第38話 どう生きる?
柚希は、会議が終わっても、一言も発さなかった。
私も、なんと声をかければいいのか分からず、柚希に向かって手を伸ばしたり、引っ込めたりを繰り返す。無言で階段を上っていく柚希の背中を見送って、私はうなだれた。
私も、誰かと話す気になれなくて、早々に自室に引き上げた。
部屋の中で、静寂に包まれていると、色々な考えが頭の中をぐるぐると回る。まるで、脳内で勝手に映像を再生されているような気分だ。
柚希が来てから、あまりにもいろんなことが起きすぎた。
「柚希は、大切な家族だと思っていたひとに、裏切られたんだ……。それって、どんな気持ちなんだろう。どんな声をかけたら、いいんだろう……」
そう思いながら、目を瞑る。すると、脳裏に、以前の育ての親の姿が思い浮かんだ。優しい表情の、あのひとの姿が。それから、今日見た、澄子さんの美しい、優しい瞳を思い出す。
私は、立ち上がり、衝動のまま柚希の部屋へと向かった。
「柚希、入りますね」
強引に部屋に入ると、柚希は目を見開いて私を迎え入れた。それに対して、微笑みかけながら、私は彼のすぐ横に腰を下ろした。それから、彼の手に、自分の手をそっと重ねた。
無言のまま手を重ねる私に、柚希は不思議そうな顔をしている。
彼に対して、なんという言葉をかければいいのか、私はまだ考え付いてはいなかった。
けれど、澄子さんが温かく私を見守ってくれていたように、私も柚希に、ぬくもりを与えてあげたかった。
それが、物理的手段であることに、我ながら呆れるけれど。
ひたすら無言で寄り添う私に、柚希はやがて慣れたのか、こちらを向くことをやめた。けれど、そっと握り返してくれた手から、言葉で表せない何かが伝わったような気がした。
暫くそうしていると、不意に、柚希と隣り合わせた方の肩が、ズシリと重くなった。見ると、柚希が私の肩に、頭を乗せたようだ。
甘えてる……のかな?
そう思うと、何だか可愛く思えて、私は柚希の手と重ね合わせたのは反対の手で、彼の頭をそろそろと撫でた。抵抗されるかと思ったけれど、大人しく頭を撫でさせてくれた。
「雛……」
小さな声で、柚希が私の名を呼んだ。それは、ここに来て初めて、彼が私の名前を呼んでくれた瞬間だった。
内心ドキドキしながらも、私は平然を装って返事をした。
「なんですか?」
尋ねると、柚希は再び黙り込んでしまった。部屋に沈黙が流れる。
急かすような真似はしたくなくて、私は黙ってゆっくりと柚希の髪を撫でる。この髪も、侑李さんのお手入れの甲斐もあって、随分とサラサラになった。
触り心地が良くて、ついつい触りたくなっちゃうな……。
そんな風に、一人で楽しんでいると、柚希が再び私の名前を呼んだ。
もう一度どうしたのかと尋ねると、今度は上目でこちらをうかがう目と視線が合った。それに対して、安心させるように微笑みかけると、柚希は体から力を抜いたようで、少しだけ肩の重みが増した。
「……俺は、俺にとって、生きている意味は、虚白だった。生きていて幸せだと思った時も、楽しいと思った時も、隣には虚白がいた。あいつが側にいてくれたから、俺は苦しくても、辛くても、明日がくることに耐えられたんだ」
耳元で語る柚希の声が、今にも途切れそうなほど弱弱しく響く。それが可哀想で、守ってあげたくて、私は重ね合わせた手をぎゅっと握り込んだ。
「それなのに……俺は、どうすればいい? 俺は一体、何のために……どうやって、生きていけばいい?」
それは、泣き声をあげているみたいな、痛々しい吐露だった。小さな、消え入りそうな声が、余計に憐れみを誘った。
私は、柚希の言葉を聞きながら、彼の感情に深く共感していた。
