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「幼馴染がまた倒れた」と婚約者が言うので、天気と一緒に次の発作も予報しました。晴れたら、倒れます

作者: みれいぬ
掲載日:2026/10/20

「すまない、フリーダ。アネッテがまた倒れた」


 王立歌劇場の正面の石段の下で、婚約者のヨアヒム様は、使いの持ってきた紙を握りしめてそう言った。


 私は手提げから懐中時計を出して、蓋を開けた。


「六時四十分。今日は少し遅うございましたね」


「……何だって?」


(いえ、こちらの話です)


 ヨアヒム様は眉を寄せて、紙と私の顔を見比べた。その後ろでは、ホルン家の馬車から飛び降りてきた従僕が、まだ肩で息をしている。この三年ですっかり顔なじみになった人で、目が合うと、気まずそうに会釈をしてくれた。


「居間で胸を押さえて倒れたそうだ。医者は呼んであるが、僕の名前を呼んでいるらしい」


「はい」


「アネッテには僕しかいないんだ。分かるだろう」


「はい」


 分かっている。三年かけて、よく分かった。


「今夜の席は……君には天気帳があるだろう。空でも見ていてくれ」


 ヨアヒム様はそう言い残して、自分の馬車を石段の脇に待たせたまま、従僕と一緒にホルン家の馬車へ乗り込んだ。石段を上がっていく人たちが、ちらちらと振り返る。正装の令嬢が、劇場の入口で婚約者に置いていかれるところを見たのだから、無理もない。


 馬車の音が角を曲がって消えると、後ろに控えていた侍女のゲルダが、小さく咳払いをした。


「お嬢様の予報より、十分遅うございました」


「季節の初日で、道が混んでいたのね」


 私は十歳のときから、毎朝、天気帳をつけている。北の谷にあるアンベルク伯爵家の領地では、春の遅霜ひとつで麦が全滅する。だから当主は代々、毎日の空と風と晴雨計の目盛りを帳面に書き、年の終わりに王立暦院へ送ってきた。父からその帳面を引き継いだのが十歳の春で、それから九年、一日も欠かしていない。


 天気の下には、その日の出来事を一行だけ書く。婚約してからの三年は、ヨアヒム様と出かける約束も書いてきた。たとえば、去年の夏至の日はこうだ。


 晴れ。南の風。晴雨計、高いまま。ヨアヒム様と遠乗りの約束、十時。ヨアヒム様、来られず。理由:アネッテ様のご容体。使い、十時十五分。


 出かける約束は、三年で五十四回あった。そのうち晴れた日の約束が四十二回で、今夜で四十二回とも、この一行で終わったことになる。


 雨になった日の約束は十二回。遠乗りも散歩も取りやめて、屋敷の客間でお茶を飲むだけになった。こちらは一度も流れていない。


 つまり私は、晴れた日に婚約者と並んで外を歩いたことが、三年間で一度もない。


 この春の、私の十九の誕生日も晴れだった。川沿いの料理屋で昼食の約束をしていて、使いは正午の五分過ぎに来た。


 翌朝、アネッテ様から手紙が届いた。倒れた翌日には、必ず一通届く。


 フリーダ様、昨日はヨアヒムを貸してくださってありがとう。お誕生日だったのですってね。わたし、ちっとも知らなくて。フリーダ様はお丈夫で、本当にうらやましいわ。


 手紙はいま、四十一通ある。どれも、天気帳のその日の頁に挟んである。今夜の分は、明日の朝に届くだろう。


(今夜も晴れ。見事なものだわ)


