第十九話 湖畔での夜営
先日星蝕の被害を受けたソリュエルでは、混乱のなかで人手や物資が不足していた。
ルナリアの提案で、一行は宿屋に預けていた馬を街の輸送用として譲渡し、ここから先は徒歩で巡礼都市セラファイスを目指すこととなった。
静かな朝霧のなか、ソリュエルの街をあとにして、一行は巡礼都市セラファイスへと向かう。
先日の星蝕の混乱を思わせる面影は、街の外れではもう感じられなかった。けれど、空気の奥に残るほんの微かな焦げ臭さと、草むらに放り出された屋根や家屋の破片が、確かに異変があったことを物語っていた。
ルナリアは、ソリュエルでゆっくりと休んだことで体調も回復しており、茶色の外套を纏ってしっかりと歩いている。
アレクシスは彼女の隣を少し離れて歩き、時折、何か言いたげな視線をサイードに送っていた。
サイードはというと、特に気にした様子もなく、無言で前を歩いている。いつも通りの無表情のまま、警戒の目を森の影や空に走らせていた。
日が高くなるにつれて、森が深くなっていく。
昼過ぎに、川沿いに開けた小さな丘の麓で、サイードが立ち止まった。
すぐ近くには、美しい湖が広がっている。
「今夜はここで野営しましょう……陽が落ちる前に、俺が火の準備を済ませます」
「水もあるし、平らな場所も多い。良さそうですね」
アレクシスが頷くと、ルナリアも「そうね」と小さく微笑んだ。
こうして一行は、森の中の湖畔で、夜を過ごす準備を始めた。
* * *
テントの設営が終わり、薪を集め終えた頃だった。サイードが唐突に顔を上げ、森の奥を睨む。
「……来る」
「何がですか?」とアレクが訊ねるのと同時に、地響きが森の地面を揺らした。
バキバキと枝を折る音とともに、暗がりの木立を割って飛び出してきたのは──鋭く伸びた牙を持ち、体長が馬ほどもある巨大なイノシシのような魔物だった。黒鉄のように硬そうな皮膚と、赤く爛れたように光る目が、不気味な気配を放っている。
その呼吸は獣とは思えぬほど低く、まるで炭を燃やすような異様な匂いが鼻を突いた。
「姫様、下がってください!」
アレクシスが素早く剣を抜き、ルナリアの前に立ちはだかる。
魔物は一度、低く唸り声をあげると、まっすぐアレクシスに向かって突進してきた。小石が跳ね上がり、土煙が舞う。
「っ──来い!」
アレクシスは横に跳びながら魔物の首筋を狙って斬りかかるが、厚い皮膚に弾かれてしまう。
「皮が硬すぎる……!」
その背後から、無言で跳びかかる影──サイードだった。
両手には双短剣。サイードは魔物の背に飛び乗ると、首元の隙間を一瞬で見極めて剣を突き立てた。
「ッ……こいつ、刃が通らない……急所を狙うしかない」
サイードの声に、アレクシスが頷く。
「私が囮になります!」
魔物は、背中のサイードを振り落とそうと狂ったように跳ね回り、牙を左右に振るって突進する。アレクシスは草むらを跳ねるように移動して、魔物の注意を逸らす。
その隙を突いて、サイードが魔物の眉間に短剣を突き立てた──ぐしゃり、と鈍い音がして、魔物が絶叫をあげる。
「よし……!」
息を切らせながらも、ふたりは連携して魔物を仕留めた。
あたりに静寂が戻り、森の風が草を揺らす。
その場に倒れ伏した魔物を見て、木陰に身を潜めていたルナリアが駆け寄る。
「……ふたりとも、怪我はない?」
「大丈夫です。私たちよりも、こいつの方が傷だらけですから」
アレクシスが冗談のように言って、サイードも珍しく口元を緩めた。
* * *
「美味しそうね……」
サイードの方を見つめながらそう呟いたルナリアの隣で、アレクシスも「そうですね」と頷いている。
目の前では、サイードが夕食の準備をしていた。煌々と燃える焚き火では、先程倒した猪形の魔物の肉が塩を降って串焼きにされ、良い匂いを立ち昇らせている。
サイードはソリュエルで仕入れておいた新鮮な野菜を手際良く切って、肉と一緒に鍋で炒めると、香草を加えて煮込む。
