第42話 始まりの合図
事が起こったのは、すっかり寝入ってしまっていた深夜だった。意識が覚醒したのは、どおんという大きな音に驚いての事だった。
「な、何⁉︎」
固い床に転がされていたせいで、すっかり痛んでしまった体を無理やり起こそうとして、失敗する。直ぐに、そうだ、縛られていたんだと思い出して、なんとか顔だけを持ち上げた。
どうやら扉が蹴破られたようだ。舞い上がる埃の下に、ポツリと役目を終えたドアが悲し気に佇んでいる。流石にこの埃の量には、頑丈な私の呼吸器系も耐え切れず、せき込みながら涙目で、じっと扉のあった場所に目を凝らした。
舞い上がった煙が覆い隠していた姿が、徐々に明らかになっていく。
そこには、随分と久しぶりに目にした気がする、柚希の姿があった。
「柚希!」
自分でも、随分と明るい声が出たなと思った。私の声に反応した柚希が、こちらを向く。目が合うと、ぱっと表情を柔らかくした。その顔を見て、心配してくれていたのだな、と胸が温かくなるのを感じた。
「おいおい、随分と遅かったな?」
黙って扉のあった方向を見据えていた虚白が、鼻を鳴らす。それに反応して、柚希は緩んでいた表情をきゅっと引き締めた。
「……虚白、こいつに何かしたのか?」
警戒を露わにする柚希だったが、虚白は飄々とした態度を崩さない。薄らと口元に笑みを湛えながら、彼は嘲るように首を振った。
「少し見ねえ間に、お前も随分な態度を取るようになったなあ? お前、俺に恩があるんだと、その口で言ってたじゃねえか。もう忘れたのか?」
「……その気持ちが、全くないと言ってしまえば、嘘になる。だって、虚白が俺を利用していたんだとしても、俺を救ってくれたことは、変わらない。それに、俺は虚白と過ごした日々の全部が嘘だとは、どうしても思えない」
目を伏せる柚希のまつ毛が、月の光を浴びて淡く光る。その姿は、見ている物の胸を締め付けるような、幻想的で悲しい美しさを湛えていた。
けれど、虚白にとってはそんなことは、関係ないらしい。彼は、ハン、とどうでも良さそうに鼻を鳴らすと、冷めきった目を柚希に向ける。
「相変わらず盲目的で、クソみたいに甘い奴だ。俺はな、お前のそういうところが、死ぬほど嫌いだったんだよ。わかるか?」
凍てついた視線に晒される柚希に、心配が募るが、予想に反して彼は随分と落ち着いた様子で、真っすぐに虚白を見つめていた。
「虚白が俺を嫌いなのだとしても、仕方がないことだと思う。でも、それにあいつは関係ない。俺と虚白の問題に、雛を巻き込まないでやって欲しい」
静謐さを湛えた柚希の声に、私は思い切り首を振りたいような心地になっていた。
違う、それは違うよ。柚希。私は、寧ろ巻き込まれたいの。だって私たちは、家族なんだから。同じ家に帰りたいと、そう願っているのだから。
喉が詰まって、思う様に声が出せない。けれど、この想いが伝わりますようにと願いを込めて、私は首を横に振った。多分、縋るような目を向けてしまっていたと思う。
「コイツは、お前とは違う意見みたいだなあ? じゃ、望み通り巻き込んでやろうや」
虚白の腕が、私の胸元を掴んで、強引に引っ張り上げる。文句を言う間もなく、無理やり立たされた私は、そのまま虚白の腕の中に捕らえられた。
「雛!」
柚希が鋭い声で私の名を呼ぶ。こちらに駆け寄ろうとした柚希を、虚白が手を前に出して制した。
「おっと、それ以上近づくなよ。近寄ればこの女を殺す」
直接的な言葉に、背筋がぞわりと粟立つ。柚希も、足を止めて虚白を睨みつけた。
「よし、よし。……じゃあ、交渉といこうか? といっても、俺の要求はわかるよなあ。……帰って来い、七番。お前の存在意義は、俺に使われることだ」
すぐそばにいる虚白を睨みつける。私は眼中にないようで、一向にこちらに視線を向ける様子はない。
「貴方は……!」
最近の私は、本当に我慢が効かない。虚白に噛みつこうと口を開いたけれど、それを遮るように、柚希が小さく首を横に振った。
「……行かない」
「ほお? お前は、恩のある俺も、そしてこの女も、裏切るということか。結局は自分のことが一番可愛いと、そういうことか」
「そういうことじゃない。虚白、本当はわかってるんだろ」
怖いほど真摯な目をする柚希に、虚白も真っすぐに瞳を向けられないようだった。へらへらと薄ら笑いを浮かべたまま、わからない、と言う様に首を軽く振る。
「……俺にとっては、虚白も雛も、大事な人だ。どっちかなんて選べないし、選ぶ必要もないってことを、俺はもう知ってる。だから……!」
「はっ! 御託はもういい! 結局、力づくで従わせるしかねえってこったな!」
吐き捨てるように叫んだ虚白が、ぐっと腕に力を籠める。必然、彼の腕の中にいる私の首に圧力がかかり……うっと息を吐き出す。すると、虚白はそんな私に目を遣って、何故か私を縛った縄を切った。えっと声を出したと同時に、意識がぼんやりと遠くに飛んでいくのがわかった。
霞がかった意識の中で、私は口を開く。
「……さて、それじゃあ、始めようか」