 見上げると、まだ明るい空の西の低いところに、薄い筋のような雲がかかっていた。今朝、晴雨計の水銀は、ゆっくり下がりはじめていた。


「入りましょう、ゲルダ。せっかくの初日ですもの」


* * *


 アンベルク家の桟敷は、二階の舞台寄りにある。ゲルダには後ろの椅子に掛けてもらい、私は前の二脚のうちの一脚に座った。空いたほうの椅子には、膝掛けを畳んで置いた。


 幕が上がる前のざわめきの中で、隣の桟敷から声がした。


「失礼。入口で、あなたは時計を見て頷いていた」


 腰の高さほどの仕切りの向こうに、背の高い男の人が一人で座っていた。年は二十代の後半くらい。黒に近い濃紺の上着で、飾りは襟元の小さな記章だけ。膝の上には、演目の冊子ではなく、使い込んだ手帳が開いてある。


「待ち人が来ないことを、知っていたように見えた」


「見ておられたのですね」


「目に入った。泣くか怒るかすると思ったら、時計を見たので」


「泣いても怒っても、使いの来る時刻は変わりませんので」


 その人は、口の端だけで笑った。


「来ることは、分かっていた?」


 初めて会った方に話すことではない。けれど、劇場の入口であれだけの人に見られた後だ。今さら隠すことでもなかった。


「婚約者の幼馴染の方が、胸がお弱いのです。そして、晴れた日にだけお倒れになります」


「晴れた日にだけ」


「正確には、晴れた日に、私と婚約者が二人で人前に出る約束がある日だけです。約束の時刻のすぐあとに、使いが来ます。遠乗りも散歩も、雨なら取りやめて屋敷でお茶を飲むだけになりますから、雨の日には倒れる必要がありません」


 言ってから、少し言いすぎたかと思った。けれど隣の人は笑わず、手帳を閉じて、仕切りのほうへ身を乗り出した。


「本当に胸の悪い人は、天気の変わり目に苦しむものだ」


「はい。祖母がそうでした。雨の前の晩には、必ず咳が出ました。アネッテ様は、雨の前の晩にも、霜の朝にも、一度もお倒れになっていません」


 私は手提げから今年の天気帳を出し、頁を開いて仕切りの上に載せた。持ち歩いているのは今年の一冊だけだ。


 隣の人は、断ってから頁をめくった。一行ずつ指でたどり、晴れの日の行で指が止まり、また次の晴れの日の行で止まる。


「……全部、使いの時刻まで書いてある」


「書く癖がついておりますので」


「それで、今夜も」


「約束は六時半でしたから、使いは六時半過ぎだろうと思っておりました。十分遅れたのは、道が混んでいたからです」


「天気を読むのと同じに?」


「天気より、読みやすいのです」


 隣の人は、とうとう声を立てて笑った。周りの桟敷の何人かが振り向き、ゲルダが後ろでまた咳払いをした。


「失礼。……それを、婚約者殿には?」


「一度、申し上げました。二年目の秋に、この帳面を開いて」


「何と?」


「アネッテを疑うなんて、君らしくない、と」


 あのときヨアヒム様は、帳面を一頁も見なかった。私らしいとは何なのか、聞いてみたかったけれど、聞く前に使いが来た。


「では、天気のほうは? 今夜はどうなる」


 私は今朝の行を指でたどった。晴雨計は朝から少しずつ下がっていた。入口で見た西の雲は、低くて薄い筋だった。


「幕間のあとで雨になります。お帰りの馬車は、屋根のあるものになさってください」


「さっきまで晴れていたが」


「はい。さっきまでは」


 幕が上がった。


 一幕目の歌は、正直に言うと、あまり耳に入らなかった。隣の人が、舞台ではなく天井のほうをときどき見上げていたからだ。


 幕間になると、隣の人はまず桟敷の外の従者に何か言いつけ、それから振り向いて、軽く頭を下げた。


「名乗りもせずに失礼した。ラウレンツ・ハーゲナウだ。暦院で、空の記録を読む仕事をしている」


 ハーゲナウ。私は膝の上で手を握った。王の姉君の御子息で、去年、北の山の観測所から戻って王立暦院の総裁になった公爵閣下の名だ。隣の桟敷がハーゲナウ家のものだとは知っていたけれど、ご本人が座っているとは思わなかった。


