第45話 大切なものは
派手な音で目を覚ましたのは、本日二回目の事だった。直ぐに、優しい表情の太郎さんと目が合って、安心したように微笑みかけられた。
「雛さん、良かった。思ったより、随分と早く目が覚めたのですね」
「太郎さん……。ここは……」
ぼんやりとした思考が、再び響いた爆音によって無理やり現実に引き戻される。
「そうだ、柚希! 虚白!」
慌てて体を起こすと、ボロボロの大きな白い犬が、虚白の体に圧し掛かっている姿が見えた。
何事⁉︎
怪獣映画みたいな絵面にプチ、パニックを起こしていると、虚白が腕を振り払い、犬が大きく跳躍した。……と、同時に、犬はゆらりと揺らいで、その姿を柚希に代えた。
「柚希⁉︎」
「ああ、そうか。雛さんは眠っていましたから、変化をご覧になっていないのですね。どうにも、自分の力を存分に使える状態、と言うのが初めてなせいか、先程から姿が安定しないのです」
「え?」
言っている意味がいまいちわからないが、つまりあの大きな犬は柚希で、犬になったり柚希になったりして忙しいと、そういうことだろう。
虚白の爪が、獣のように鋭くなっている。それを振りかぶって、柚希に向かって突進していく。
「危ない!」
思わず声を上げるけれど、柚希は少し体を動かしただけで、ひょいと避けてしまった。そのまま、すれ違いざまに虚白の腕を掴んで、ぐっとその体を持ち上げる。
そうして、柚希は素早く振りかぶって、虚白の体を放り投げた。虚白の体は、凄まじいスピードで壁に激突する。ぱらぱらと、天井から何かが降ってきた。
「……あれ、柚希、もしかして……強い?」
首を傾げながら独り言ちると、太郎さんは苦笑した。
「先程までは、結構危機的状況だったんですけどね。でももう……彼は、大丈夫でしょう」
太郎さんの言葉通り、柚希が虚白を静かにさせるまでは、そう時間はかからなかった。
最終的に、虚白は体が自由に動かせない状況になったようで、仰向けに倒れたまま、起き上がってこなくなった。
ただ、そうなっても口は減らないようで、未だに悪態をついているのだから、大したものだ。
私は、震える足に鞭をうって、虚白の側に近づいた。彼に、聞きたいことがあったのだ。私が起きたことに気づいた柚希が、駆け寄ってきて、腕を取ってくれた。それに甘えて支えてもらうことにする。
虚白に近寄ろうとしているのだと気が付くと、何か言いたげな眼差しを送られ。けれど、じっと目を見つめると困ったように眉を下げただけで、好きなようにさせてくれた。
虚白は、近寄ってきた私に気が付くと、脅しかけるように唸り声を上げた。
けれど、柚希に散々痛めつけられて、立ち上がる事すらままならないその様を見ると、かえって哀れに見えるだけだった。
「……貴方はただ、寂しかったんじゃないですか? だから、柚希を拾って、一緒にいた。ぬくもりが側にあると嬉しかったから、ずっと隣に置いていた。そうじゃないんですか?」
柚希たちが来る前の、ほんの少しの間。虚白と二人で話してから、ずっと考えていたのは、そんなことだった。だって、既に彼が、立場を盤石なものとしているのなら、柚希を連れ戻す必要なんてないんじゃないかと、そう気が付いてしまったのだ。
それなのに、ひとりきりで、何度もいつきさんたちに追い返されて、それでも柚希にちょっかいを出し続けたのは……柚希を、単純に取り戻したかったからなんじゃないだろうか。
「はっ! お前らみたいな甘ちゃん弱小種族と一緒にするな。俺は犬神だぞ。生まれ落ちた瞬間から餓え渇いて、人間を憎んで……。激昂と怨嗟の奔流にのまれながら、一人で生きてきたんだ」
虚白は、馬鹿にするように鼻で笑った。けれど、その目には、今までには見えなかった、複雑な感情が浮かんでいるような気がする。
