透明標本の恋人
失恋すると、感情って「消したいもの」みたいに見える瞬間があります。
でも、本当に苦しいのは、
消えないことじゃなくて、
自分の中に残り続けることなのかもしれません。
これは、感情を預けられる店と、
それでも“自分の痛み”を選んだ人の話です。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
駅前に、“感情を預かる店”ができた。
最初にその噂を聞いたとき、私は笑った。
「なにそれ。メンタルクリニック?」
昼休み、コンビニのおにぎりを開きながら言うと、同僚の高橋が首を振った。
「違う違う。もっと変。感情をガラス瓶にして保存してくれるんだって」
「怖」
「でも結構人気らしいよ。“失恋を捨てたい人”とか来るらしい」
私は適当に相槌を打った。
そのときの私は、まだ、自分がそこへ行くことになるなんて思っていなかった。
◇
別れは、静かだった。
三年付き合った恋人は、驚くほど普通の顔で言った。
「ごめん。もう好きか分からない」
雨の夜だった。
窓に当たる雨粒の音だけがやけに大きい。
私は何か言おうとして、でも言葉が見つからなくて、結局うなずいた。
「そっか」
たったそれだけ。
本当は叫びたかった。
なんで?
私、何かした?
嫌いになった?
他に好きな人いるの?
でも、聞けなかった。
聞いた瞬間、本当に終わる気がしたから。
終わったのに。
◇
その店は、商店街の外れにあった。
古い喫茶店みたいな外観。
看板には小さく、
『透明標本室』
とだけ書かれている。
私は五分くらい店の前で迷った。
帰ろうかな、と何度も思った。
でも、帰ったところで、部屋には別れた恋人の歯ブラシが残っているだけだ。
だから入った。
カラン、と鈴が鳴る。
店内は静かだった。
棚いっぱいにガラス瓶が並んでいる。
青、赤、銀色、透明。
液体みたいなものが、瓶の中でゆっくり揺れていた。
「いらっしゃい」
奥から女の人が出てきた。
二十代にも三十代にも見える不思議な人だった。
白いシャツに黒いエプロン。
髪は長く、左目だけが妙に印象的だった。
「初めて?」
「……はい」
「じゃあ説明からかな」
彼女はカウンター越しに、小さな瓶をひとつ置いた。
中に、淡い光が漂っている。
「感情には形があります」
「はあ」
「怒りは熱を持つ。後悔は重い。恋は、少し甘い匂いがする」
私は思わず眉をひそめた。
宗教っぽい。
でも、不思議と帰りたくならなかった。
「ここは、それを取り出して保存する店です」
「……取り出したら、どうなるんですか」
「少し楽になる」
彼女は笑う。
「全部は消えないけどね」
◇
「どの感情を預けますか?」
私は答えられなかった。
失恋。
寂しさ。
未練。
たぶん全部だった。
「決められないなら、診断しましょうか」
「診断?」
「感情は、自分で思ってるものと違うことがあるから」
通された部屋は薄暗かった。
中央に古い椅子がある。
「座って」
私は従った。
彼女は私の胸元に、透明な糸みたいなものを触れさせた。
すると。
胸の奥から、何かが引っ張られる感覚がした。
「っ……」
痛くはない。
でも怖い。
水の中から臓器を引き抜かれるみたいな奇妙な感覚。
細い光が、ゆっくり糸に絡みついていく。
ピンク色。
少し濁っている。
「へえ」
彼女が呟く。
「これは珍しい」
「何がですか」
「あなた、“失恋”より“期待”の方が大きい」
「……期待?」
「また戻ってくるかもって思ってる」
私は言葉を失った。
図星だった。
連絡が来るかもしれない。
謝ってくるかもしれない。
やっぱり好きだって言われるかもしれない。
ずっと、どこかで思っていた。
彼女はガラス瓶に光を閉じ込める。
コルクを閉める瞬間、小さく鈴みたいな音が鳴った。
「はい」
渡された瓶は、ほんのり温かかった。
「これがあなたの“期待”」
私は瓶を見つめる。
綺麗だった。
胸をぐちゃぐちゃにしていた感情なのに。