「アンベルク伯爵の娘、フリーダでございます。存じ上げず、失礼いたしました」


「アンベルク」


 閣下は、仕切りの上の天気帳と私の顔を、もう一度見比べた。


「北の谷の、アンベルクか。あそこの記録は、九年前から急に細かくなった。霜の降りた時刻まで、分で書いてある。暦院では、伯爵がずいぶん几帳面になったと話していたが」


「十歳からは、私の字です」


「……そうか」


 閣下はそれきり黙って、天気帳の表紙を指先で一度なぞった。


 二幕目の半ばで、屋根を叩く音がしはじめた。


 最初はぱらぱらと、すぐに途切れのない音になった。歌い手の声が一瞬だけ揺れ、平土間の客がざわめいて天井を見上げる。隣の桟敷では、閣下が天井ではなく私のほうを見ていた。私は舞台を見ているふりをした。


 終演の後、劇場の玄関は人であふれていた。


「来たときは晴れていたじゃないか」


「誰だ、屋根のない馬車で来ようと言ったのは」


 若い貴族たちが、上着を頭にかぶって石段を駆け下りていく。ご婦人方は扇で額を覆って、御者の名を呼んでいた。


 その中で、ハーゲナウ家の箱馬車だけが、玄関の正面に静かに着いた。


「幕間に、御者に箱馬車へ替えさせた」


 閣下は、外套の襟を立てながら言った。その後ろに、アンベルク家の馬車も着いた。もともと屋根のある箱馬車で、ゲルダが夕方のうちに、御者に雨よけの覆いまで積ませていた。


「暦院の予報係より早い。……アンベルク嬢、次の約束はいつだ」


「五日後の、王妃陛下の園遊会です」


 婚礼を翌年に控えた婚約者は、初夏の薔薇の園遊会で揃って王妃陛下にご挨拶し、祝福のお言葉をいただく。それが済めば、来年の春に式を挙げることになる。


「その日が晴れたら?」


「お倒れになるでしょう」


「賭けをしないか」


 ゲルダの咳払いが、雨音に紛れて三度目になった。


「当日の朝に予報を書いて、私に届けてほしい。私が封をして、受け取った時刻を書いておく。外れたら、天気帳を一冊、暦院に貸してもらう。当たったら、私があなたの願いを一つ聞く」


「晴雨計は、一日先までしか教えてくれません。五日先のことは分かりませんので、書くのは当日の朝になります」


「それで構わない」


 閣下は、雨の中へ一歩出てから振り返った。


「正直に言うと、外れてほしいわけではない」


* * *


 翌朝、四十二通目の手紙が届いた。


 フリーダ様、昨夜もヨアヒムを貸してくださってありがとう。歌劇はいかがでした? わたしは胸が苦しくて、とても劇場へなんて行けませんもの。フリーダ様は、お一人でも楽しめる方だから安心ね。


 私は手紙を、昨日の頁に挟んだ。


 それから二日後は、朝から雨だった。


 その日は月に二度の訪問の日で、ヨアヒム様は約束どおり、午後に屋敷の客間へいらした。月に二度の訪問は、婚約の契約に書かれた婚約者の務めだ。天気帳の五十四回の出かける約束とは別で、人前に出ないこの訪問が流れたことは、晴れの日でも一度もない。


 雨の日のヨアヒム様は、いつも機嫌がいい。誰にも呼び出されないからだ。けれど今日は、お茶に手をつける前から顔が硬かった。


「父上から聞いた。アンベルク伯爵が、婚約を解きたいと申し出てきたそうだね」


「はい。私が父に頼みました」


「アネッテが倒れたくらいで」


「四十二回目でした」


「回数の問題じゃない」


 ヨアヒム様は、カップを受け皿に強く置いた。


「父上は取り合わなかったよ。若い娘の焼きもちで、家どうしの約束は解けない、と。園遊会には揃って出る。王妃陛下にご挨拶をして、来年の春には式だ」


 婚約は、両家の当主が署名して交わした家の契約だ。片方の当主が承知しなければ、王宮の典礼局に訴え出て、半年は待たされる。そのあいだ、社交界では「病人に冷たい娘」という噂が立つ。父はそれを分かっていて、それでも侯爵閣下に頭を下げてくれた。