「だからこそ、なんじゃないですか。生まれ落ちたその時から、誰にも頼らずに本能のままに憎んで、飢えを満たそうと足掻いて。……ずっとそんな風に全力で走ったら、誰だって疲れます。休みたくなります。そんなときに、柚希みたいな……自分を全力で慕って、素直に愛してくれるような子に出会ったら……。愛してしまうんじゃ、ないですか」
「ふざけるな! 愛だのなんだのと、よくもそんな気色の悪い言葉を、臆面もなく口に出すな! 何がわかる……お前のような人間に、人間如きに、何がわかる! 人間に生まれたというだけで、傲慢にも俺を作り出した! 俺たちが人間に作られたというだけで、当然のように俺たちをぼろ雑巾のごとく使いつぶした! 人間が、全てお前たち人間が、俺のようなあやかしを生み出したせいで!」
虚白の咆哮に、全身が震える。最早、身動き一つとれないような状態のこのひとの、どこにそんな力が眠っていたのだろうか。そう思わされるような、力のこもった叫びだった。
やっぱり、人間とあやかしとでは、わかりあえないのだろうか。
不意に、そんな考えが頭をもたげた。いくら言葉を重ねようと、根本から種族として違うのであれば、結局はわかりあったつもりにしかなれないのではないだろうか。そんな風に、思ったのだ。
だって、私は虚白の言葉に、唇を噛み締めることしかできないのだ。
「虚白、それはちがうと思う」
しかし、そんな私の考えを覆すように、柚希はゆっくりと首を振って、虚白の手をそっと握った。
「俺は、あやかしだけど、虚白の本心は、正直に言ってわかってないと思う。俺は、人間が憎いと思っていたけど、俺が憎かったのは、人間そのものじゃなくて、元主人だった」
そっと語り掛ける口調の柚希は、赤子に言い聞かせるような、優しくて柔らかいものだった。
「虚白が、お前に何がわかると言うのは、もっともなことだと思う。けれどそれは、雛が人間だから理解できないんじゃない。虚白と雛が、別の生き物だからだ。それは、俺と虚白だって、そうだ。あやかし同士だけど俺たちは、柚希と虚白だ。別の生き物だ」
柚希の穏やかな声を聞きながら、私はいつか柚希に、「本当に人間が憎いのか」と尋ねた時のことを思い返していた。そうして、私が思っていたよりずっと、彼が私の問いに対して、真摯に向き合ってくれていたのだということを思い知ったのだ。
「虚白……俺は、虚白があやかしだから、好きになったんじゃない。虚白が、ずっと俺の側にいてくれたから、好きになったんだ。俺と一緒に沢山の時を共有してくれたからだ。そしてその時間は、虚白の気持ちがどうであれ、無かったことにも、嘘にもならないと、俺は思う。でも、虚白にとってはそうじゃないんだろ?」
問いかけるような言い方だったけれど、答えを求めてはいないようだ。柚希は、口を止めることなく、言葉を紡ぎ続けた。
「あやかし同士でも俺には、虚白の気持ちは、わからない。だから、雛が人間だから、虚白の気持ちがわからないなんていうのは、ちがうと思う。でも、俺の気持ちも、虚白にはわからないだろ。当然だし、それでいいんだと思う」
そこまで言い切って、柚希はふにゃりと笑った。親を見つけた時の子供のような、安心しきった笑顔だった。
「俺は、やっぱり、虚白が好きだから」
その場に、沈黙が流れた。俯いた虚白の顔は、垂れた長い前髪のせいで見えない。
柚希の真心が、届かなかったのだろうか。
そう思うと、唇を噛み締めたい気持ちになる。長い沈黙が流れた。
「……俺より、そっちの女を選んだんだろう」
不意に、虚白がぽつりと呟いた。それに、柚希はふるふると首を横に振った。
「ちがうよ、そういうことじゃない。ただ……大事なものが、増えただけだよ」
微笑む柚希を前にして、虚白は今度こそ完全に体の力を抜いたようだった。




