婿養子
「あ〜あ、よろしいわねグレイスは。
愛しい方が今日も教室までお迎えに来て下さるのでしょう?」
「あら、ふふっ。バーバラだってお優しくて頼もしい愛しの許嫁様がいらっしゃるじゃない」講義を終え帰り仕度をしながらバーバラと何とは無しの話をしていた。
同じ馬車で帰るルーファスがいつもの様に迎えに来てくれる筈なので
今はその話になっている。
バーバラには先日の夕食会で約束通り、かなり詳しくルーファスとの経緯を説明した。バーバラが彼との縁を結んでくれた存在だとグレイスは思っていたからだ。
直後の興奮の冷めた今バーバラは普段通りだ。
今の状態の学園で彼女との会話に普通の日常をグレイスは感じていた。
あ〜この時間って心が癒され⋯「グレイス!」
⋯⋯癒しの時間ってこんなに忽ち消滅するものなのね。
グレイスは振り向きざま、前と同じ言葉を返した。
「ラッセル侯爵令息。名前呼びはお控え下さい」
バーバラに視線を送ると微かに頷き静かに教室を出て行った。ルーファスを呼んて来て欲しい意思が伝わったのだ。さすがバーバラ。
教室には他にも数人いるし今日は取巻き令嬢も連れている。前回の様な暴言はさすがに無いと判断してライアンと対峙する。
「何かご用でも?」
「この頃の情報からやっと君の気持ちが解ったので君の悩みを聞いてあげたいと思ったんだ」機嫌良さそうに笑う。
「私の悩みとは?」
「あの男がどうゆう手段を使ってか知らないが伯爵家に入り込んで君の立場を奪ったんだろう?ああ、それについては母上もご立腹なんだけどね。僕はそのせいで行き場の無くなった君を救ってあげたいんだ」
ああ、あの噂を真に受けたのか⋯何か情け無くなった。
「僕はもうすぐ侯爵家を継ぐ。侯爵になったら君の事を許すよ。だからアリスも解放してくれるね?」グレイスは二の句が継げない。
「勿論、妻にするのはアリスだ。でも安心して欲しい君の事も受け入れてもいいと思っているんだ」手を拡げて言う。三文芝居のようだ。
「いったい何をおっしゃっているのか理解できかねます」
「意味は分かっているんだろう?もう意地を張らなくてもいいよ、アリスに立場を奪われたくなくて必死だったんだね。だから行き場の無い君の事も娶る、
母上のお許しも出たんだ」
意図は読めていたが余りに私達姉妹を貶める発言だ。無視したかったグレイスは再びの非常識な発言に嫌悪と怒りで細かく震えて来ていた手を拳に握った。
そこに取巻き令嬢の一人が「よろしかったですわね。あなたを妾として娶ると言って下さってますのよ」横から余計な口出しをした。
「それは貴女のお望みでは!?」
頭に血の上ったグレイスは咄嗟に叫んでいた。
「私は御免被りますわ。悍ましい!気持ち悪い⋯
そんな事死んでもお断り致します!!」ライアンを睨め上げた。
その時、握り込んだ拳の手首あたりから温かい手に包まれ耳の側で
「相手にするなと言っただろう?」と声が聞こえた。
教室の扉に背を向けて立っていたグレイスは入って来たルーファスに後から手首を握って引かれ、流れるように体を入れ替えて前に出た彼の背に庇われた。
ライアンと取巻き令嬢は暫し立ち竦んだ。
教室にいた何人かもこちらを注目している。
泣き出したい気持ちと彼の背に縋りつきたい気持ち両方を我慢してグレイスの手首をとって後に回されている左手を握り返した。
「ライアン殿。グレイスに何を言った?」
ルーファスは冷静だったが声に怒りを滲ませた。
「何だお前⋯。上手くやったかも知れないが、お前の事は母上がお許しにならない。もの凄くお怒りだったんだ、すぐに引摺り降ろすとおっしゃっていた」
睨むライアンに「相変らずですね。常にお母上様、お母上様と⋯」鼻で笑った。
「お前ごときが僕に言い返すな!上手くやったと思い上がっているようだが僕はもうラッセル家の後継だ。すぐに侯爵になるんだ!侯爵家はバートンなどよりずっと家格が上なんだ!」他には見せないライアンの側面が顔を出し始めた。
何故ルーファスにだけ激昂するのだろう。
侮りでは無い何か嫉妬めいた感情が見え隠れする気がした。
「なるほど⋯バレン伯殿もやっと後見を降りられるのですか。当主不在なら本来後継者が15か16歳を過ぎれば引渡せるものを長々と⋯一応お祝い申し上げる。ライアン殿に務まるものならば」ルーファスは唇だけで笑った。
「お前のせいだ、お前がいたからだ!何を意味の分からない事を⋯」
怒りで顔を歪めるライアン。
「意味がお分かりにならない?バレン伯爵は優秀な方らしいという話です。借金塗れのラッセル家をここまで支えて来られた功績を皆が讃えてますよ。その偉業が君にも務まる事を願うという意味です」オーレリアの話を聞きバートン家の経営補佐を務めるうちラッセル家の危うさが理解出来たルーファスはライアンには、いや例え自分だろうが侯爵家の経営は困難を極めるだろうと思った。
