第8話 人間嫌い
「困ったわねえ」
澄子さんが、おっとりした口調で言いながら、頬に手を当てる。その仕草を見つめながら、私は苦笑いした。
「お犬ちゃん、全然心を開いてくれないわねえ。どうしてあんな怪我をしたのかくらいは、聞かせてもらえるとありがたいんだけど……。保護者の方なんかがいたりするのかもわからないことには、犬ちゃんを家に置いたままにしても良いのか、判断も付かないし」
そう。澄子さんを悩ませているのは、あの青年……犬のあやかしだった。
あれから、澄子さんが連れてきた、あの犬のあやかしは、我が明石屋で休養を続けていた。
数日経った現在、体はいくらか回復したらしいのだが、澄子さんが近寄ると威嚇をしてくるようで、全く話をすることもできていないのだとか。
侑李さんたち……あやかしに対しても、心を開いてはくれていないらしく、情報がほとんど得られていないのだ。
「私たちに対しては、多少無口ではあるけど、それほど攻撃的な態度を取られるようなことはないのよ。ただ……」
苦笑して口を開いた侑李さんが、言葉を濁す。言い辛そうにした侑李さんの言葉を引き継ぐ様に、いつきさんが口を開いた。
「人間が嫌いなんだってさ。だから、人間と親しくしている僕たちとも、あまり話したくないんだとさ」
頬杖をついたいつきさんは、どこか無関心そうにも見える真顔のまま、遠くを見るように、目を細めた。それから、大きくため息を吐いた。
「ま、僕にはあいつの気持ちもわかるよ。人間なんて生き物は、基本的には碌な生き物じゃあないからね」
「ちょっと、いつき」
やれやれと首を振るいつきさんに、侑李さんが咎めるような声を上げる。
その時、少し険悪になりかけた部屋の空気を壊すように、太郎さんがそっと手を挙げた。自ずと、皆の視線が彼に集まる。
「詳しい内容は聞けなかったのですが、どうやら人間に使われていたようで……」
「使われていた?」
皆の視線を一身に浴びた太郎さんが放ったのは、そんな掴みづらい言葉だった。その真意を理解しきれず、思わず眉を寄せる。
すると、いつきさんが私の抱いた疑問に応えてくれた。
「祓い屋の類だろうねえ。あやかしを制するために、あやかしを使う職業というものが、この世にはあるんだよ」
「祓い屋、ですか……。それって、協力してくれているあやかしに対して、あんな……ボロボロになるまで働くことを強制するものなんですか? あんな、大怪我をするようなことを、させるものなんですか?」
「扱いはそれぞれの主人によるとは思うけどねえ。あの犬っころの主は、かなり粗雑な扱いをしていたようだね」
「そんな……」
思い返すと、単純に傷だらけであるだけではなくて、あのあやかしはかなり痩せていた。
それは、彼の主にあたる人物が、きちんと面倒を見ていなかったせいなのかもしれない。
「でも、だとしたら……。人間が嫌いだと言うのも、仕方ないですよね」
自分のしたことではないけれど、何だか責任を感じる。
彼にしてみれば、人間という大きなくくりの中で、彼の主人と私は、同じだと見られてしまうだろう。
胸のあたりに、ずくりと重たいものが乗ったような心地がした。
「そうねえ。でも私は、人間だから、とか。あやかしだから、とかってことは、あんまり関係ないと思うのよねえ。だって、結局は私とあの犬ちゃんとが築き上げた関係の話に、最後は落ち着くわけでしょう? それって、相手がどんな生き物だろうと、変わらないことだと思うわ」
けれども、私の落ち込みとは裏腹に、澄子さんは柔らかい表情を崩すことはなかった。
「私たちは幸い、同じ言葉を扱っているのだから。言葉を尽くしてお互いのことを知ればいいの。完全に理解する必要なんてない。遠い誰かじゃなくて、隣人になれればいいのよ」
澄子さんの話は、簡単なようで、とても難しいことのように思えた。
だって、同じ言葉を使っているとはいっても、彼はその言葉を交わすことを拒絶しているのだ。
「綺麗ごとだね」
案の定、いつきさんがそんな風に言い捨てた。
けれど、その直後に、険しかった顔を笑み崩す。まるで、小さな子供に対して、仕方がないなあと笑いかけるような、優しい表情だった。