「ヨアヒム様。園遊会の日が晴れたら、アネッテ様はお倒れになります」


「……何を言っているんだ」


「予報です。そのときは一度だけでいいので、駆け寄る前に、疑ってみてください」


 ヨアヒム様の顔に、さっと赤みが差した。


「アネッテを嘘つき呼ばわりするのか。あの子から聞いているよ。倒れるたびに、君に礼の手紙まで書いているそうじゃないか。あんなに気を遣う子を」


「お読みになったことは」


「読まなくても分かる。あの子は優しいんだ。……それに、僕のせいで胸を悪くしたんだ」


 知っている。九つの冬、ヨアヒム様は凍った池を指して、八つのアネッテ様に「渡れるか」と言った。氷が割れて、アネッテ様は落ちた。高い熱が続いて、それから胸が弱くなった。婚約したばかりのころ、ヨアヒム様は私にその話を、ひどく苦しそうな顔でしてくれた。


 あのときは、この人の誠実さだと思った。


「君がそんなに冷たい人だとは思わなかった。……こんな話、アネッテには聞かせられない。胸に障る」


 ヨアヒム様は、半分残ったお茶をそのままに立ち上がった。雨の日なのに、約束の時間より早くお帰りになった。


 彼はアネッテ様に言わないだろう。だから、彼にだけ言ったのだ。


 玄関まで見送って戻ると、廊下に父が立っていた。


「侯爵は、自分の目で見るまで信じぬ男だ」


「では、見ていただきましょう」


 父は少し黙ってから、低い声で言った。


「すまなかった。三年も」


「お父様のせいではありません。晴れた日が多かっただけです」


* * *


 園遊会の朝は、六時に目が覚めた。


 窓を開けると、南からの弱い風が頬に当たった。空には雲ひとつなく、東の屋根の上がもう白く光っている。廊下の晴雨計の水銀は、昨日の夕方から高いところで止まったまま、少しも動いていなかった。


 私は天気帳の今日の行を書き、それから便箋を一枚出して、予報を書いた。


 本日、晴れ。南の弱い風。午後から薄い雲。


 午後二時ごろ、王妃陛下へのご挨拶の直前に、アネッテ・ホルン様が、薔薇園の噴水のそばでお倒れになります。ヨアヒム様が抱き上げられます。


 挨拶の順と招待客の名は先週のうちに知らされていて、二時からの最初の組が、ブラント侯爵家とアンベルク伯爵家だった。ホルン子爵家も招かれている。これまでのアネッテ様は、自分の屋敷で倒れて使いを走らせてきた。けれど今日は、ご自分が薔薇園にいるのだから、使いは出せない。倒れるなら、ヨアヒム様の目の前しかない。そして王妃陛下のいらっしゃる奥の東屋へは、薔薇園の真ん中の噴水の前を通る道が一本あるだけだ。