「嘘だ!出鱈目を言うな。母上はそんな事おっしゃっていないし僕も不自由はした事が無い!」まるで子供のように叫んだ。
「だから⋯君のその分不相応な贅沢を支えて来られたバレン伯爵の手腕を褒め讃えさせて頂いているんです」
「う⋯うるさいっ!」ライアンはヴィクトリア夫人に甘やかされ本当に侯爵家の内情に気付いていないのだ。
「お、お前ごときが、そうだ!お前こそバートン伯爵家の後継を狙ったみたいだが、それは僕がなるはずだったんだ。僕の後釜なんかそれこそ不出来なお前に務まるもんか!」その言葉にルーファスは溜息を吐いて言った。
「バートン家の後継を自ら棄てる愚行を犯しておいて聞いて呆れる、僕は大切に致しますよ。そうですバートン家は経営も安定し王の覚えもめでたい優良な伯爵家ですから。そちらの泥舟と違ってね。」ライアンは唇をかんだ。
「じ⋯じゃあ。出来るものならやってみろ!その代わりアリスとグレイスは僕が貰い受ける。お前の言う事なんか信じない。
母上が二人とも娶っていいとおっしゃるんだ。泥舟な訳が無いじゃないか!」
ルーファスの顔色がスッと変わった。
「⋯⋯今、何と言った?何と言ったんだ…!!」
ルーファスの気迫に一瞬怯んだ様子を見せたがそれでもライアンは叫んだ。
「だから⋯だから!アリスもグレイスも僕が!
ちゃんと二人とも僕が娶ってやれるんだっ!二人とも絶対僕のものなんだ!」
この幼子の様な発言にこの場にいた全員が凍りついた。
馬脚を現すとはこの事だ。この諍いで皆ライアンの正体に薄々気付いて来たのだろう、取巻き令嬢ですら少し身体を引いた。
侮りと怒りを込めた声でルーファスは言った。
「お前の様な幼稚で無能な奴になどバートン家の誰にも決して手を出させない。
アリスは僕の義妹だ。お前になんか渡すものか」
ライアンが目を剥いた「ま、まさかお前もアリスを⋯」
「馬鹿を言うな⋯この下衆。義妹だと言っただろう。
僕はバートン家の養子じゃない、婿養子だ⋯」
ルーファスは堂々と言い放った。
「グレイスは僕の妻だ!手を出そうとするな」
長い沈黙が流れた気がした実際はさほどの間も無かったであろう時のあと。
驚きと屈辱と怒りで蒼白になって黙ったライアンを一瞥したルーファスは
グレイスの肩を抱いて踵を返した。
ちらっと振り向いたグレイスにバーバラが小さく手を振っていた。
今回の噂は稲妻のように短期間で学園中に広まった。
あの美丈夫がバートン家の婿であった事。
そしてラッセル家の悪名高い長男と同一人物であった事。
ルーファスに向く熱い視線はほぼ無くなり煩い令嬢も消えた。
あれからライアンは学園に姿を現さない。
グレイスは学園のレストランで皆とバーバラも混じえランチをとっていた。
集まる視線も以前より少ない気がした。
「かえって良かったんじゃないですか?ルーファス殿も過ごしやすそうですし」
トーマスの言葉に「確かに学園では昔と同じように遠巻きにされて楽なんだが、
ただ義父上が⋯」萎れるルーファス。
あの日の出来事を報告した時〝確かに君はもう私の愛する息子だが娘の夫と認めるまでの修行は茨の道と心得なさい〟と睨まれた。
「お父様のは単にお姉様を取られたくないだけのヤキモチですわ。
お母様が笑い転げてらしたもの」アリスが言う。
「アリスにもお見せしたかったわ教室でのあの勇姿。
頼もしかったですわよ、ねえグレイス」
バーバラの言葉にグレイスがルーファスを見ると彼は直ぐに目を逸らした。
「嫌ですわ。お二人で赤い顔なさって」バーバラが揶揄った。
ああ私の好きな人達がみんな笑顔でいるって幸福なのね。
ラッセル家との関係ももう終わったんだわ。
あとはパーティとかでもし会ってしまった時に多少気まずいくらいね。
グレイスはこの時かなり楽天的だった。
この時の気分で数週間が過ぎこのまま穏やかな日々が続くと皆が思っていた頃、
突然貴族院からバートン伯爵へ召喚状が届いた。事由は王族侮辱の疑いとあった。
意味も分からずバートン伯爵は指定日に王宮内にある貴族院の上院に出頭した。
夕刻に帰邸した伯爵が気を揉みながら待っていた家族に最初に放った言葉が
「あの女狐の浅はかな策略にそう安々と嵌る私ではない」であった。
訴状の大方の内容はこうであった。
[ラッセル侯爵家が後継者として不適格と見なし王が承認して廃嫡とした長男を娘婿とし伯爵位を与えようとした。この襲爵は王から授けられた爵位をないがしろにする行為である]
[バートン伯爵は過剰に長女を優遇し次女を虐待した。この行為は貴族の品位を著しく欠きひいては王の名誉を穢すものである]
[拠って王族侮辱罪を妥当とする]
マーガレット夫人が聞いた「ルーファスの婿の件は侯爵家の嫌がらせだと判りますけれど長女の優遇とは?次女の虐待とはどうゆう意味ですの?」
伯爵は額に手を当て天を睨んだ。
「以前ヴィクトリア夫人が言った戯言を覚えているだろう?
