第二十三話 星の泉に呼ばれて
(冷たい……ここは、どこなの……?)
ひんやりとした感触に身動ぐと、ルナリアは目蓋をそっと開いた。目の前の朽ち欠けた柱には、淡く青い光がちらちらと揺らめいている。
冷たい石床に手をついてゆっくりと起き上がると、そこには美しく澄んだ泉が広がっていた。その泉は、夜空の星々を映して、静かに青い煌めきを放っている。
(不思議な泉……)
「ルナリア様」
不意に、背後から響いた声にルナリアが振り返る。瑠璃色の瞳に映るのは、微笑むルシアンの姿だった。
「ルシアンさん……ここは、どこですか?」
「何故、こんなことを……」と怯えるルナリアに、ルシアンは優しい微笑みを浮かべる。
「ここは、星の泉……清らかな星の巫女だけが祈ることを許された聖域です」
(星の泉……じゃあ、ここはアストレアの……)
何事もなかったかのように微笑みながら語るルシアンに、ルナリアは恐怖の表情を浮かべる。
「そのようなお顔をなさらないでください………怖くはありませんよ。私も一緒に参りますから……」
「……どこに、連れて行くつもりなの?」
ルシアンはルナリアにゆっくりと近づいていく。
「──もう、還らなければなりません……星の導きに逆らってはいけないのです……」
(何を、言っているの………?)
ルシアンのその黒い瞳は、焦点が合っていないように見えた。
「さぁ……一緒に参りましょう」と微笑んで手を差し出すルシアンに、怯えた表情で後退りするルナリア。
ルナリアの踵に当たった朽ちた柱の欠片が、背後の泉へと落ちる。
煌めく水面が大きな波紋を描き、青白い光があたりに揺らめいた──その瞬間、
「──ルナリア!」
切迫した声と共に、ふたつの影が駆け込んでくる。
「サイード、アレクっ……!」
ルナリアの泣きそうな声が、泉に吸い込まれるように広がった。安堵したルナリアの頬を、一筋の涙が伝う。
最初にルナリアの名を呼んで飛び込んできたのは、サイードだった。それは、今では彼が決して口にしないはずの、王女の名前──サイードの揺れる虎眼石の瞳が、ルナリアの瑠璃色の瞳と見つめ合う。
その瞬間──泉に浮かぶ星が、瞬いた。
眩い青白い光が泉から放たれ、ルナリアとサイードの意識は、遠い時の波に呑まれる。
それは、遥かなる記憶の声。星々が語る、星の巫女たちの失われた祈りの記憶──
光が、音が、想いが──泉から溢れ出すように彼らを包み込んだ。
そして、誰の声とも知れぬ星の囁きが、ふたりに語りかけた。
* * *
──視える。
ふたりは視ていた──かつての、星の巫女とナザールの記憶を。
古のアストレア。夜の帳が降りた聖なる泉の神殿で、一人の星の巫女が天を仰いでいる。月光色の髪、白い衣を風に揺らし、彼女は両手を夜空の星々へと伸ばした。
「星よ……応えてください。わたしたちの祈りに──」
傍らには、褐色の肌の一人の青年。ナザールの者。その虎眼石の眼は、星のビジョンを映していた。
「視えます……次に訪れる星蝕の兆しが」
彼らは共鳴していた。声にせずとも、心を通わせるように。
星の巫女が祈り、ナザールの者が視る。そして、ナザールの者は力を持たない星の巫女をずっと守り続けてきた。彼らの力が一つに重なり、国を──世界を守っていたのだ。
──だが、時は流れた。
星の巫女の力を利用しようとする者。ナザールの予知を恐れ、封じようとする者。人々の欲と恐れが、星に向けられていた清らかな信仰を濁していった。
「星蝕を操っているのはナザールの者たちだ」
「星の巫女は騙されている!」
誰かが、意図的に誤った噂を流した。
その日、神殿の回廊は血に染まり、信頼は引き裂かれた。
ナザールの者たちは冤罪のもとに討たれ、生き残った者は地を追われる。泣き叫ぶ星の巫女の手は、もはや彼らには届かなかった。
──そして、星は赤く染まり始めた。
『星は、怒ってなどいない……』
『ただ、向けられた想いを映し返しているだけ……』
誰かの声が、ふたりの心に重なる。
『恨みも、憎しみも、欲望も……それらすべてを星は受け入れてしまうのです』
『それらが、赤く濁り、大地へと堕ちていく……それが、星蝕なのです……』
祈る星の巫女の涙は、星に届かない。その声は、もはや──世界に届かない。
星々の嘆きが、失われた祈りが木霊する──
──すべてを視たふたりは、再び泉の前に立っていた。
胸の奥に、痛みと共に刻まれた──星々への祈りの余韻を残して……。