やがてスープから湯気とともに、森に溶け込むような滋味深い香りが立ち上った。しばらくぐつぐつと煮込み、塩胡椒をして味を確認するとサイードはかすかに頷いた。
出来上がったスープを用意しておいた椀に注ぐと、焚き火から串焼きを取り、それぞれの皿に乗せていく。ルナリアとアレクシスに「出来ました」と差し出して、自分も腰を降ろした。
「ありがとう、サイード……いただきます」
口々に礼を言って、アレクシスとルナリアはスプーンを口に運ぶ。
コクリと一口飲み込むのと同時に、ルナリアの瞳が輝いた。
「美味しい! すごく美味しいわ、サイード」
「本当に……とても、美味しいです」
ルナリアとアレクシスは、スープを何度も口に運んでいる。
玉ねぎと人参の甘みと肉の旨味が溶け込んだ温かなスープは、少しとろりとしていてホッとするような味だった。
「やっぱり、サイードは料理上手ね」と微笑むルナリア。
「……母から教わった料理です」
「お母様から……きっと、料理上手で素敵なお母様だったのでしょうね」
そう言ってふわりと微笑むルナリアに、サイードもかすかに微笑んだ。
アレクシスは言葉が見つからず、黙ってスープや肉を口に運んでいた。
* * *
日が沈み暗くなった森には、焚き火が静かに燃える音と、時折梟の鳴き声が響いていた。たまに吹く柔らかな夜風が、焚き火の炎をゆらりと揺らす。
ルナリアは、テントの奥で毛布に包まって眠っている。その様子を見ながら、サイードとアレクシスのふたりは黙って焚き火を囲んでいた。
長い沈黙を破るように、アレクシスが顔を上げた。
「あの、サイード……昨日は、悪いことを言いました。私は、あなたのことを何も知らずにあんなことを言ってしまって……」
申し訳なさそうにそう謝ってきたアレクシスに、サイードはちらりと視線を向ける。
「気にする必要はない。……そもそも、誰にも話していなかったことだ……俺の方こそ、気を使わせて悪かったな」
「いえ……私の想像力が足りませんでした。人それぞれ、どんな理由があるかなんてわからないのに……──えっ?」
サイードが、「くくっ…」と声を出して笑った様子を、アレクシスが目を見開いて見つめている。
「あの話を想像できたら怖いだろう……」
「違いますよ! ……何か理由があるのかもしれない、と考える想像力です」
「……わかった」
そう返したサイードの瞳が笑っている──アレクシスは、そう感じた。
(この人は、ずっと感情を殺して……隠して生きてきたんだ……それでも、よく見ればわかる)
一見冷たそうな虎眼石の瞳のその奥に、温かな光を宿していることをアレクシスは知った。
* * *
翌朝、愛らしい小鳥のさえずりに目を覚ましたルナリア。柔らかな朝の光が、閉じたまぶた越しに滲んできて──ルナリアは、そっと目を開いた。
森の早朝、草花には澄んだ朝露が光り、木々の間からは柔らかい木漏れ日が若草色の地面をそっと照らしていた。
(あの紫色の花……前に見た夢の中でお母様がくれたルナリアの花に似てるけど、少し違う……あのとき、お母様は……)
その視線の先には、小さな紫色の野花が咲いていた。ルナリアは、まだ夢見心地でその花を見つめていた。
「おはようございます、姫様……ゆっくりされていてくださいね」
ルナリアが目覚めたことに気づいたアレクシスが笑顔で声を掛けてきて、ルナリアも微笑み返した。
「おはよう、アレクシス……ふたりとも、早いのね」
ルナリアの視線の先には、一緒に朝食を準備しているふたりの姿があった。
「おはようございます、姫様……もう少しで準備できますので」
そう言ったサイードは、新鮮な果物を手際良く切って皿に並べている。
「ありがとう、ふたりとも……ゆうべは、ちゃんと眠れた?」
ルナリアの問いかけに、アレクシスが微笑んだ。
「サイードと交代で休みましたよ」
「アレクシス、これを運んでくれ」
サイードの声に、「わかりました」と応えて果物の乗った皿を並べるアレクシス。
そんなふたりの様子を見て、ルナリアはそっと微笑んだ。




