ふたたび扉に手をかけた。今度は少しの力で、扉はするすると簡単に開いていった。僕は懐中電灯で足元を照らしながら、中へと入っていった。
内部は整然としていた。広さは通常の教室よりも少し狭いくらいだが、きれいに整理整頓がなされているおかげで息苦しさは感じなかった。三脚は壁にもたれかけるようにして置かれ、天井近くまで伸びた大型の棚には、金属製の箱のようなものがきっちりとおさまっている。中にはおそらくカメラを収納しているものだろう。大きさも形もさまざまだが、ばらばらに見えないようにちゃんと並べておさめられている。僕は驚嘆の声をあげそうになったが、梨伊奈がだまって周囲をみまわしているのに気付いて、なんとか声が出るのを抑えた。
僕は訊いた。「なにか見つかりましたか?」
梨伊奈は答えず、かわりに再び周囲に視線を巡らせた。僕はその視線を追った。すると梨伊奈の視線は教室の前後の壁に向けられているのがわかった。そこには壁全体に大きな白い布のようなものがかけられていて、その表面をすっぽりと覆い尽くしていた。
「どうして布が貼ってあるんだろう」
後ろからつぶやくと、梨伊奈はふりかえって首肯した。
「うん、変よね。仮にここで写真を撮るにしても、前後に分けて貼るのは不自然だと思う。どちらか一方で十分なはずだからね。それに、ずっと貼っているっていうのもおかしい。汚れがついたり、日焼けの原因になるはずだから」
「確かに、そうですよね」僕は同意した。「それじゃ、一体どうして……。これだけ部屋が整頓されているのに、片付けが面倒くさかったっていうのも変だし」
梨伊奈は壁に貼られた布に近寄った。僕は少し離れてその後ろ姿をながめていたのだが、不意に彼女が起こした行動に驚き、思わず声を張った。「梨伊奈さん、なにを……」
梨伊奈は布をはがしていた。刺さっていた画鋲を次々と外し、壁と布の接着を切り離す。僕はとりあえず訳を訊こうと思い口を開きかけたが、むき出しになった壁面を見て思わず息をのんだ。
そこにあったのはおびただしい量の写真だった。壁は高さも幅も通常の教室とほとんど遜色ない大きさだったが、それでも所狭しとばかりに写真が張り巡らされている。布が壁からはがれていけばいくほど、見える枚数は劇的に増えていく。僕はいったい何の写真かと思い、近くに駆け寄って懐中電灯の光を当てた。
僕の体を、雷で打たれたかのような衝撃が走った。
そこに写っていたのは、すべて鷲尾真由美の姿だった。壁面一杯に貼りつけられた写真、そのすべての中心に真由美がいた。僕は手当たり次第に光を当てて確認した。だが光をうけて輝くのはどれも真由美の顔だった。笑った顔、すました顔、ちょっとおこったような顔。真由美の見せるすべての顔が、ここに集結しているのではないかという錯覚さえ覚えるほどだった。
僕は反対側の壁に駆け出した。乱暴に画鋲を取り去り、布をはぎ取る。現れたのはやはり真由美の顔だった。僕は取り去った布を床に叩きつけると、その場にへたりと座り込んだ。いつの間にか膝が震えている。それは怒りとも悲しみとも似つかない、それらがない交ぜになったような複雑な感情によってだった。
梨伊奈が駆け寄ってくるのが見え、僕はつぶやいた。「これを、あいつが……」
梨伊奈はうつむき、静かに告げた。「そうかもしれない。だけど、まだ決まったわけじゃ……」
「いいえ」僕は遮るように言った。「あいつが事件に関わっているのは間違いない。それくらいは、いつも注意力の足らない僕にだってわかります。そして、この写真を撮ったのもきっと……」
「落ち着いて、雪村くん。ここで興奮したって何もいいことはないよ。冷静にならないと、見えるものまで見えなくなっちゃうんだから」
梨伊奈の手が僕の肩におかれた。彼女のぬくもりが、肩をとおしてゆっくりと広がっていく。僕はうなずくと、その場にゆっくりと立ち上がった。梨伊奈もそれにならう。
僕はうつむいて言った。「すみません、取り乱しちゃって……」
「ううん、雪村くんは悪くない。私が君の立場でも、きっとそうなっていただろうし……これだけの現場を見せられれば、ね」
梨伊奈はそう言うと、布の取り払われた壁へと視線をうつした。一体何百枚貼ってあるのかという、文字通り数え切れないほどの写真たち。そのすべてに真由美が写っている。一枚ずつ確認したわけではないが、まず間違いないだろう。僕はその光景に恐怖すら覚えたが、つとめてまっすぐに写真たちをみつめた。真実から目を逸らしたところで、何も解決はしない―――そう自分に言い聞かせることで、僕はなんとか精神を保っていた。
それから僕は梨伊奈と手分けして、他に手がかりになるものがないか調べた。だが部屋はきれいに片付いているおかげで探す場所がほとんどと言っていいほどなく、捜索は三十分もかからぬ内に終了した。僕はため息をついた。大量の写真こそ見つかったが、肝心の事件の証拠となるようなものは何一つ見つからなかった。陸生が犯行にかかわっている可能性は極めて高くなったが、証拠がないのではただの憶測にすぎないものになってしまう。
梨伊奈にも同様の思いがあったらしく、しばらくは腕を組んで物憂げな表情を浮かべていたが、やがて歩き出すと壁に貼られた写真を一枚つかんで言った。
「ダメね。これ以上探しても見つかりそうにない。とりあえず部屋の様子をデジカメで撮って、それが済んだら……くやしいけど、一旦この部室を出ましょう」
僕はうなずいた。梨伊奈はポケットからコンパクト・デジタルカメラを取り出すと、くるくると立ち位置を変えながらフラッシュを焚いた。僕はまぶしさに目を細めながら、ぼんやりと壁の写真を眺めていた。この状況で考えるべきことではないかもしれないが、やはり真由美は可愛かった。写真におさめられていても、その輝きはまったく衰えていない。おそらく写真映えも悪くないほうなのだろう。アイドル事務所のスカウトが見れば、すぐさまオファーが飛んできてもおかしくない。そのくらい真由美は可愛かったし、人を惹きつける才能のようなものも感じさせた。
そう思いながら写真たちをながめていると、ふと目に留まる一枚があり、僕は近づくとそれに向かって手を伸ばした。写真と壁はセロハンテープで接着してあったが、僕は時間をかけて丁寧にはがし取った。
やがて目当ての写真を手に入れると、僕は懐中電灯でその表面に光を当てた。中心にあるのはやはり真由美の顔だった。友達と談笑しているのか、口を開けて笑顔を浮かべている。僕は自然とそれに同調しそうになったが、あわてて写真に意識を戻した。確かに真由美の表情も魅力的だったが、僕が気になったのはそこではなかった。
真由美が笑顔を見せるその背後に、ひとつの人影があった。姿のほとんどが真由美の背に隠れて見えないが、かろうじてその顔だけは写っているようだった。とは言ってもその顔はかなり小さく、僕は必死で目を凝らした。
そして次の瞬間―――僕は驚きのあまり、バランスを崩して尻もちをついてしまった。
すると写真を撮っていた梨伊奈が気付き、慌てて駆け寄ってきた。「どうしたの?」
僕はふらふらと立ち上がると、梨伊奈に写真を見せた。梨伊奈は首を伸ばしてそれを覗き込む。だが梨伊奈には僕の驚きの意味がわからなかったらしく、小首を傾げて訊いてきた。
「これが、どうかしたの?」
「どうかしたなんてもんじゃないです。見てください、ここに人影があるでしょう?」
「あるけど……」
梨伊奈はまだ怪訝顔をしていた。僕はその人影を指差し、その人物の名前を言った。すると梨伊奈は切れ長の瞳を大きく見開くと、写真に写る顔を何度も確認した。
「これが……? 間違いないの、雪村くん?」
「はい。顔は小さいですが、僕も何回も確認したので」
