第二十二話 月と剣の誓い
星を戴く神々を祀る、白銀の神殿。
ここアストレアの地は、古くから星の神々の血を受け継ぐとされる王族により統治され、王族の女性は『星の巫女』として信仰の要となる立ち場を担ってきた。この国は、星の神々と星の巫女への信仰によって成り立ち、神聖国として大きく発展してきたのだ。
その広大な神殿にある中庭には、天からやわらかな陽光が降り注ぎ、萌黄色の地面をやさしく照らしている。庭の中央には、天を映し出す澄んだ泉があり、その周りを囲むように咲き誇る白い花々が春風に揺れていた。
神殿と王宮を兼ねるこの場所は、信仰を守る神聖な場所でありながらも、王族たちの日常が流れる場所でもあった。
白大理石の柱廊から春風が吹き抜けるある日、泉のほとりには、星の巫女セレネと、アリシオンの若き王レオニードが佇んでいた。
昼下がりの穏やかな陽が、神聖樹の葉を透かして、淡く揺れる光を二人に落としている。セレネの纏っている白い神聖衣の裾を飾る星の紋が、木漏れ日を弾いて淡く煌めいていた。
セレネの紫水晶の瞳が天を映すと、薄く今にも消えそうな下弦の月が儚げに浮かんでいる。
「……星々は、静かですね」
セレネがそう呟くと、泉の水面に散った光が彼女の絹糸のような月光色の髪を照らした。その姿は、神託の光を受ける巫女──否、まるで地上に舞い降りた清らかな女神のようだった。
レオニードは少しだけ目を伏せ、微笑む。
「この国の……この世界の未来は、あなたの祈りによって導かれる──それを、婚姻の誓いとして言葉にする日が来るとは思いませんでした」
レオニードの瑠璃色の瞳は、穏やかにセレネを見つめている。
「政のためだと、理解しています」
セレネは淡く微笑む。だがその目には、強い決意の光が宿っていた。
「けれど、わたくしはこの国が……この世界が、闇に呑まれることのないようにと祈り続けます。それが、星の巫女であり、この国の王族として生まれた者の務めですから」
その言葉に、レオニードは真っ直ぐに頷いた。
「ならば、私は剣としてあなたに誓いましょう。あなたの祈りが届くよう、この国とあなたを守る盾となることを……」
ふたりの影が、春風にさざめく泉の水面にそっと重なる。水面を渡る風に、白い花々の香りがほのかに漂った。
そのとき──白大理石の回廊の陰から、ひとりの若い神官がふたりの姿を見つめていた。
黒曜石の瞳を揺らしながら、口元を強く結ぶその神官の名は、ルシアン。
彼の胸の奥に根付いていた真っ直ぐな“祈り”が、ゆっくりと崩れ落ちようとしていた。
* * *
間もなく初夏を迎えるアストレア神聖国の神殿に、清らかな鐘の音が響き渡っている。神殿の周りの木々も庭園の草花も青々と美しく茂り、まだ涼やかさの残る風の中で小鳥たちが歌い飛び回っている。
大理石の柱の陰から、一人の若い神官が神殿の奥の様子を窺い見ていた。その黒曜石の瞳が見つめる先には、ステンドグラスから差し込む清らかな光に照らされて向かい合うふたりの姿があった。
白絹のドレスに淡く透けるベールを纏った美しい女性と、紋章が刻まれた純白のマントを背負い、その頭には輝く王冠を戴いた青年――アストレア神聖国の王女でもある星の巫女セレネと、アストレアより南方の海辺にあるアリシオン王国の若き王レオニードの結婚式が執り行われていた。
「セレネ様が望まれているはずがない……全て、このアストレアのせいだ」
呟かれたその声は震えている。ルシアンは、その両の拳を強く握りしめた。
その美しい顔に浮かぶのは、裏切られた信仰への怒りか──それとも、もっと別の感情なのか。
──月の女神のように、その容姿も心も誰よりも清らかで美しい星の巫女セレネ。
この人生を掛けて、この命を懸けて、一生お側に仕えお守りすると決めていた──だが、もうここにいる意味はない。
国益のために月の女神であるセレネを人間に売った、星の神々への信仰を捨て、星の神々を……月の女神であるセレネを侮辱し裏切った、このアストレアには……。
ルシアンはその日、神殿騎士の身分をアストレア神聖国に返上し、南のセラファイスへと向かった。
* * *
「お前が新しく入った神官だな……ふむ……」
老齢の神官は、黒曜石のように澄んだ瞳をもつ少年をじっと見つめていた。艶やかな黒髪と白い肌、どこか儚げなその佇まいは、一見して少女のようにも見えた。
「あの……ヘリオス司祭様?」
少年は少し戸惑った様子で、相手の顔を伺う。
「おお、そうだ……名前は?」
「ルシアンと申します」
「ルシアンか……良い名だな。ここでの務めは決して楽ではないが、精進するように」
その言葉に、ルシアンは真っ直ぐに頷いた。希望と誇りを胸に、少年はこの新たな地での日々を歩み始めた。
* * *
それからしばらくして、ある晩のこと。
「月が天の真上に昇る頃、裏庭を通る回廊まで来なさい」
そうヘリオスに呼ばれたルシアンは、言われた通りに静かな回廊を歩いていた。
「──っ…?」
ふと背後から近づいてくる気配に、身体がこわばる。振り返ると、そこにはヘリオスの姿があった。
「素直に来たな、ルシアン……」
薄暗い回廊で静かに響く声と、間近に迫る気配に、ルシアンは不安を覚える。
「ヘリオス司祭様……何のご用でしょうか?」
問いかけるも、返ってくるのは曖昧な言葉と、まなざしに潜む得体の知れない圧。
(……何か、おかしい……)
ヘリオスの腕が伸ばされた次の瞬間──
「──このような夜更けに、何をしているのです」
透き通るような声が、静寂を裂いた。
月明かりのように清らかな光に包まれて、白銀のカンテラを掲げたひとりの女性が姿を現す。その髪は月光のように輝き、紫水晶の瞳は深い慈愛に満ちていた。
「セ、セレネ様……」
狼狽えるヘリオスの声に、ルシアンは目を見開く。
──まるで、月の女神さまみたいだ……。
「あなたは、新しく神殿に来た方ですね」
セレネは静かにルシアンの前に歩み寄り、優しく手を差し出した。
「神殿は広くて迷いやすいのです。お部屋までご案内しましょう。さあ、こちらへ」
その声に、ルシアンは救われるような思いで頷いた。恐怖に凍えかけていた心が、差し伸べられた手の温もりに少しずつ解けていく。
「……闇は、さぞ恐ろしかったでしょう?──でも、もう大丈夫ですよ」
その言葉に、ルシアンの瞳に滲んでいた涙が一粒零れた。
* * *
翌朝、ルシアンには新たな辞令が下された。星の巫女セレネの側付きとして、神官騎士見習いとなることが決まったのだ。
その日から、ルシアンの心には「誓い」が芽生えた。──この方を、守りたい。この方の信じる道を、共に歩んでいきたい。
慣れない剣の修練にも日々励みながら、セレネの傍で過ごす日々は、ルシアンにとって何よりの救いと喜びとなった。
* * *
古い神殿の外、夜風に当たりながら石造りの街の灯りを眺めていたルシアンはふと天を見上げた。その黒曜石の瞳に、美しい上弦の月が映し出される。
「セレネ様………」
地上の全てをただ優しく照らそうとするその儚くも清らかな光に、ルシアンは南の国へ旅立ったセレネへと想いを馳せた。




