第43話 柚希:向き合う時
雛は、口元に薄らとした笑みを浮かべて、体に未だまとわりついていた縄を地面に落とした。首を横に倒したり、肩を回したりする様子からは、雛らしい仕草を読み取れない。
けれどそれは、確かに馴染みのある仕草だった。
「……虚白」
呼びかけると、雛……いや、雛の体に入った虚白はこちらに目を遣って、ちらりと歯を見せて笑った。
「ああ、よし。問題なく動けそうだ。さて……これで、女の抵抗を気にすることも、お前に攻撃される心配もなくなったわけだ」
言いながら、雛は床に倒れていた虚白の体を強引に引きずって、部屋の奥の方にぽいと捨てた。
……雛の体に、虚白が入っているとはいえ、元は自分の体だ。とは言っても、本当の意味で虚白は体を持ってはいないらしく、今引きずっているのは前の主人が作った義体のようなもの、らしいのだけど。
「虚白、大人しく雛を離してやってくれ。じゃないと、俺にも考えがある」
声を張って告げると、雛……の体に入った虚白は、ハッと笑い声をあげた。
「随分と上から物を言ってくれんな。お前、いつの間にか随分と偉くなったもんだよなあ。いつも俺の陰に隠れて、震えてたくせによ」
虚白が、わざと俺を煽るような物言いをしているのだということには、いい加減気が付いていた。
だって、あいつの目は、ずっと理性的な光を宿して、俺の様子を窺っているのだから。つくづく、冷静な男だと思う。
しかし、虚白はずっと、勘違いをしているようだ。それが、今の俺と、虚白の距離を明白にするようで、それがなんだか悲しいような、申し訳ないような感じがして、俺の喉をチクチクと刺激した。
「虚白……。俺は、お前の知っている俺とは、もう、別の俺なんだ」
「あ? お前、まさか本当に自分が偉くなったとでも言うつもりか? 俺を見下すつもりか?」
虚白の目がぎょろりと俺を睨みつける。それに対して、俺は目を伏せて、首を横に振った。
「違う……。違うんだよ。全然、そうじゃないんだ」
どうやら、虚白は俺の言うことを、まともに取り合ってくれる気はないようだ。その様子を見て、俺はそっと右手を上げる。
すると、その仕草に応える様に、背後から明石屋の住人たちが姿を現した。できれば、話し合いで解決したいという俺の意思を汲んでくれた彼らには、感謝してもしきれない。
虚白は、現れた面々を視界に収めると、目を見開いて驚愕した。
ああ、やっぱり、そうなんだな。
虚白は、俺が誰かに頼る、という行為をする可能性を、全く考えていなかったのだろう。完全に、俺がひとりで来るものだと、思い込んでいたのだ。
バカだな、虚白……。連れ去られたのは、雛なんだ。俺が何かを言うより先に、助けの手が伸びてくるに決まっているのに。ああ、そうじゃないのか。誰かが来ようとしても、俺がついては来させないと踏んでいたのか。
確かに、以前の俺なら、そうしていたのかもしれない。虚白が、裏切りや情報漏洩を恐れて、たったひとりでここに居るみたいに。虚白以外の、誰の事も信じられずに、ひとりで。賢い虚白ならば、気が付かない筈がないのに。
俺が虚白以外を信用しないはずだという思い込み。それから、俺にとって今大切なのは、雛だけだっていう思い込み。その二つの思い込みが、あまりに激しく、重すぎたのだろうか。
「決着は、柚希さんがつけたいんですよね」
太郎が、穏やかな声で言いながら、拳を鳴らした。それに頷くと、太郎は駆け出し、虚白に向かって凄まじい速度で迫っていく。
それと同時に、珍しく大人しい様子のいつきが、そっと口を開いた。
「その体から……」
けれど、いつきが言い切るより先に、虚白は突然咆哮した。言葉がそれによってはじかれて、いつきが舌打ちをこぼす。
けれど、すぐ側には太郎が詰めてきている。虚白は、後ろに大きく飛びのこうとして……ニヤリと笑った。
「この体に傷はつけられねえだろ!」
挑むような態度の虚白に、しかし太郎は慌てた様子がない。そのまま距離を詰めて、それから優しく、指先でトンと額を押した。
「は?」
虚白の口から声が漏れ出て……すぐに雛の体が崩れ落ちた。太郎は、慌てた様子もなく雛を抱きかかえて、すぐにこちらに向かって歩いてきた。
「こちらの用事は終わりました。柚希さん、どうぞ」
余裕そうな歩みを見せる太郎の背後で、元の体に戻った虚白が、顔を片手で覆いながら、肘をついた。立ち上がろうとしているようだ。
「何故だ……何故こんな……! 縊鬼の声は、届かなければ何ということはないはずでは!」
不可解そうな様子の虚白に、名前を出されたひと……いつきが、やれやれと首を横に振った。
「今のは、僕の力ではないからねえ。単純な話、澄子からもらったお札の力だよ。キミ、あまり綾部家とあやかしものとの繋がりを、舐めない方が良い。キミのあずかり知らないような、希少な能力を持つ者との繋がりだって、彼らは保持しているんだよ」
そう。これは、以前おとりとして使われたとかいう時に、雛が持たされていた札を使ったのだ。その証拠に、太郎の腕の中にいる雛の額には、札が張りつけられていて、彼女の顔を隠していた。その姿は、何かの本で読んだキョンシーとかいう外来物の同族みたいだ。
虚白は、ギリギリと歯を噛み締めながら、真っすぐに俺を睨みつけていた。俺はそれを、じっと見つめ返す。
侑李が、「頑張んなさい」とでも言うように、ポンと俺の背中を叩いた。