「そう……」
梨伊奈は力なくつぶやくと、壁に貼られた無数の写真に視線を向けた。驚きのあまり呆然としているようにも見えるが、なんだか興味を無くしているようにも見えた。僕は梨伊奈に近づくと、後ろから声をかけた。
「あの、どうかしましたか……?」
梨伊奈は振り向くと小さく笑ったが、すぐにもとの表情にもどった。
「ううん、何でもないの。ただ……確認しなきゃいけないことが出てきたみたい。帰りに寄ろうと思っていたけど、やっぱり今すぐの方がいいかな」
すると梨伊奈は扉に向かってすたすた歩いて行った。僕は慌ててその背中を追った。
到着したのは職員室だった。梨伊奈はまたしてもマスターキーを使って鍵を開けた。中は当然のごとく真っ暗だったが、梨伊奈は懐中電灯で足元を照らしながら迷いなく歩いていった。僕はおいていかれぬようなんとか歩調を合わせた。
やがてたどりついたのは、僕がここ数日幾度も訪れた場所だった。僕はおどろいて梨伊奈の横顔を見た。
「ここ、家長先生の机じゃ……」
「そうね」梨伊奈はこともなげに言った。「けど用があるのはそこじゃないの。その隣にある机よ」
「隣って……横山先生の?」
梨伊奈はうなずいた。横山教諭―――それは僕が家長教諭と話し合いをしているさいに、迷惑そうな目でこちらを伺っていた人物だった。職員室で生徒と教諭が話し合うことは珍しいことではないが、その時間があまりにも長いうえ、その雰囲気は異様に暗く重たいものだった。僕は当事者でありながら同情を禁じ得なかった。こんな話を職務中ずっと聞いていれば、誰だって気持ちのいいものではないだろう。
その横山教諭の机を、梨伊奈はためらいもなく探っていった。机上にある書類の束をめくり、引き出しを開けて中のファイルを確認する。僕はしばらく呆然とその光景を見ていたが、やがて声を掛けた。
「梨伊奈さん、何してるんですか?」
「何って……名簿を探してるのよ。新生写真部のね」
「写真部?」僕はおどろいて訊いた。「写真部の名簿を、どうして横山先生が持っているんですか?」
梨伊奈は視線を落としたまま言った。「気付かなかった? あの部室の管理者の欄に、横山先生の名前があった。前の顧問をやっていた先生もそこに名前が記されていたから、たぶん新しい写真部の顧問は横山先生じゃないかと思ったの」
僕がまだもの問いたげな顔をしていると、梨伊奈は付け加えるようにして言った。
「特別教室と呼ばれる教室は、普通の教室と違ってひとつひとつに管理者が一人割り当てられているの。それがだいたい部屋の扉の右上あたりに記されていて、それを見れば誰が管理してるのか一目瞭然ってこと。知らなかった?」
僕が首を振ると、梨伊奈は小さく笑って意識を手元に戻した。どうやらまたしても僕の注意力のなさが露見してしまったらしい。僕は頭をかくと、梨伊奈の隣に立ってファイルを手当たり次第に探していった。
やがて写真部関連のファイルが見つかると、梨伊奈は先んじて内容を確認した。するとその表情が凍りついたように活動を停止した。大きな瞳は開かれたまま動きを止め、唇は薄く引き結ばれている。僕は梨伊奈の反応に目を奪われながらも、ファイルの開かれたページに視線を落とした。
そこには、先ほどの写真など霞むくらいの、本当の意味での驚愕の内容が記されていた。
事件の真相
翌日の放課後、僕は教室で梨伊奈が来るのを待っていた。時間帯はすでに夕方ということもあって校内の喧騒はだいぶ静まり、教室内には沈黙がおりていた。僕は手近にあった椅子に座ると、集まった面々の顔を順番に見やった。
するとその中の一人―――学級委員長の野村楓が、不満そうに口を割った。
「ちょっと、いつまで待たせる気? かれこれ三十分は経ってるけど」
「まぁまぁ」僕はなだめるように言った。「もう少しだけ待ってよ。もうすぐ来るはずだから」
「もうすぐ? それってさっきも言わなかったかしら。もう少し待っても来なかったら、私帰るからね」
僕がまいったなという風に頭をかいていると、家長教諭が口をはさんだ。
「野村、これから何か予定があるのか?」
「えっ」野村は虚を突かれたようにこぼした。「別に、ありませんけど……」
「なら待っていなさい。事件のことに関してはお前も頭を悩ませていただろう。これで事件が解決するとは限らないが、話だけでも聞く価値はあるはずだ」
野村は仕方なくという様子でうなずくと、それきり口を閉ざした。残る二人―――陸生と横山教諭は、そろって一言もしゃべらなかった。陸生は怯えた様子でうつむいたまま、横山教諭は何で俺がよびだされたんだとでも言いたげな、明らかな不満顔をしていた。
僕は彼らから視線を切ると、黙って梨伊奈がやってくるのを待った。
それから十分ほど経って、梨伊奈は姿をあらわした。昨日、夜の学校に潜りこんだときと同様に学校の制服を身にまとっていた。四人の面々は皆一様に梨伊奈の姿に釘付けになっていたが、彼女は意に介さずといった様子で僕のそばまでやってくると、そこで自己紹介をした。
「はじめまして、二年四組の加藤梨伊奈といいます。今日はわざわざ集まっていただいて、どうもありがとうございます。それでさっそくなんですが、今日みなさんをここにお呼びしたのはですね……」
「あの」野村は不機嫌な声でいった。「前置きはいいから、はやく本題に入ってくれません? 何の話かくらい、もう雪村くんから聞いて知っていますから」
「そうでしたか。それではおっしゃる通り、本題から入らさせていただきます」
梨伊奈は物腰の低い、つとめて丁寧な口調で言った。野村はあいかわらず不機嫌そうな目を梨伊奈に対し向けていたが、それ以上はなにも言わなかった。わざとらしく感じるほどの恭しさは、もしかして野村を抑えつけるためのものなのか。こうして初めて顔を合わせるのだから、とっさにそんなことはできないはずだが……『悪女』たる彼女なら、そう意図してやっているとしても不思議ではないと僕は感じていた。
梨伊奈は言った。「事件が発覚したのは二日前の放課後のことです。鷲尾真由美さんのジャージが、しまってあったはずのロッカーから忽然と姿を消したということで、家長先生はクラスで持ち物検査を実施しました。誰かが何らかの形で、誤って持っていってしまってのではないか―――そういう意味が込められてのことだったと思います」
梨伊奈は視線を家長教諭に向けた。教諭は黙って首を縦に振った。梨伊奈はそれを確認すると、話をつづけた。
「ですが、事態は思わぬ方向に向かっていきました。鷲尾真由美さんのジャージは、ここにいる雪村窓くんがロッカーにしまっておいたカバンの中から見つかりました。本来ならば、家長教諭が想定したとおり、誤って持っていってしまったのではないかと考えるのが自然でしょう。しかし雪村くんが男子生徒ということもあって、周囲の生徒たちは色めき立ち、雪村くん自身も激しい動揺を見せてしまった。真実が明らかでないまま、雪村くんは一気に事件の第一容疑者に押し上げられてしまったのです」
「待って」
野村の声が静かな教室に響き渡った。他の五人が一斉に彼女の方を見る。
だが野村はそれにも動じず、いつものきっぱりとした口調で言った。
「真実が明らかでないと言ったけど、果たしてそうかしら。この事件に関しては、私も含めて、クラスだけでも五人の目撃者がいるのよ。それでも、雪村くんを容疑者とみなしたことが間違いだったと言える?」
梨伊奈はかぶりを振った。「間違ったとは言っていません。むしろ、その状況で雪村くんを犯人だと疑わないほうが不自然でしょう。ただし……その話が本当なら、ですけどね」
「……それ、どういう意味かしら」
