37.沈黙
―――ありえない。
部屋に戻ってからも、ユリウスは聖樹の枝を手放せずにいた。
仕事道具でもあるそれは、今も変わらず静かだ。
何事もなかったかのように。
……何が起きた?
あの時。カノンお嬢様が枝を返した、その瞬間。
確かに、穢れが聖樹の枝に吸収された。
息を整え、いつものように祈りの姿勢を取る。集中し枝に残された穢れを自らの身体へと移す。
まとわりつく、慣れ親しんだ感覚。穢れは確かに在る。
祈りを解き、再び枝に触れた。穢れは、再び吸い込まれるように消える。
「……」
異常はない。神器としての機能は、正常だ。
なら、どうして……?
―――祈り子は”浄化の力”を持つ。
世間一般的にはそう知られているが、実際には違う。祈り子は穢れを操り、”動かす”ことはできるが、消すこと――浄化する事はできない。
それは、教会が世界に希望を持たせるためについている嘘。
聖樹も同じだ。穢れを抱えることはできるが、浄化はできない。だから、限界に達した部位を切り落とす。
教会はそれを拾い、祈り子が枝の中の穢れを再び聖樹に還すことで、神器として整える。
――溜めるための器。消すためのものではない。
この枝も、本来はもう使えないはずだった。穢れを溜め込みすぎて、限界を迎えていた。だから私は枝に吸収できない分の穢れを引き受けていた。
それなのに。
枝の中の穢れが消失した……?
脳裏に浮かぶ、怯えたような後ろ姿。初めて会った時から、どこか“知っている”ような目。
―――彼女には、自覚がある?
カノン・イーサリオン。彼女が聖樹の枝に触れた後に異変は起こった。その意味とは―――。
「落ち着くのです」
自分に言い聞かせるように呟いた。
震える手を握り、考える。この現象が起きた理由を。
聖樹の枝は穢れを吸収する。それは一般人が触れても何も起こすことはできないが、祈り子だけが祈りで穢れを取り出すことができる。
実はカノンお嬢様に穢れが移っていた?
だが、カノンお嬢様からは穢れの気配は全くしなかった。だから私も浄化の力がないと判断したのだ。
ならばやはり穢れが消えたことになる。
そしてそれができるのはただ一人―――聖女だけ。
教会は、聖女が現れれば保護せよと定めている。
だが、その先は、どこにも書かれていない。どう扱うのか。どう生かすのか。あるのはただ、「聖女を失うな」という言葉だけだ。
私はそれを、よく知っている。
祈り子として生まれ、祈り子として育ち、祈り子としてその役目を何一つ疑わず果たしてきた。
そう教えられてきた。
祈り子は、それを疑わない。
……外の世界では異常と呼ばれることもあると理解している。
―――もし本当に聖女が現れれば。もし、その力が公になれば。
祈り子よりも、穏やかな末路が用意されているとは思えなかった。
……もし、嘘をついたのなら、カノンお嬢様はなにか理由があって見つからないように行動しているのだと思う。
いや、あの様子から自覚はしていないのかも……?
判別はつかなかったが、カノンお嬢様のご意志を尊重すべきだ。
悲劇の聖女が磔にされ、殺されてから1000年あまり。こんな瞬間に自分が立ち会うなど考えてもいなかった。
考えるべきことが山のようにある。
慎重になるべきだ。
下手に行動すべきでない。
だが、早急にエリュナ・サンクティアにお越いただかねば。
きっと聖樹はもう限界が近い。
祈り子は、口を噤む事を選んだ。
―――聖女様を、お守りしなくては―――。