 便箋を折って従者に託し、ハーゲナウ公爵邸へ届けてもらった。戻ってきた従者は、短い返事を持っていた。


 七時二十分、確かに受け取った。封はした。賭けの相手より。


 私はその紙も、天気帳に挟んだ。


 午後の薔薇園は、色とりどりの日傘で埋まっていた。


 予報どおり、昼を過ぎると空の高いところに薄い雲が出て、日差しが少しだけやわらいだ。噴水の水音と、楽団の弦の音と、人の笑い声が混ざっている。


 ヨアヒム様は、時刻どおりに私を迎えにいらした。今日は、どこからも使いは来ない。


「この前は、言いすぎた」


「いいえ」


「でも、今日は何も起きない。アネッテも招かれているが、今朝は顔色がよかったと聞いている」


「そうですか」


 噴水のそばに、淡い水色のドレスのアネッテ様が見えた。ホルン子爵の隣で、白い日傘を差している。目が合うと、アネッテ様は小さく手を振った。顔色は、本当によかった。


 少し離れた木陰には、ブラント侯爵と私の父が並んでいた。そして奥の東屋の脇、王妃陛下のおそばに、濃紺の上着の背の高い人が立っていた。


 一時五十八分。私は懐中時計の蓋を閉じた。


(外れてくれても、いいのよ)


 三年間、晴れた朝に天気帳を開くたびに、同じことを思ってきた。


「ブラント侯爵家ヨアヒム様、アンベルク伯爵家フリーダ様」


 侍従の声に、ヨアヒム様が腕を差し出した。私はその腕に手を添えて、噴水へ続く道を歩きはじめた。


 晴れた日に、婚約者と並んで外を歩くのは、これが初めてだ。


 噴水のそばで、アネッテ様が日傘を少し傾けて、王宮の西の時計塔を見上げた。


 私たちが噴水の前に差しかかったとき、時計塔の長い針が、ちょうど十二を指した。


 アネッテ様は胸を押さえ、日傘を取り落とし、膝から崩れた。


「アネッテ!」


 腕が振りほどかれた。ヨアヒム様は駆け寄ってアネッテ様を抱き上げ、振り返って叫んだ。


「侍医を! 誰か、侍医を呼んでくれ!」


 周りの人々が息をのみ、ご婦人方の扇が止まる。私は懐中時計の蓋を開けた。


 二時二分。


 侍医が、白い髭を揺らして東屋のほうから急いでやってきた。王妃陛下も東屋から出ていらした。ヨアヒム様はアネッテ様を噴水の縁に座らせ、その肩を抱いたまま、私を見た。


「……君は、なぜそんなに平然としていられる! アネッテが倒れたんだぞ!」


 薔薇園じゅうの目が、私に集まった。


「平然としているのは、知っていたからだ」


 低い声が、人垣の向こうから聞こえた。ハーゲナウ公爵閣下が、王妃陛下の後ろから進み出ていた。手には、封をした手紙が一通ある。


「陛下。今朝、アンベルク嬢から預かった予報です。封蝋は私の印で、受け取ったのは七時二十分。読み上げてもよろしいですか」


 王妃陛下は、扇をゆっくり閉じて頷いた。


 閣下は人々の前で封を切り、便箋を広げた。


「本日、晴れ。南の弱い風。午後から薄い雲」


 何人かが、つられたように空を見上げた。


「午後二時ごろ、王妃陛下へのご挨拶の直前に、アネッテ・ホルン様が、薔薇園の噴水のそばでお倒れになります。ヨアヒム様が抱き上げられます」


 噴水の水音だけが、しばらく続いた。


「抱き上げられる、まで……」


 誰かの囁きが、輪のように広がっていく。ヨアヒム様は、アネッテ様の肩に回した自分の腕を見下ろした。


 侍医はその間に、アネッテ様の手首を取っていた。耳を寄せて息の音を聞き、まぶたの裏を見て、静かに言った。


「脈は落ち着いております。息の音にも、乱れはございません」


 侍医は立ち上がり、王妃陛下のほうへ向き直った。


「胸の病の発作は、天気の変わり目と、冷えた朝に多いものでございます。このように晴れて穏やかな午後に、それも書きつけの時刻どおりに起きるというのは、私は覚えがございません」