野村は鋭い視線を梨伊奈に投げかけた。僕はその迫力に思わずぞっとしたが、梨伊奈はゆるやかに視線を外すと、話を本筋にもどした。
「雪村くんが犯人だとするなら、動機は簡単です。学年でも飛びぬけて美少女と誉れ高い鷲尾さんのジャージを盗みたくなる衝動は、理解こそできないものの、理由としてはわかりやすい。ですが他の人間が犯人だとすると、話は違います―――どういうことだかわかりますか、春川陸生くん」
突然話題を振られ、陸生は狼狽した。表情はこわばり、視線は床に落とされたままになっている。明らかに様子がおかしいのが、他の三人にも伝わったのだろう。皆緊張した面持ちで、陸生の様子を注視している。
やがて答えが得られそうにないと思ったのか、梨伊奈は小さく首を振った。
「他の人間、たとえば私が犯人だとしましょう。犯人である私は鷲尾さんのジャージを何らかの方法で手に入れたあと、雪村くんのロッカーに入っていたカバンにそれをしまった。これって、少し変ですよね? 盗んだジャージを自分のものにしてしまうならまだしも、それをわざわざ他人のカバンに入れるなんて……何か特殊な動機でもなければ、こんな行動には及ばないでしょう。ではその動機とは、一体何なのでしょうか」
梨伊奈はそこまで言うと、集まった面々の顔を順番に見つめた。表情こそ違うものの、皆一様に口を閉ざしている。問いの答えがわからないのか、あるいは答えることができないのか。
すると梨伊奈は気付かれないように、僕に対して笑みを向けると、すぐに真顔になって言った。
「犯人―――つまり私は、雪村くんに対して何らかの遺恨をもっていた。そしてそれを晴らすため、鷲尾さんのジャージを利用して雪村くんを事件の犯人に仕立て上げ、彼をおとしいれようとした。そう考えると、辻褄が合いますよね。雪村くんに恨みを持っている人間……まだ入学から二カ月と経たないうちということを考えると、犯人は同じ学年内、それも同じクラスの人間である可能性が高い。そこで私は、とりあえず容疑者を雪村くんのクラスメートに絞って調査をしてみることにしました」
四人は黙って梨伊奈の話を聞いていた。家長教諭が理解できるという風に何度もうなずいているほかは、教室内に動きはなかった。梨伊奈は教諭に笑いかけると、話をつづけた。
「私は雪村くんに、自分に対してなにか恨みを持っていそうな人物がいないかどうか訊きました。残念ながら、雪村くんは思い当たる人物はいないと言いました。ですが、別のことでなら気になる人物がいる、彼はそう私に話してくれました」
周囲に緊張が走ったのが、僕にもわかった。とりわけその中心にいるのが誰なのかは、言うまでもないだろう。陸生はあからさまに狼狽していた。梨伊奈はそれをちらと横目で見ると、淡々とした口調で告げた。
「それが、今日ここにお呼びした春川陸生くんです。彼は雪村くんの親友で個人的な恨みこそないでしょうが、だからこそいつもと様子がおかしいことに、雪村くんは目敏く気付いたのでしょう。そうでしょう、雪村くん?」
僕はうなずいた。陸生はちらと顔をあげたが、またすぐに視線を落とした。
梨伊奈は言った。「雪村くんの話によると、春川くんは事件が発覚した前の日から様子がおかしかった。それは表情やしぐさといったことばかりではありません。春川くんはその日の放課後、雪村くんを屋上に呼びだしたのです。春川くんは理由を告げようとはしませんでしたが、雪村くんは約束通り屋上に向かい、そこで彼を待ちました。ですがしばらく待っても春川くんはやってこなかった。そこで雪村くんは一旦校舎の中にもどろうかと思いましたが、ちょうどそのときになって春川くんはやってきました。それも、たくさんの持ち物を抱えて」
梨伊奈は問うような目をして陸生を見た。陸生はうつむいたままだったが、表情はさっきよりもひきつっていた。何かに耐えかねているような、そんな我慢の表情であるようにも感じられた。
「持ち物というのは、すべてカメラの機材でした。雪村くんが訊くと、春川くんは夕日を撮るのだと言いました。自分は写真部に入ったので、コンクールに出すための写真が欲しいのだということでした。ですが、私はすぐにおかしいと感じました。その理由、おそらく先生方ならわかると思いますが……」梨伊奈は声のトーンを落とした。「写真部は昨年の暮れ、ある不幸な事件があって廃部になったはずでした。それ以来、生徒たちの中で写真部の話題を出すことは暗黙の了解でタブーとなりました。おそらく今年入ってきたばかりの一年生は、耳にしたことすらないでしょう。ここでそれについて詳しく話すことはしませんが、それほど暗く重い事件だったということです」
僕は衝撃を受けていた。写真部が廃部になった話までは聞いていたが、裏にそんな理由があったなんて……。同じ一年生である陸生と野村も驚いているようだったが、その様子は少し異常だった。陸生は呆然として視線を床の上に這わせ、野村は大きく目を見開いていた。しかし無理もないだろうと僕は思った。
梨伊奈は二人の様子を、冷ややかさを感じる目つきで見ると、それから話を再開した。
「その写真部に、自分は入部したのだと春川くんはいいました。あるはずのない部に加入していると言い張るなんて、明らかにおかしい。そこで私と雪村くんは昨日、少し遅めの時間に二人で、かつて写真部のあった部屋を訪れました。するとそこには、明らかに活動の跡が残っていました。それは部屋がきれいに片付いているというだけでなく、備品の位置取りが、かつて私がここで見たものとだいぶ違っていたことから判断したことです。そして許可も得ずに、いけないこととは思いましたが、二人で部屋内をくまなく探しまわりました。ひょっとしたら、事件にまつわる何かがあるのかもしれない。そんな予感めいた思いで、私たちは捜索を続けました。すると、驚くべきものが見つかりました」
教室内には重苦しい沈黙の幕が降りていた。二人の教諭は、固唾をのんで梨伊奈の言葉の続きを待っている。特に、今までどこか無関心さを漂わせていた横山教諭の表情の変化には、僕も少しばかり驚いた。対して陸生と野村の二人の表情はちがった。陸生は焦燥に満ちたような顔つきで、野村はつとめて無表情をつらぬいていた。僕は梨伊奈の横顔を見た。
梨伊奈はうなずくと、事件の核心へと入っていった。
「写真部室の壁には大きな布がかかっていました。写真撮影に利用するものかと考えましたが、私たちは強い違和感を覚えて、その布をはがし取ってみることにしました。すると、その下にはたくさんの写真が貼られていました。並みの数ではありません。それこそ数え切れないと言っていいくらいの、おびただしい量の写真が、壁に貼り付けられていました。そして、そのすべての写真に、鷲尾真由美さんの姿がありました」
驚きの反応が、二人の教諭の間から漏れ聞こえた。
やがて家長教諭が訊いた。「それは……間違いないのか」
梨伊奈は即答した。「ええ。何なら写真にもおさめてありますので、ご覧になりますか?」
家長教諭が頷くと、梨伊奈はポケットからコンパクト・デジタルカメラを取り出して画像を表示し、教諭に渡した。それを見て、教諭は驚愕の表情を浮かべた。おそらく予想以上の光景だったのだろう。横から覗いた横山教諭も同様の表情で唸った。
「これは……こんなものが、あの部室に……」
「その様子だと、相当おどろかれたようですね。ですが、これは事実です。そしてもう一つ気になることがあります」梨伊奈は家長教諭からデジタルカメラを受け取ると、別の画像を表示して、再び渡した。「これを、よく見てください。この顔です」
梨伊奈が指でうながすと、教諭たちは食い入るような目でそれを見た。そして、家長教諭はまたしても衝撃を受けたように目を見開くと、呆然とつぶやいた。