アリスとあの馬鹿息子が想い合っていると。それを妬む姉を優遇して妹に望まぬ結婚を押し付けたんだ。この私がだ!」
「そんな⋯そんな馬鹿げた事。この国の貴族院はそんな馬鹿げた捏造をなぜまともに審議に上げたんですの!?」マーガレット夫人が悲鳴をあげた。
「皇太后だ。皇太后が王に奏上し王が貴族院に審議の依頼をしたようだ。さらに皇太后は王命をも要求したらしい、アリスとあの馬鹿息子の結婚を命じて欲しいと」
伯爵の言葉にアリスはグレイスに怯えた様子で縋り付いた。
ルーファスは既に蒼白になっている。
「そんな事が罷り通ってたまるか。皇太后はもうお年だ、判断力も鈍っておられる。可愛がっている姪に上手く転がされたに決まっている!」
伯爵は立ち尽くしているルーファスを手元に招き「心配しなくていい、負ける気はないよ。王にしても皇太后の手前審議させる形をとっただけだ。バートンを失って得る利は無いはずだ。君にはもう解るだろう?」安心させるように言った。
「王の真意はバートンに裁判で王国内での優位性を示せと言う事ですね。ラッセルより価値があると⋯」そして俯き「しかしこんな問題も僕がいなければ、僕のせいで面倒に巻き込んでしま⋯」ルーファスがそこまで言った時グレイスがその腕を両手で掴み頭を振った「やめて⋯ルーファス」
それを見た伯爵は「君に面倒をかけられた覚えは一切無いね。」と笑い
「 ラッセルは家格が高いと言うが本当に高いのはヴィクトリア夫人の実家のスペンサー家だ。スペンサーは今回関係が無い。ラッセルとバートンなら歴史も名誉も大差は無い、むしろ王家への貢献度など我家に敵う筈もない、大丈夫だ」
とルーファスの肩を叩いた。
バートン伯爵が嫌疑を不服とし異議を唱えたので上院での決闘裁判となった。
ラッセル家の理不尽な要求であるにも関わらず提訴した形なのが王家と言う不自然な裁判である。その事情について関係者はあらかた承知していて侯爵夫人の単なる嫌がらせに巻き込まれただけの茶番裁判だとの認識が強かった。
だが裁判は裁判である。正当に行われなければならない。
裁判初日バートン伯爵は傍聴を希望したマーガレット夫人とルーファスを伴って王宮に出頭して行った。
不安で落込むアリスは裁判中は学園を休ませトーマスもバートン邸でアリスに付き添っている事になった。
グレイスも不安だったが一族が誰も学園に姿を見せないのも逃げ隠れしている様で業腹だったので無理をして一人学園へ向かった。
「こちらは気が気では無いのに王様は玉座で気楽そうにしていらっしゃいましたわね」マーガレット夫人が恨めしそうに伯爵を見た。
午前中の審議を終え昼の軽食を取る為控室に下がったバートン伯爵を訪ねたのである。「気楽という事も無いだろうが、まあ原告とはいえ進行は代理人が行うし王は最高議長と並んで眺めていれば済むからな」
いたたまれなさそうに佇むルーファスを見やった伯爵が
「審議は好調にすすんでいる。気楽に傍聴している事だ」
と言った所へ控えていた侍従がバートン家からの知らせを伝えた。
「旦那様!大変です。お嬢様が、グレイス様が行方知れすだとの知らせが!
朝、学園に出られたあとの行方が⋯」