「それに」


 閣下が、便箋を畳みながら言った。


「令嬢は倒れる前に、西の時計塔を三度見上げておられた。私は東屋の脇から見ていた」


 人垣の後ろで、誰かが時計塔を振り返った。私も、懐中時計を開いたまま差し出した。


「あの時計塔は、この春から二分遅れております。私の時計は、毎日、暦院の正午の鐘に合わせております。私の時計で二時二分でしたから、アネッテ様がお倒れになったのは、時計塔の二時ちょうどです」


 そのときだった。


 噴水の縁に座っていたアネッテ様が、ヨアヒム様の腕を払いのけて立ち上がった。


「どうして分かるのよ!」


 高い声が、薔薇園に響いた。


 アネッテ様は、両足でしっかり立っていた。頬は赤く、胸を押さえていたはずの手は、拳になって私のほうへ向いていた。


 自分の声が消えてから、アネッテ様はようやく、周りの静けさに気づいたようだった。拳がほどけ、顔から血の気が引いていく。


「アネッテ……君、胸は」


 ヨアヒム様の腕は、アネッテ様の肩があったところで、宙に浮いたままだった。


「ち、違うの、ヨアヒム。今のは、その……」


 アネッテ様は、思い出したように胸に手を当て、小さく咳をした。一度、二度。三度目の咳は、誰も待っていなかった。


 人垣のどこかで、若い男の人が笑いをこらえそこねて、慌てて口を押さえた。誰も、その人をとがめなかった。


「まあ」


 王妃陛下が、閉じた扇を口元に当てた。


「晴れた日にだけ倒れる病というのは、侍医も初めて聞くでしょうね」


「初めてでございます、陛下」


 侍医は、真顔のまま答えた。


 人垣の中から、ホルン子爵が転がるように出てきて、王妃陛下の前に膝をついた。


「陛下。お詫びの申し上げようもございません。娘の胸は……二年前に、家の医師から、もう治っていると言われておりました。娘が泣くので、私は言い出せず……」


「お父様!」


「黙りなさい、アネッテ」


 子爵は娘の手首をつかみ、王妃陛下と私に深く頭を下げてから、人垣の外へ連れていった。アネッテ様は一度だけ振り返って「ヨアヒム」と呼んだ。ヨアヒム様は、動かなかった。


 代わりに、木陰からブラント侯爵が歩み出てきた。侯爵は王妃陛下に一礼し、それから私の父に向き直った。


「王妃陛下の御前で、婚約者の務めを息子に破らせたのは、当家の不始末だ。アンベルク伯爵、先日のお申し出は、承知した。署名は明日、こちらから伺おう」


「ご英断に感謝いたします」


 父の声は、いつもどおり低くて短かった。けれど、私の肩に置いた手は、少しだけ震えていた。


「フリーダ」


 ヨアヒム様が、ようやく私のほうへ一歩踏み出した。


「僕は……知らなかったんだ」


「存じております」


 私は懐中時計の蓋を閉じた。


「三年分、天気帳に書いてありますから」


 ヨアヒム様は、それきり何も言わなかった。侯爵閣下に肩を押されて、人垣の外へ下がっていった。


「アンベルク嬢」


 王妃陛下が、私を呼んだ。私は膝を折って頭を下げた。


「三年、よく待ちましたね。今日の祝福は、また別の折に。……そのときは、隣に立つ方の顔ぶれが変わっているかしら」


 陛下の扇の先が、ほんの少しだけ、ハーゲナウ公爵閣下のほうを向いた。閣下は空を見上げていた。今日の空には、私の予報どおり、薄い雲しかなかった。


* * *


 それからのことは、短く済んだ。


 婚約は、翌日、両家の当主の署名で解かれた。婚約の契約に定めた違約の金は、ブラント侯爵家が払い、そのうち半分はヨアヒム様ご自身の取り分から引かれることになった。ヨアヒム様は、王都での侯爵家の名代の役を外され、一年、領地で侯爵閣下の補佐を見習いからやり直すそうだ。嫡男の座はそのままだと聞いた。