「これは……お前じゃないか、春川」
その言葉に、二人の一年生も驚きを隠せないようだった。野村はすぐに立ち上がると、教諭からデジタルカメラを奪い取り、表示された画像を注視した。遅れてついてきた陸生もそれにならう。
野村は震える手で言った。「うそ、まさかこんなものが……」
「そのまさかよ」梨伊奈は語気を強めて言った。「複数犯の可能性は、私も初めから考えていたことだった。だけど、これを見て確信に変わったの。それですぐに職員室に行って、横山教諭のデスクにあった、新生写真部の名簿を確認した」
家長教諭が訝しげな目で言った。「横山先生のデスクを勝手に探したのか?」
「ごめんなさい」梨伊奈は素直に謝罪した。「周りの目を盗んで……。どうしても、すぐに確認したいことだったんです」
「まあ、今はそれについては責めるつもりはない。それで、何がわかったんだ?」
梨伊奈はうなずいた。野村は心ここにあらずというような、茫然自失といった様子で立ち尽くしていた。さすがにあの膨大な写真のすべてはチェックしていなかったらしい。一方の陸生は、戸惑った表情を浮かべて野村の隣に座っていた。おそらく話の展開についていけていないのだろう。だが、それもいずれ解消される。僕はただ、梨伊奈の言葉の続きを待った。
やがて梨伊奈は静かな口調で告げた。
「名簿には三十名以上の名前が記されていました。写真部ということを考えれば、それだけでも驚くべきことですが……問題はそこではありませんでした。その名簿には、なんと春川くんの名前が記されていなかったんです。そうですよね、横山先生」
突然の名指しに横山教諭は面喰ったものの、しっかりとした口調で答えた。
「ああ、確かに春川という生徒は、写真部の部員ではない。三十人以上もいるとまだ顔を覚えていない生徒もいるが、それでも春川が部員でないことは容易にわかる。なぜなら……」
「写真部員は、みんな女子生徒だから」梨伊奈が重ねるように言った。「そうですよね、横山先生」
横山教諭は首肯した。「そうだ、写真部員はどういうわけか、みんな女子生徒だ。男子生徒は一人もいない。だから、春川が写真部員だと言ったという話を聞いた時は、不思議に思っていたんだが……」
教室中の視線が、陸生に向かって注がれた。だが陸生は最後まで抵抗し続けるつもりらしく、決して口を割ろうとはしなかった。
僕は梨伊奈の顔を見た。彼女もまた僕を見返し、力なく首を振った。もしかしたら、ここで自白が得られるかと思っていたのだが―――かけられた枷は、陸生にとって想像以上に強力なものだったようだ。僕は陸生に同情した。自分が陸生の立場でも、やはり同じように口を閉ざしていただろうと思ったからだ。
梨伊奈は言った。「それだけではありません。その部員の中に、今日ここにお呼びした、野村楓さんの名前がありました。それも部長という役職つきです。他にも、同じクラスから四名の生徒が入部しています。雪村くんに訊いたところ、いずれも事件発覚時のホーム・ルームで、雪村くんが犯行に及ぶところを見たという旨の証言をした人たちでした。おそらく、他のクラスで同じ証言をしたという生徒たちも、みんな写真部に所属する部員だと思います」
「なんだって?」家長教諭が驚いて言った。「野村が部活動に参加しているなんて話、私は知らなかったぞ。一体どういうことだ?」
「それは、写真部が正式な部活動として認められていないからでしょう。おそらく、現段階では部活動ではなく、同好会のひとつとして活動がなされているのではないでしょうか。それなら原則、担任教師の許可は必要ないことになっていますから。そうよね、野村さん?」
今度はみんなの視線が一気に野村へ収束した。野村はうつむいたまま沈黙を守り続けていたが、ふいに顔をあげると梨伊奈を鋭くねめつけながら言った。
「そうよ。私は写真部、いいえ、写真同好会の会長をしているわ。だけど、それがどうしたっていうの? 写真のことは驚いたけれど、それはおそらく他の部員たちが勝手にやったことよ。私は一切関与していないわ。もちろん、春川くんがどうとかっていう話だって、ここで初めて聞いたことで、私は全く知らなかったんだから」
野村は一気にまくしたてると、そのまま近くにあった椅子に座りこんだ。教室中に重苦しい雰囲気がたちこめる。教諭たちは野村の剣幕に気圧されたように、一様に口を閉ざしていた。陸生は相変わらず無言だった。僕は激しい怒りを覚えていた。それは陸生に対してではなく、野村に対してのことだった。だがすんでのところで、僕は行動を思いとどまった。ここでそんなことをしてしまえば、何もかもがぶち壊しになってしまうかもしれない。そう思い、僕は必死でこらえ続けていた。
梨伊奈にも同様の思いがあったらしく、眼光鋭く睨み返すと、殊更静かに語りだした。
「確かに、野村さんが写真同好会の会長をやっていることに関しては何も問題はありません。それどころか、三十人以上の部員を束ねているわけですから、むしろ賞賛を受けるべきことです。ですが、その活動の実態が、冠している名前の通りではなかったらどうでしょう? それも、他人を盗撮してその写真を数多く流通させているとしたら」
「だから、それについて私は知らないって……」
「マユミクラブ」梨伊奈は遮るように言った。「正式名称、鷲尾真由美ファンクラブ。それが、新生写真同好会の正体なのでしょう?」
「なっ……」野村は明らかな動揺を見せた。「どうして、あなたがそれを……」
「調べはすべてついているの。野村さん、あなたは中学の頃から学校のマドンナ的存在である鷲尾さんに対して、強い好意を持っていた。だけど、嫌われたくないという思いが強すぎるせいで、なかなか彼女に近づいていくことができなかった。そのため、同じく鷲尾さんに好意を抱いている女子生徒たちを集めて、ファンクラブを結成した。そこでは鷲尾真由美についての情報や、写っている写真や映像など、多種多様なあらゆるものが共有された。そうしてあなたは鷲尾さんに対する欲望を満たしていった。だけど、その欲望が更に深いものになっていったのか、鷲尾さんに近寄ろうとする他の人間に対して、強い敵意を抱くようになった。するとその思いに他のファンクラブのメンバーも共感し、協力して鷲尾さんに近づく人間を排除するようになった。見込みのある女子生徒はファンクラブに勧誘し、男子に関しては手段を問わずに叩きつぶした」
「な、何を根拠にそんなことを……」
野村は小さな声で抵抗したが、梨伊奈は意に介さず続けた。
「そして、舞台を高校に移してもそれは変わることがなかった。あなたはファンクラブの新たな活動拠点となる場所を探していたところ、旧写真部の部室を見つけた。今は使われていないのだということが、一見してすぐにわかった。そのため、管理者である横山先生に新たな写真部を作りたいのだという旨を申し出た。おそらく横山先生はあまり乗り気ではなかったでしょうけど、あなたは頼み込むことで何とか了承を得て、あの部室を自由に使う権利を得た。同好会のため部室に保管されていたカメラを使う権利は与えられなかったけど、目立たない分あなたたちにはかえって好都合だった。そうして、中学の時と同様にファンクラブの活動が開始された。折を見て女子生徒を招き入れては、鷲尾さんに近づく男子生徒を切り離していった」
「ふざけないで!」野村は叫んだ。「そんなのでまかせよ。あなたが私を陥れるための、妄言に決まってる」
そんなことをして梨伊奈に何の得があるのかと、僕は内心で毒づいたが、梨伊奈はそんな反応も予期していたというように、あっさりと答えた。
