第40話 呼び出し
目を覚ますと、ニッコリと笑う男性と目が合った。自分の視界に対して、その人は九十度回転しているように見える。直ぐに、それが虚白そのひとだとわかって、私はその場に立ち上がろうとし……自分が縛られていることに気が付いた。
視界がねじれていると思ったのは、地面に横に転がされているせいだ。
どうやら、どこかの廃墟に連れ込まれたようで、随分と埃臭い。私がアレルギー持ちだったら、鼻水が止まらなくなっていたことだろう。
私は、自分が置かれた状況に気が付くと、途端に恐ろしくなってしまった。
狙われることもあるかもしれない、とは言われていたけど……。どこかで、そんなことがあるはずがないと、思っていたのかもしれない。どうして、人間というのは、自分は大丈夫だなんて、慢心してしまうのだろう。
「お前、七番に何したわけ?」
首を傾げた虚白が、心底不思議そうな顔をして、そう尋ねてきた。目を覚ましたばかりの人間に対して、不躾なものである。
「……ですから、前にも言った通り、私は柚希に何もしていません」
以前も問われた内容に、内心うんざりしながら答える。
しかし、私の回答に、虚白は納得してくれないようだ。彼は、顔を顰めて苛立ったように貧乏ゆすりをした。
「そんなわけねーだろ。七番には、俺が随分よくしてやったんだ。誰よりも俺に懐いていた。従順だった。奴の幸福の有無は、俺によって決定されていた。俺が死ねと言
ったら、死ぬような奴だったはずなんだ」
私はむっとしたが、冷静であるよう自分に言い聞かせる。
いけない、いけない。またヒートアップしてしまうところだった。自分でも、感情の起伏が乏しいタイプだと思っていたのに。近頃は、感情のコントロールが効かなくて、困る。
「……柚希は、自分で自分の幸せが何か、もう、ちゃんとわかっています」
「それだ」
「え?」
急に指をさされて、戸惑う。虚白は、糸目を見開いていた。
「その、柚希ってのは、何だ。もしかして、七番の名か?」
「そ、そうですけど……」
虚白の迫力に驚いて、どもりながら答える。彼は、舌打ちを零すと、乱暴に地面を蹴った。ダアン、という音に怯えて、私は目を瞑る。
何をそんなに苛立つことがあるんだろうか。
「お前、勝手に七番を変えたな? 俺の育てた都合の良い人形から、俺の知らない生き物に変えやがったな?」
虚白のその言葉に、私はあっけに取られてしまった。
このひとは、一体、どういうつもりなんだろうか。
「……勝手にって、何なんですか? 柚希と貴方は、別の人だし、柚希は貴方の所有物ではありません」
鼻息が荒くなっている自覚はあった。虚白は、不快そうに眉を吊り上げたけれど、こちらに手を出すことはなく、再び地面を蹴った。再び大きな音が鳴る。
ここまできてわかったけど……このひと、どうやら私に手を上げる気はないみたい。
先ほどから、虚白の神経にさわるような物言いをしてしまっている自覚は、正直あった。
けれど、虚白は苛立った様子を露わにしながらも、それを私に向けようとはしていないのだ。
「あの、一体何のために、私を連れてきたんですか?」
思い切って、気になっていたことを尋ねる。少なくとも、殴られることはなさそうだと判断して、少し余裕が出てきていた。
虚白はああ、と軽く頷いて、部屋の隅の方に歩いて行く。戻ってきた手には、私のカバンがあった。
「七番を呼び出せ」
「どうしてですか?」
「うるせえな。黙って電話しろ」
黙って電話とは、どうやって意思疎通をすればいいのやら。
内心そう思って鼻白んだけれど、それを口にすれば怒らせそうだ。
「あの、手が使えないと、電話を掛けられないんですけど」
縛られている手をアピールすると、虚白は舌打ちをしてから、ロープを外してくれた。案外、逃げ出せるのではないかと思ったが、ここがどこなのかわからない。
柚希を呼び出せと言うのならば、呼びつけるときの話の内容から、場所のヒントが掴めるかもしれない。取りあえずは、大人しく電話をした方がいいだろう。
柚希は勿論携帯電話を持っていないので、家の電話にかけるしかない。誰が出るにしても、助けを求めることは可能だろう。
結構ガバガバな計画?