 アネッテ様は、北の湖畔にある修道院の療養所へ、一年行かれることになった。ホルン子爵は「本当に療養させます」と、父に宛てた詫び状に書いていた。王妃陛下は、次の季節のホルン家への招きを取りやめられた。


 社交界では、晴れた日に急に具合の悪くなる令嬢が、しばらくいなくなったそうだ。


 北の湖畔は、霧と雨の多い土地だ。暦院の記録でも、晴れる日は王都の半分しかない。


(あちらでは、お倒れになる日は少ないと思います)


 園遊会から三日後の午後、ハーゲナウ公爵閣下が、父への挨拶を済ませてから屋敷の庭へいらした。


 空はよく晴れていた。ゲルダは、話し声の届かない程度に離れて、薔薇の手入れをしているふりをしていた。


「本日は、どのようなご用で」


「賭けの清算に。それから、会いたかったから」


 閣下は、庭の小道を私と並んで歩きながら、天気の話でもするように言った。


「賭けは、私の負けだ」


「ひとつ、聞いてもいいか。園遊会で予報が当たったとき、あなたは少しも嬉しそうではなかった。桟敷で雨が降ったときは、舞台を見るふりをして、口元が笑っていたのに」


 見られていたらしい。私は少し考えてから答えた。


「当たってほしい予報では、ありませんでしたので」


 この三年、私の予報は、外れてほしいときほどよく当たった。


 閣下は何も言わずに頷いて、それから、いつもの調子に戻った。


「願いを一つ、聞く約束だった」


「では……北の山の観測所の空を、一度見てみたいのですが」


「それは、願いにしなくても連れていく」


 閣下は足を止めて、私のほうを向いた。


「代わりに、私の願いを聞いてくれないか」


「閣下の願い、ですか」


「毎朝、あなたの予報を、隣で聞きたい」


 意味が分かるまで、少しかかった。晴雨計は、こういうことは何も教えてくれない。


「劇場の入口で、あなたが時計を見て頷いたとき、この人は空と同じように人を見るのだと思った。泣きも怒りもしないで、ちゃんと見て、ちゃんと書いておく人だと。暦院に入った年から九年、北の谷の記録は毎年読んできた。山の観測所にいた五年も、写しを送らせて。あなたの字だとは知らずに。これからは、書いた本人の声で聞きたい」


 閣下は、少しだけ困ったように眉を下げた。


「私と、結婚してほしい。伯爵には、さっき正式に申し入れをした。返事は娘に聞いてくれと言われた。婚約を解いたばかりで急ぎすぎだと言われるのは分かっているから、表に出すのは秋まで待つ」


 私は、手提げの中の懐中時計に触れた。


「……時刻を、見てもよろしいですか」


「記録するのか」


「はい。大事なことですので」


 閣下は、劇場の桟敷で笑ったときと同じ顔で笑った。


 三時十分。私は蓋を閉じて、閣下の顔を見上げた。


「お受けいたします」


 閣下は私の手を取り、指先に、そっと唇を寄せた。ゲルダの鋏の音が止まった。


 晴れた日に、約束した人が、最後まで隣にいた。


 誰も、倒れなかった。


 その夜、私は天気帳を開いて、今日の行を書いた。


 晴れ。西の風、弱い。晴雨計、高いまま。ラウレンツ様、来られる。理由:会いたかったから、とのこと。

お読みいただきありがとうございました。公爵閣下の側から見た園遊会も、いつか書けたらと思っています。ブックマークと★★★★★で応援いただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
ヨアヒム情けねえな しかし、スパダリが最後に突然プロポーズしてきて令嬢もアッサリ受け入れる定番の流れはなんとかならんもんかね
アネット嬢からのお手紙全て元婚約者にあげれば良かったのに、と思いました。
>『社交界では、晴れた日に急に具合の悪くなる令嬢が、しばらくいなくなったそうだ』 ↑↑↑(o゜Д゜ノ)ノ!!!
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