「すべて裏付けの取れていることよ。あなたの交友関係を調べ上げて、この学校の生徒はもちろん、同じ中学に通っていた生徒にも話を聞いたわ。なかなか口を割ってくれない人もいたけど、最後にはすべて洗いざらい話してもらった。あまり好ましくない手段も使ったけど……真実に至るためには、ある程度は仕方のないことよね。何なら自分で聞いてみる? すべてボイスレコーダーで録音されているから、ここで流すこともできるけど」
梨伊奈は微笑んだ。『あまり好ましくない手段』という言葉の響きに、僕はぞっとするものを覚えた。一体どんな手を使って聞き出したのか……知りたい気もするが、知ってしまうのはあまりに怖いことのようにも思えた。
野村が反論できずにいるのを見て、梨伊奈は続けた。
「それから、ファンクラブの活動が安定してしばらく経った頃、ある男子生徒が鷲尾さんに近づいているということが、ファンクラブ内で問題視された。それは会長である野村さんのクラスにいる男子生徒で、あなたはそれをずっと間近で見ていた。これまで、同じような男子生徒はみんな『警告』を出すことによって、比較的容易に退けることができていた。だけどその男子生徒は『警告』に気付かず、いつまでも鷲尾さんにまとわり続けていた。あなたは我慢の限界をむかえていた。そうして行動を起こすことにした。手段は様々考えられたけど、あなたはもっとも有効かつ、男子生徒の心に大きな傷を残せるような方法を選択した。それくらい、あなたは大きな怒りを胸の内に抱いていた。その男子生徒というのが彼―――雪村くんだった」
僕はおそるおそる野村の顔を見た。野村は何も言わず、ただ梨伊奈を睨みつけているようだった。ものすごい形相だ。教諭二人は唖然とした様子で、その光景をみつめている。どうやら場の意識はみんな、梨伊奈に向かって注がれているらしい。
梨伊奈は淡々とした口調で言った。
「野村さんが作戦を決行したのは、事件が発覚した前日。あなたは鷲尾さんの一日の行動パターンを事前に知っていた。そのため、鷲尾さんがいつの時間帯にジャージをロッカーに保管しているのか手に取るようにわかっていた。私が独自に調べたところ、鷲尾さんは体育の授業が終わるとジャージをロッカーにしまい、放課後に図書室でその日の復習を終え、帰宅するときにそのジャージを持って帰るのが、いつものパターンのようだった。あなたたちは、この空白の時間帯を利用して犯行に及んだのでしょう。それも、おそらく人目のつかない放課後に。鷲尾さんの動向はその日しだいの部分もあるけれど、ファンクラブの会員を一人追跡させて、逐一動向を確認すれば問題はない。実際の犯行では、ロッカー前にファンクラブの会員を複数集めて、談笑するふりをしてロッカーを囲み、周囲から見えないようにしながらジャージを取り出したのでしょう。そうすればもし人目があっても、誰かが気付いてすぐに犯行を中断することができる。そうしてあなたたちは同じようにして、盗み出したジャージを、雪村くんのロッカーに入っていたカバンに忍び込ませた。そうして犯行は完了した」
野村は押し黙っていた。反論を考えているのか、あるいは打つ手なく沈黙せざるをえないのか。いずれにしても不気味だと僕は思った。これだけのことを考え付く人間だ、このまま黙って引き下がるとは考えづらかった。
梨伊奈は畳みかけるようにつづけた。
「唯一、犯行に際して目障りな人物がいた。それは他ならぬ、犯行の対象である雪村くんだった。あなたたちは、雪村くんのカバンに鷲尾さんのジャージを仕込むことで、雪村くんが鷲尾さんのジャージを盗んだ犯人であるという状況を作りたかった。だけど、雪村くんが放課後の犯行可能時間に、どこか遠い場所で誰かに見かけられたりしていたとしたら、犯行は不可能ということになる。それを恐れ、あなたたちは雪村くんを一定時間の間、どこかに拘束することを考えた。場所は学校の屋上がベストだと思われた。入口が一つで、周囲から雪村くんの存在に気付かれることもない。だけど、ファンクラブの会員たちはみんな、雪村くんと親しい関係になく、突然彼を連れだしたりするのは現実的に難しい状況だった。そこで雪村くんの親友である春川くんに白羽の矢が立った。春川くんなら多少無理やりにでも屋上に連れ出すことは可能だろうし、彼にはわかりやすい弱みがあった。操るのは難しくない、そう考えたあなたたちは、春川くんを支配下に置いた。そして作戦のすべてを春川くんに説明した。屋上に連れ出す理由については、彼が写真部であるということにすれば問題ないと思った。部室には機材がいくらでもあるし、ファンクラブの表の顔は写真同好会。なにかあっても対処しやすいと考えた。そして作戦を実行に移した。犯行は滞りなく終わり、翌日には目論見通り雪村くんが犯人として祭り上げられた」
これが事件の真相です―――そう結んで、梨伊奈は言葉を切った。
彼女の言うとおり、これが野村たち『マユミクラブ』の考えた作戦の、その全貌だった。僕はまんまと犯人仕立て上げられ、鷲尾さんとの間に埋めがたい溝を作られた。僕は昨日の職員室で真相を知った時、怒りよりも自分に対する情けなさが先行した。いくら相手が集団とは言え、そのほころびすら見いだすことができずにいたなんて……ここまで完璧に嵌められれば、むしろ気持ちよく感じるものかもしれないが、僕に限ってはそんなことはなかった。僕は唇をかんだ。今考えてみても、ひたすらに情けなかった。
教諭たちは難しい表情を浮かべていた。突然事件の真相を聞かされて、どうしたらいいのかわからないというのが本音だろう。だが家長教諭は僕の方をみると、小さく頭を下げた。それだけで僕は十分だった。誠意ある対応を見せてくれていた教諭に、恨み節など一つも浮かんでこない。本当にいい先生に担任を受け持ってもらえたと、僕は心からそう思った。
陸生はうつむいたまま動かなかった。彼の場合真相は知っていただろうが、どうしたらいいのかわからないという点では、教諭たちと同じだろうと思った。僕は声を掛けるようかと思ったが結局やめておいた。慰めを掛けたところで、陸生の心が癒えることはないだろう。そっとしておくのが、今は一番いいだろうと思った。
それから僕は梨伊奈の顔を見た。梨伊奈もまた僕を見返してきた。よくやく終わったね。笑みにはそう込められているような気がした。僕も自然と笑顔になった。やっぱり梨伊奈には、人を惹きつける何かがある。この状況下で、僕はそんなことを考えていた。
そのとき―――
「証拠は?」
殴りつけるような乱暴な響きが、教室内に響き渡った。僕はぎょっとして声のした方を振り返った。他のみんなも同様らしく、視線はすでに一か所に集まっている。
野村は吐き捨てるように言った。「加藤さん、確かにあなたの推理はすばらしかったわ。犯行時の行動の推測は理にかなっているし、私にはそれをするだけの十分な動機があることも証明した。だけど、それが何? 決定的な証拠がなければ、私が犯行に関わったという事実は認められないはずよ。賢いあなたなら、それくらいわかるでしょう?」
野村の言うとおりだった。確かに、梨伊奈の推測は正しいだろう。だが、それを確定づけるだけの十分な証拠がない。僕は頭を悩ませた。梨伊奈はこのことについて気付いていた筈だ。だが僕に対して話したことは一度もなかった。どうして―――もしかして、証拠はどこにも残されていなかったのだろうか。だから野村が自白することを信じて、とりあえずここまで話してみたのかもしれない。だが野村に、自分の罪を認める様子は一切なかった。
この状況、一体どうすればいいんだ―――
僕が頭を抱えていると、その横を梨伊奈がすたすたと通り過ぎた。僕は顔を上げて、彼女の行く先を見た。野村も大きな目をさらに剥いて、その背中に視線を送っている。