親という存在は、子供にとって世界の全てだ。そこから、様々なひととの繋がりを得て、見識を広げることによって、世界を広げていく。
けれど、柚希の世界は、広がることがなかった。親代わりの虚白と、自分を苦しめる元主だけで、世界が完結してしまった。
かくいう私も、二度親に捨てられたことによって、「今の親」に対する執着が激しくなった。
彼女たちに、今度こそ捨てられたくない、という思いは、自分自身の視野を狭めて、世界を広げることを自ら拒絶させた。
だからこそ、自分の幸福を、親代わりとなってくれたひとと、どうしても繋げて考えてしまうのだ。
だって、自分の幸せだった瞬間は、そのひとの側にしかなかったから。
「……柚希とは、少し状況が違いますけど……。何となく、貴方の気持ちがわかる気がします。私も、今の両親に報いることだけを考えて、生きてきましたから……。それが取り上げられてしまったら、これから先どうやって生きればいいのか、私も分からなくなると思います」
そっと囁くと、柚希は私の肩から頭を上げて、私の顔をじっと見つめてきた。それは、何かに救いを求めるような、縋りつくような眼差しだった。多分、私の中に答えを見出そうとしているのだろう。
「もし……もし、雛が澄子たちをなくしたら、どうする? お前ならその後を、どうやって生きる? それとも……」
柚希が飲み込んだ言葉の先は、想像に難くなかった。恐らくは、死んだ方が幸せなのでは、と、そう尋ねたかったのだろう。
でも、私にそれを想像させるのが忍びなくて、やめたんだろうな……。優しいひとだから。
「そう、ですね……私なら……」
言いながら、考えを巡らせる。自分の幸福について。澄子さんたちがいなくなって、それでも生きて行けるような何かが、果たして自分の中にあるのだろうかと。
だって、私は価値のない人間で、そんな私を愛してくれるのは、澄子さんたちみたいな、特別お人好しな、奇特な人たちだけで……。
けれど、そんな風に思考が暗い方向にいきかけた私の視界に、柚希の綺麗な髪が入った。その瞬間、髪から輝きが目に入り込んできたみたいに、頭かちかちかして、そして……。彼や、彼と関わったことで関りの増えた、明石屋の住民たちと過ごした記憶が照らし出された。
そうだ、柚希と花の話をするのが好きだった。
柚希の好物である、柚子を使った料理を作ってあげるのが好きだった。それを一緒に食べるのが好きだった。美味しいって笑って言ってくれる顔を見るのが好きだった。
侑李さんやいつきさん、太郎さんが、茶化したり呆れたりしながら一緒に食べてくれたご飯が、特別美味しかった。
柚希を探して家を飛び出した私を、皆で探しに来てくれたのが嬉しかった。
普段は穏やかで優しい太郎さんが、私の為に戦ってくれて、ありがたかった。
いつきさんが、初めて私に笑いかけてくれて嬉しかった。
侑李さんが、ぷりぷり怒りながら柚希の髪を手入れしてくれるのを、横で手助けする時間が、得難いと感じていた。
ああ、何だ、私……。自分で気付かない間に、こんなにも……。
「柚希、私は……私はずっと、ここに居たいです。この明石屋で、ずっと……綾部の両親や、侑李さんや、太郎さん、いつきさん。それに……貴方と。一緒に過ごしていきたいです。だって、毎日一緒にご飯が食べたいから。貴方たちと一緒に過ごす何でもない毎日が、とても好きだから」
まあ、いつきさんは、澄子さんがいない明石屋になんて、用はないんでしょうけどね。
苦笑してそう付け足しながら頬を掻くと、柚希は目を見開いて、私をじっと見つめていた。その頬が、段々と綻んで、やがて彼は破顔した。
「俺も、ここでお前と過ごすのは、好きだった」
私はその顔を見て、胸が温かくなるのを感じた。
ほら、一緒にいれば、こんな風に簡単に幸せになれてしまうのだ。