虚白を見上げながらそんなことを思った。
電話には、侑李さんが出た。
「はい、綾部の家ですー……誰に御用ですか?」
侑李さんの敬語に新鮮味を感じながら、私は口を開いた。
「ゆ、侑李さん。あの、私です。雛です」
「あら、雛ちゃん。どうしたの?」
「あの実は、虚白に連れ去られてしまって……。今、自分がどこにいるか把握していないんです」
「へ?」
侑李さんは、素っ頓狂な声をあげた。
それも、そうだよね。私だって、こんな電話受けたら、何の冗談だって思うもんね。
チラリと虚白に目を遣ると、特に何かを言う気配はない。連れ去られたことを住民たちに言っても、構わないようだ。
何なんだろう、この自信……。
底知れなく感じて、恐ろしい。
「それで、柚希を呼び出すように言われて……」
「そうなのね。……大丈夫、雛ちゃんがそんな冗談を言うような子じゃないって、わかってるわ。きっと助けに行くから、安心してね」
電話口の向こうで、侑李さんがウインクをしている気がする。侑李さんの普段通りの態度に、私は自ずと肩に入っていた力が、ふっと抜けるのを感じた。
ガタットントントン。
微かにそんな音が聞こえた後に、柚希の声がした。
「……どこにいる?」
簡潔なその言葉に応えようとして、その答えを私自身知らないことに気が付いた。虚白に視線を向けると、彼もそのことに気が付いたのだろうか。
くいくいと人差し指を動かして、携帯を渡すように要求された。逆らったところで他にできることもないので、大人しく渡す。
「……よう。……おーおー、おもったより随分元気そうだなあ? 俺たちは今、廃墟にいる。ヒントはこれで十分だろう。俺の気配を辿って来い」
それだけ言うと、虚白は私に携帯を投げて寄越した。
……ノーヒントと変わりないじゃないか!
この電話内容で、逃げ出すために必要な情報が得られるのでは、という私の希望は、あっさりと打ち砕かれてしまった。頭を抱えたい気分になりながら、私は再び電話に出る。
「柚希? ごめんなさい、油断してたみたいで……」
今更ながら、現状に対しての謝罪を口にすると、柚希は直ぐに「ううん」と言ってくれた。
「お前は何も悪くない。俺が、大人しく帰っていれば、こんな目に遭うこともなかった」
「そんな……!」
普段より一段下がったトーンが、柚希の感情を如実に伝えているようだ。
けれど、そんな風に言わないでほしかった。だって、私だって、柚希に帰らないで欲しいと願っていたのだから。
「それなら、柚希。……迎えてきてください。それで、皆で一緒に、帰りましょう」
慰めの言葉も、憤りの感情も、今この場には、相応しくないような気がした。だから私は、柚希にそう語りかける。結局、私はあの綾部の家で、彼となんでもない話がしたいだけなのだ。
その気持ちが、伝わったのだろうか。
「……一緒に、飯を食おう」
柚希はそれだけ言って、電話を切った。
思った以上に短いやり取りに、虚白は面白そうな顔をして、笑う。
「お前、意外と簡単に奴を呼び出したじゃないか。やっぱり、結局自分が一番可愛いわけか」
私はそれに、返事をしなかった。言っても無駄な気がしたのだ。
だって、このひとは……柚希が大切にした時間を、なかったことにできてしまうひとなのだから。わからないのだ。私が、必ず明石屋のひとたちが、必ず助けてくれると信じていることを。
私も柚希も、決して一人ではないと、知っているのだということを。