やがてたどりついたのは、陸生の目の前だった。陸生は梨伊奈に気付いたようだったが、顔を上げようとはしなかった。梨伊奈はその場にしゃがみこむと、覗き込むようにして陸生の顔を見た。まるで小学生ぐらいの少年の顔を、その母親が膝を折って見つめているような―――そんな構図だった。
梨伊奈は言った。「今の話、聞いていたでしょう? 雪村くんの無罪を証明するためには、君の力が必要なの。君が事件のことについて少し証言してくれるだけで、雪村くんが救われる。お願い、できないかな?」
梨伊奈は手のひらを合わせた。陸生は相変わらずうつむいていたが、その口が少し開きかけていることに僕は気付いた。もしかすると、陸生は初めから自白したいという思いがあったのかもしれない。ただそのきっかけがなかっただけで、こうして梨伊奈が地道に言葉を掛けていけば、あるいは―――
「春川!」野村の叫び声が響いた。「裏切るの? 裏切ったらどうなるか、わかってるんでしょうね」
もはやなりふり構わないといった様子だった。たとえどんなに犯行を疑われようとも、はっきりとした証拠がなければ、犯人にはなりえない。そう考えているのだろう。そして、それは正しかった。僕は祈った。陸生が、梨伊奈の言葉に耳を傾けてくれることを。祈ることしか、今の僕にはできなかった。
すると次の瞬間、梨伊奈は立ち上がった。諦めたのかと思いひやっとしたが、梨伊奈は陸生の背中に回った。何をするつもりだろう。僕がそう考えていると、やがて梨伊奈の腕が陸生の体を包み込んだ。僕はおどろいて目を瞠った。他のみんなも同様に、二人の動向を注視している。
まさか、色目をつかったりは―――そう思った矢先、梨伊奈は陸生の耳元に向かって、何かを囁きかけた。すると陸生はなにかつぶやき返した。小さすぎて、上手く聞き取れない。近づこうと席を立ちかけた時、陸生の目から―――
大粒の涙が、とめどなくその頬を流れた。
悪女の幸せ
あの悪夢のような事件が解決してから、数日後―――
僕は、梨伊奈の居室である、校舎地下にある部屋を訪れていた。
「何か飲む?」
梨伊奈がそう訊いてきたので、僕はコーヒーを注文した。ソファにもたれ、それが運ばれてくるのを待つ。
やがて湯気の立つカップが、僕の目の前に置かれた。火傷しないよう、慎重な動作で啜る。思わず声に漏らしたくなるほどの苦さだったが、僕は必死でこらえた。梨伊奈はやはり上品な仕草でカップに口をつけていたが、僕の様子を見るや、小さく笑った。隠したところで、どうにかなるものでもないらしい。僕もまた笑顔を見せると、用意されていたスティック・シュガーに手をつけた。
少し落ち着いたところで、梨伊奈が訊いた。
「その後、どう? 陸生くんの様子は」
「だいぶ落ち着いてきたみたいです。まだぎこちないですが、笑顔を見せるようにもなりましたし。少なくとも、僕と顔を合わせるたびに事件のことを謝ってくることは、もうなくなりました」
「そう。それはよかったね」
「はい」僕は元気よくうなずいた。「陸生がみんなの前で泣きながら謝りだしたときは、どうなることかと思いましたけど……また以前のような関係にもどれるのに、そう時間はかからないと思います」
あの日―――陸生は梨伊奈と短く言葉を交わしたのち、堰を切ったように泣き始めた。まるで小さな子供が泣くように、大きな泣き声を伴って。僕や教諭たちは唖然としてその光景を見つめていたが、やがて口元をゆるめた。
正真正銘、今度こそ事件の幕が下りた瞬間だった。
「そういえば」僕はふと思いついたように言った。「あのとき、陸生に何を言っていたんですか?」
梨伊奈は扇情的な目つきをした。「教えてほしい?」
「はい、ぜひ教えてほしいです」
僕が素直に言うと、梨伊奈は腕を組んで考える仕草をした。だが、もともとそんなつもりはなかったのだろう。すぐに腕を解くと、梨伊奈はさらりとその答えを口にした。
「あなたのこと、だれも嫌ったりしないよ―――雪村くんも、鷲尾さんも」
「えっ?」
僕が思わず漏らすと、梨伊奈は少々不機嫌な顔をした。
「なあに、その反応。もしかして、もっとすごいのを期待してたとか?」
「いや、そうじゃないですけど……」僕は言葉をにごした。「ただ、陸生が人目もはばからず泣いていたかろ、どんなことを言ったのかと思って。それで、陸生はなんて言っていたんですか?」
梨伊奈はまだ不機嫌顔をゆるめていなかったが、それでも僕の問いに答えた。
「本当ですか、って。それを、何度も何度も繰り返してた。きっと陸生くんって人は、よっぽど嫌われるのがいやだったのね。それが、雪村くんに対してなのか、鷲尾さんに対してなのかは、わからないけど」
仕返しのつもりだろうか。梨伊奈にも、どちらかではないことはわかっているはずだ。たとえ陸生という人間を知らなくとも、あの場にいたならば、痛いほどにわかってしまうことだろう。僕は苦笑した。梨伊奈には、たまにひどく子供っぽいところがある。ただ、それが本心なのか演技なのかわからないのが、やっかいなところではあるけれど。
梨伊奈は訊いた。「鷲尾さんの方は、どう?」
「元気ですよ。野村たちのことについてはまだ整理できていないようですけど、僕に対しては優しく接してくれますし」
「そんなの当たり前でしょ」梨伊奈は苦笑した。「あんな格好いいことを、本人の前で言ったんだから」
「ああ、あれにはびっくりしましたよ。まさか鷲尾さんがいるなんて、思わなかったから。まったく、呼んでいるならそうと言ってくれればよかったのに」
真由美はあの日、僕たちとは壁一枚隔てた廊下に立ち、扉に耳を当てて教室内の会話を聞いていた。それは僕にも事前に知らされていなかったことで、梨伊奈が秘密裏に取り計らったことだった。僕も相当に驚いたが……とりわけ野村の反応は、周囲のそれの比ではなかった―――
陸生が泣きながら事のすべてを話し終えた後も、野村は執拗に食い下がった。それは元来の強情な性格によるものもあるだろうが、一番は真由美のことだろうと思った。このまま野村が犯人ということになれば、真由美に忌み嫌われるようになるのは間違いないだろう。それは野村にとってこの上ない地獄だった。
中学のころから真由美を恋い慕い、嫌われることを極度に恐れ、まともに近づくことができなかった。そのため『マユミクラブ』と呼ばれる彼女の愛好会を設立し、同志を集めて真由美の情報を共有した。それから彼女に近づく人間をあらゆる手を使って排除した。自分から近づくことはできなかったが、それでも十分に幸せだった。穢れなき真由美の姿を遠目から見つめることができるだけで、その欲望は十分に満たされた。
そんな野村がもし、真由美に嫌われでもしたら―――野村がどんな行動に走るのか、想像するだけでも恐ろしかった。できればそれは避けたかった。だがこれだけの真実が皆の下で明らかになった今、野村を犯人として扱わないことは、不可能に近かった。それに僕だって、野村には強い反感を覚えていたのだ。簡単に許すことなどできそうもなかった。
梨伊奈は言った。「もうわかったでしょう、野村さん。あなたが犯人であることに、もはや疑いの余地はない。自分がやったんだって―――」
「うるさい!」野村は叫んだ。「すべて妄言よ、そんな奴の言うことが真実だって、だれが証明できるっていうのよ!」
もはや理屈などなかった。野村はただひたすらに、現実から遠ざかろうとしていた。これ以上、野村とかかわり合う必要はなかった。このまま放っておいても、野村に何らかの処罰が下るのは間違いない。事件の結末としてはそれで十分なはずだった。
だが僕は、野村に一つ確認しておきたいことがあった。僕は席を立つと、野村の前まで歩み出た。教室中の視線が、一身に注がれているのがわかった。