「持って帰ることも、置いていくこともできます」
「……置いていったら?」
「少し軽くなる」
「じゃあ」
私は答えかけて、止まった。
軽くなりたいはずなのに。
なぜか、手放すのが怖かった。
◇
結局、その日は持ち帰った。
家に帰ると、部屋はいつも通り静かだった。
冷蔵庫の上には、恋人が置いていったマグカップ。
ソファには、一緒に選んだクッション。
何も変わってない。
でも全部変わっている。
私はベッドに座り、瓶を見つめた。
淡いピンクの光。
時々、小さく脈打つ。
まるで心臓みたいだった。
「……馬鹿みたい」
こんなの。
なのに。
見ていると、自分の感情を外側から眺めている気分になる。
苦しいのに、少しだけ冷静になれた。
◇
それから私は、何度か店に通った。
二回目は“嫉妬”。
三回目は“怒り”。
四回目は、“諦められない気持ち”。
感情は全部違う色をしていた。
嫉妬は黒に近い緑。
怒りは赤く熱い。
諦められなさは、水色だった。
「不思議ですね」
私が言うと、店主は棚を拭きながら笑った。
「何が?」
「感情って、もっと汚いものだと思ってた」
「実際汚いよ」
「え」
「でも、汚いから美しいんじゃない?」
彼女は窓の外を見る。
夕暮れだった。
西日が瓶を透かして、店内が色で満ちる。
赤。
青。
金色。
紫。
まるで感情の水族館だった。
「綺麗な感情だけの人間なんて、空っぽと同じ」
私はその言葉を、なぜかずっと覚えていた。
◇
ある日。
店へ行くと、棚の一角が空いていた。
「瓶、減ってますね」
「ああ。持ち主が引き取りに来た」
「戻す人いるんですか?」
「いるよ」
彼女は当然みたいに言った。
「感情は、なくせばいいってものじゃないから」
私は少し考えてから聞いた。
「……戻したらどうなるんですか」
「ちゃんと痛くなる」
彼女は笑う。
「でも、“自分の痛み”になる」
◇
その夜、私は元恋人からメッセージを受け取った。
『元気?』
たった二文字。
それだけで、胸が揺れた。
期待。
未練。
寂しさ。
預けたはずの感情たちが、身体の奥でざわめく。
私はスマホを伏せた。
返事はしなかった。
でも眠れなかった。
◇
翌日、店へ行った。
「返してほしいです」
店主は少し目を細める。
「どれを?」
「……全部」
沈黙。
店の時計が、カチ、と鳴る。
「後悔するかもよ」
「それでも」
私は棚を見る。
並ぶガラス瓶たち。
自分の感情。
苦しくて、情けなくて、未熟で。
でも。
たぶん、それが私だった。
店主は小さく息を吐いて、瓶を並べた。
「飲んで」
「飲むんですか?」
「感情だからね」
私は一本目を開けた。
嫉妬。
苦い。
二本目。
怒り。
喉が熱くなる。
三本目。
期待。
甘かった。
泣きそうになるくらい。
最後の瓶を飲み干した瞬間、胸の奥に感情が雪崩みたいに戻ってきた。
「っ……」
苦しい。
痛い。
でも。
ちゃんと、生きてる感じがした。
◇
「ありがとうございました」
帰る前、私は頭を下げた。
「また来るかも」
「人間なら来るよ」
店主は笑う。
「感情は、何回でも壊れるから」
店を出る。
夕方の風が頬を撫でた。
スマホが震える。
また、あの人からだった。
『会えない?』
私は画面を見る。
少しだけ考える。
そして。
スマホを閉じた。
空を見上げる。
薄青い夕暮れが、街の上に広がっていた。
胸はまだ痛い。
でも、その痛みは、ちゃんと私のものだった。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
「感情を取り出して保存する」という設定を書きながら、
人間って、嫌な感情ほど捨てきれない生き物だなと思いました。
嫉妬も、未練も、期待も、
苦しいのに、どこかで“自分の一部”なんですよね。
もしこの物語の中に、
読んでくださった方自身の感情が少しでも映っていたなら嬉しいです。
あなたなら、
瓶を置いて帰りますか?
それとも、持ち帰りますか。