「何の用?」先に口を開いたのは野村だった。「もしかして、謝ってほしいとか? だったらお生憎ね、私は罪を認めるつもりはないし、謝罪なんてもちろんしない。私は―――」
「そうじゃないよ。僕はただ、野村さんに訊きたいことがあるんだ」
野村は鋭い目で僕を睨みつけたが、はね返すことはしなかった。
僕は一呼吸置いて言った。
「野村さんは、鷲尾さんのことが好きなんだよね。それも並みの感情じゃなく、抑えきれないほどに」
「そんなの当たり前でしょ」野村は語気を強めて言った。「そうじゃなかったら、こんなことまでするわけがない」
こんなこと、とは事件のことだろうか。だとしたら、これは立派な自白なり得るはずだ。だが僕はそれをあえて気にせずに、質問を続けた。
「そうだよね、だから鷲尾さんに近づいていた僕を敵対視して、僕を陥れようとしたんだよね。僕と鷲尾さんの関係を切り離すために。だけど、他に方法はなかったのかな?」
「……どういう意味よ」
野村は低い声で訊いた。僕はできるだけ静かな口調で言った。
「どうして、鷲尾さんが悲しい思いをするような方法を選んだの?」
野村の目が見開かれた。僕はそれを見て、すぐに言葉を重ねた。
「野村さんがとった方法は、確かに僕と鷲尾さんの関係を切り離すことにおいて、とても効果的だったと思う。鷲尾さんに僕に対して嫌悪の感情を抱かせることができるし、僕の心に精神的なダメージを与えられる。だけど、鷲尾さんの心は? 鷲尾さんはこの事件を通して、心に深い傷を負った。いつも傍にいるクラスメートの犯行とあっては、それも無理はないと思う。そのことを、野村さんは考えたことはある? 今回のことを通して、野村さんが僕に対して憎悪にも似た感情があることはわかった。だけど、それとこれとは話が別だよ。鷲尾さんのことを一番に考えているはずの野村さんが、どうして鷲尾さんを傷つけるようなことをしたの? 僕に事件についての謝罪なんてしなくていい。ただ、これだけは教えてほしい」
野村は黙っていた。視線はいつの間にかその足下に注がれ、僕からは目を逸らしている。教室内には深い沈黙が立ちこめていた。誰もが言葉を発しようとせず、僕と野村の向き合う姿を、固唾をのんで見守っているのが感じられた。僕はただ、野村が答えてくれるのを待った。梨伊奈と違って、僕はストレートにその思いを訊くことしかできなかった。不器用さゆえの真っ直ぐさ。その思いが野村に伝わるかどうか、僕には自信がなかった。
やがて野村は、重い沈黙を振り払うように、ゆっくりと口を開いた。
「私が、そのことを考えなかったと思っているの。この事件を起こせば、まゆちゃんがどういう精神状態に陥るかぐらい、私にはよくわかっていた。ずっと追いかけてきたんだもの、わからないわけがない。だけど、まゆちゃんのことをわかっているからこそ、私はこの犯行に踏み切るしかなかった。原因は雪村くん、あなたよ」
「……僕が、原因?」
「ええ。あなたさえいなければ、私は中学の時と同じく、ただ平凡にまゆちゃんの姿を眺めていられるはずだった。もともと『マユミクラブ』の面々は穏やかな人が多いし、傍から見れば異常な活動と思われるかもしれないけど、少なくともそれが誰かに迷惑を掛けるようなことはなかった。だけど、あなたは現われた。現れて、私たちのまゆちゃんへの思いを乱暴に踏みにじっていった。それは今までにない感情を『マユミクラブ』の面々に引き起こさせた。嫌いなんてものじゃない、ほとんど、憎しみに近い感情だった」
野村は暗い顔をした。当時のことを、今でも鮮明に覚えているのだろう。表情は悲痛なまでに歪み切っていた。僕は思わず息をのんだ。人間がこんな表情をするのを、僕は初めて見たような気がした。
野村は低い声で続けた。
「まゆちゃんは、中学のころから、男子生徒とはあまり親しくしようとしなかった。奥手というよりは、男子生徒に対して少し恐怖心を抱いているようだった。小学校から一緒だったという人に話を聞いたら、まゆちゃんはそのルックスゆえに、小学校のころから男子生徒に言い寄られることが多かった。噂を聞きつけて、中学生が門の前で待ち伏せしていたこともあったという話だった。私は確信した。そのせいで、まゆちゃんは男子生徒を怖がっているんだって。だけど『マユミクラブ』のみんなにとって、それは好都合だった。まゆちゃんに近づいてくる男子は後をたたなかったけど、まゆちゃんが心の奥で嫌がっているのだとわかっていれば、過剰な心配は必要なかった。あまりにしつこそうな男子は、私達で妨害して排除した。そのことで、まゆちゃんに感謝されることもあった。私たちは幸せだった。それだけで、生きていて良かったって、おおげさじゃなくそう思った」
野村は笑みを浮かべた。僕にはそれが、不気味なほど恐ろしいものに感じた。まるで新興のカルト宗教に入り浸った信者のような、恍惚とした表情だった。周りのみんなもそう思っているのだろう、教室内には異様な雰囲気が生じていた。梨伊奈だけが、まっすぐに野村の姿を見ているのが、視界の端に映った。さすが『悪女』とよばれるだけのことはある。大した度胸だと、僕は思った。
やがて野村は「だけど」とつぶやくと、再び暗い顔をして話し始めた。
「高校に入ってしばらく経つと、あなたがまゆちゃんの前に現れた。取り立てて特徴のない、どこにでもいそうな男子生徒。あなたにとっては特別なことだったかもしれないけど、私たちにとっては珍しくもないことだった。実際、既に同じような男子生徒を何人か見てきた。私はいつもと同じで、まゆちゃんは関わり合ったりしないだろうと楽観視していた。他の『マユミクラブ』のメンバーにしても同じだった。当時、中学で女子生徒から一番の人気を誇っていたという男子を一蹴したまゆちゃんだもの、こんな平凡そうな男子を相手にするわけがないと思った。だけどそれは間違いだった。まゆちゃんはあなたが話しかけると笑顔を見せるばかりか、自分から積極的にあなたと関わろうとした。私たちは愕然とした。どうしてあんな男と、まゆちゃんは仲良くしようとしているのかって。平凡そうなのが逆に良かったんじゃないかっていう声もあったけど、私には理解できなかった。したいとも思わなかった。ただひたすらに、あなたをどうやって排除したらいいか、そればかり考えていた」
僕は驚いていた。真由美は僕に対して、ただのクラスメートとして接しているとばかり思っていたからだ。もちろん本人の言葉ではないし、野村達の過剰な思いこみの可能性もあるが、それでも多少は僕と他の男子生徒を区別して見てくれていたのかもしれない。それは正直言って、嬉しいことだった。だけど今は、それを表情に出すわけにはいかない。僕はつとめて真顔を維持しながら、野村の顔を見た。
野村はつづけた。「私は焦っていた。まゆちゃんを追いかけ始めてから、こんなことになるのは初めてだった。『マユミクラブ』では緊急の話し合いが行われた。こういうことは早めに芽を摘み取っておかなければ、後々やっかいなことになる。そういった意見が大勢を占めた。私も同感だった。それですぐに、二人を切り離すための方法を模索した。すぐにいくつかの案が挙がったけれど、どれも威力が弱いように思えた。そこで私は、会長自ら今回の犯行の案を出した。最初はみんな、やりすぎではないかと口をそろえて言った。さっきあなたが言った通り、まゆちゃんを傷つけることになるのではないか、と懸念する声もあった。だけど私は、手段を選んでいる暇はないことを力説した。今はとにかく、できるだけ早いうちに二人の関係を断ち切らないといけないと。まゆちゃんのことに関しては、後で私たちがフォローすればいいと言った。そうすれば、まゆちゃんと良好な関係を築くきっかけにもなる。一石二鳥ではないか。そう私はみんなに説明した。そうして最終的にはみんな、私の案に賛同した。私は思った。これでようやく、『私たちのまゆちゃん』を取り戻すことができる。多少荒っぽいやり方だけど、仕方ないと思った。私は――――」
次の瞬間、僕は近くにあった机を思い切り叩いた。大きく鈍い音が、教室中に響き渡った。皆が一斉に僕の方を見たのがわかった。野村ですら、こちらを黙って見つめている。
言いたいことはたくさんあった。だけど、敢えてその思いを一口に込めた。
そうした方が、伝わってくれるような気がしたから。
僕は静かに言った。
「野村さん。あなたは、鷲尾さんが大切なんじゃない。鷲尾さんを想う、自分の気持ちが一番大切なんだ」
それから梨伊奈が教室を出ると、廊下で話を聞いていた真由美を連れて戻ってきた。みんなものすごい驚きようだったが、野村の反応は常軌を逸していた。すべての感情を失ったかのように無表情になったかと思うと、次の瞬間には声を上げて号泣した。僕たちはみんな戸惑って野村を遠巻きに見つめていたが、梨伊奈はそっと寄り添うと、その顔を自分の肩に押し付けた。野村は子供のようにわんわん泣いた。陸生と同じように、大粒の涙を流して。
それから僕は少しだけ、真由美と話す時間があった。真由美は申し訳なさそうな表情で僕に近づいてきたのだが、僕が笑顔を見せると、彼女もまた柔らかな笑みを浮かべた。
真由美は言った。「ごめんね、雪村くん。わたし、裏切られたと思って……それがショックで、他に真犯人がいるだとか、そんなことは考えられなかったの。雪村くんがあんなことするわけないって、わかってたはずなのに」
「いいんだよ。僕が鷲尾さんの立場なら、やっぱり同じようにショックだったと思うし。だから、気にしないで。鷲尾さんは何も悪くないから」
真由美はまだ心配そうな表情をしていたが、やがて微笑みを浮かべた。僕が真由美を一番可愛いと感じる笑い方だ。僕は思わず赤面した。すると真由美は怪訝な顔をしたが、ふと思いついたように口を開いた。
「そうだ、雪村くん。さっきのことだけど……」
真由美はそう言うと、僕の耳元に顔を近づけた。ほのかな甘い香りが、僕の鼻孔をくすぐる。何をするつもりかと思い身を固めていると、真由美は優しい声音で囁いた。
「かっこよかったよ、すごく」
僕は一瞬で、顔が赤りんごのように真っ赤になるのを感じた。真由美はそれに気付くと、思わず笑い声をあげた。
「やだ、雪村くん。顔真っ赤」
「わ、鷲尾さんのせいだろ、急にそんなこと言いだすから……」僕は頬の熱を確かめながら言った。「まったく、一体どこで聞いていたんだよ」
「廊下だよ。扉に耳を当てて、ずっと聞いてた。梨伊奈さんが探偵さんみたいに事件を暴く声も、雪村くんのかっこいい台詞も」
「……もしかして、からかってる?」
「ちがうって」真由美はかぶりを振った。「本当にかっこよかったよ。わたし、うそなんて言わないもの」
「その言い方、なんだかかえって嘘っぽいなぁ……」
真由美はいたずらっぽく笑った。やっぱりからかわれているらしい。僕は頭をかいた。どうも最近の僕は、女の子に弄ばれ続けている気がする。でも、それもいいのかもしれないと思った。背伸びをするのは疲れるし、こっちの方がずっと、楽しかったからだ。
梨伊奈は冷めたはずのコーヒーを啜ると、苦い顔を浮かべながら言った。
「だって、最初から真由美ちゃんがいたら、野村さんがどんな行動にでるかわからないでしょ? それこそ、私に向かって殴りかかってくるかもしれないし……そういう精神的な不安定さが野村さんにはあったから、事件がちゃんと解決してからって思ったの。実際、その方がよかったと思わない?」
「まあ、そうですね」僕はうなずいた。「野村は病的なまでに鷲尾さんに執着していましたからね。まだ学校にも出てきていないし……しばらくは、時間がかかりそうかな」
野村の処罰に関して、学校側はとりあえず一週間の謹慎処分を下すつもりだったようだが、それを真由美が取り下げさせた。私なら大丈夫です、だから野村さんを処分することはしないでください―――教諭たちは戸惑っていたようだが、僕も一緒に頭を下げることで、なんとか処分なしの方向で検討してくれることになった。
そして実際、野村には処罰のようなものは下されなかった。その代わり週に一度、学校常駐のカウンセラーにカウンセリングを受けることが義務付けられた。それでどうにかなるのかと僕は疑問に思ったが、学校側には最低限、事件に対して何か対処する姿勢を見せなくてはならないのだろう。本来なら停学処分のところを週一度のカウンセリングにしてもらっただけでも、教諭たちには感謝しなくてはいけない。もっとも、その本人が学校に来ていないのでは、徒労に終わった感もあるのだが。
「それにしても」梨伊奈はしみじみと言った。「真由美ちゃんって、とんでもなくいい娘だよね。あれだけのことをされたっていうのに、怒るどころか処分を取り下げさせるなんて」
「そうですね。今どき珍しいぐらいの、よくできた女の子だと思います」
僕がそう言うと、梨伊奈は大げさなぐらいにうなずいた。おまけに、にやにやと笑ってさえいる。また何のつもりかと考えたが、梨伊奈が相手じゃはなから勝ち目がないのだと思い返し、あえて何も反応を返さなかった。
それから僕は、ふと思いついたことを訊いた。
「そういえば、依頼の報酬って何を渡せばいいですか?」
「それなんだけど」梨伊奈は言った。「私はいつも、依頼人が一番大切にしているものを頂くことにしてるの」
「一番大切に……?」
「そう。例えば……家族との思い出の写真や、二度と手に入らないような限定版の商品、あとは大切な人からもらった指輪とかね」
「はあ」僕は頭をかいた。「そんなものをもらって、どうするんですか? まさか売るとか?」
梨伊奈はため息をついた。「そんなわけないでしょ。その人が一番大切にしているものって、その人の幸せが詰まっていると思わない? 私はそう思うの。だから一番大切にしているものをもらうことで、その人が持っている幸せをおすそ分けしてもらうってわけ。私は依頼を解決してその人に幸せを与えてあげているんだから、つまりは等価交換。問題はないでしょ?」
確かに、かつて梨伊奈が言っていた通り、ずいぶん特殊な報酬だった。もらう物の価値ではなく、そこに内包されている幸せを重要視するなんて。聞いたこともなかった。
僕は言った。「それは、問題がないかと言われれば、ないですけど……。でも、それで幸せなんて得られるものなんですか? 僕には信じられないですけど」
「そうね」梨伊奈はあっさりとうなずいた。「だけど、それは君の考え方。私はそれを信じているし、それを手に入れるだけの努力も惜しまない。私はそういう人間よ」
どうやら、僕に口をはさませるつもりはないらしい。とはいえ、僕としても梨伊奈と事を構えるつもりはない。僕はソファに座り直すと、話の核心へと入った。
「それで、僕の何が欲しいんですか? 自分で言うのもなんですけど、僕は大切にしているものなんて一つもないと思いますよ」
「それはうそね」梨伊奈はきっぱりと言った。「君が一番大切にしているもの、私には初めて会ったときからわかってるもの」
「えっ……?」
僕が本気で悩んでいると、梨伊奈はとつぜん手のひらを、僕に向かって突き出してきた。僕が怪訝な顔をしてそれを見る。
すると梨伊奈は、微笑みを浮かべて言った。
「私が卒業するまでの二年間、君の日常を、私にちょうだい」
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