第36話 一時撤退
「滑稽だよなあ。一切疑わずに、寧ろお守りだと思って自分を縛っていたわけだ。俺は、お前がそれを大事そうに度に、おかしくておかしくて」
ひゃははは、と虚白は腹を抱えて笑い声を上げる。それ、と言いながら虚白は、左手首をトントンと叩いていた。それはつまり――柚希のつけている、腕輪を指していた。
私は、背筋に怖気が走るのを感じた。目の前にいるこのひとが、全く理解できなかった。
人間は、自分の理解の及ばないものを目にすると、本能的に恐怖するものだと、何かの本で読んだことはあった。
けれど、それが事実であると知ったのは、この時だった。
このひとは、確かにあやかしだ。けれど、人間だとか、あやかしだとかじゃない。このひとからは、情というものを感じ取ることができない。
呆然とした表情を浮かべていた柚希の顔が、段々と歪んでいく。それでも彼は、信じられないと首を横に振った。
「だって……だって、虚白は俺が逃げ出そうとした時も、手伝ってくれた……。俺の為に、危ない橋を渡ってくれた……」
「ひゃはははは! お前、まだそんなの信じてたのかよ! っていうか、計画がバレた時点で普通気付くだろうがよお! 俺がお前を売ったんだって! だって、お前と計画を練ったのは、他でもないこの俺なんだからよお! 直ぐに連れ戻されると高を括ってたら、運よく逃げ出されたのは計算外だったが、ま、俺が連れもどせば結局かわんねえだろ」
ひゃははははは、と虚白は空高くまで響くような声で笑った。
何が、そんなに面白いんだろう。このひとは、何が楽しくてこんな風に笑っているんだろう。わからない。何も、理解できない。
ひたすらそんなことを考えていた。
柚希は、目を見開いた状態のまま、固まっていた。まるで、石像みたいに。柚希の周りだけ、時間が止まってしまったように、ピタリと全身の動きを止めていた。
ああ、柚希。こんなの聞かないでほしい。貴方は何にも悪くないのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
私は柚希に向かって手を伸ばす。
けれど、触れてしまえば、柚希が壊れてしまう気がして、彼にたどりつけずに、空を切るばかりだった。
「お前のおかげで、大分いい思いさせてもらったよ。あれはバカな女だからな。どちらが犬神で、どちらが狛犬なのかも理解していない。そのくせ、犬神は汚らわしく、狛犬は高潔な生き物であるという先入観を持っていたからな。入れ替わりは絶大な効果を発揮したよ」
「……入れ替わり?」
「それも気づいてなかったのか。本当に救いようのない愚図だな。お前の力を押さえることによって、俺の方が力を持っているように見せかけたんだよ。そうして、俺が狛犬であると名乗り、お前は犬神であると申告した。……ああ、もしかして、自分が犬神だって、本当に信じてたのか?」
ぺらぺらと良く動く虚白の口を、今すぐ縫い付けてしまいたくなった。
どんなに強く睨みつけても、虚白の口は嘲笑を止めない。
「……虚白は、俺を助けてくれた。いつも俺の味方になってくれた。だから俺は、どれだけあの女に殴られても、死んだ方がマシなんじゃないかと思っても、今日まで生きてこられた。お前がいたから……!」
胸元を掴んだ柚希の、魂の叫び声が響く。聞いているだけで、涙が出そうになるくらい、切実な響きだった。
しかし、虚白の顔は、嘲笑から、侮蔑に変わっただけだった。
「はあ? お前、話聞いてた? だから、そういうポーズなんだって。つーかさ、もうお前の機嫌取りするの、うんざりなんだわ。俺に恩があるって言うなら、大人しく一生俺の人形として、糧になれよ」
いっそ清々しいほど身勝手な話に、頬がカッと熱を持つのを感じた。
「黙って聞いていれば……! 貴方、一体何様のつもりなんですか! 貴方のところなんかに、柚希は絶対に戻しません! 柚希はもう、家の……綾部家の子なんですから!」
生まれて初めて、ひとに啖呵を切った。妙に心臓がどきどきいって、指先まで血が流れているのを感じた。
「何だ、お前?」
虚白に視線が、その時初めてこちらを向いた。今の今まで、存在に気が付いていなかったとでもいうようなその仕草に、私はドキリとした。
「……柚希の、家族です」
声が震えてしまったが、それでも何とか言い切ることができた。
「……お前か?」
ぐっと、虚白が顔を近づけてきた。ごく至近距離にある顔に驚き、私は飛びのく。
目が、目がぶつかるかと思った……!
直ぐ近くで見た虚白の目が、恐ろしかった。あの色のない目で見られると、体の芯から冷えていくような心地がした。
「お前が、七番を勝手に変えたのか?」
虚白の物言いに、言いようのない違和感を覚える。
まるで、柚希が自分の持ち物みたいな言い方……。
私はカチンとして、大きく口を開く。
「柚希が変わったのだとしたら、それは柚希本人の意思です。私は何もしていません」
虚白は、目を見開いたまま、私の首を片手で掴んだ。柚希に取り憑いていた時にされたのに続き、またしても首を掴まれてしまった。前回首を絞められた時の、あの苦しみを思い出し、一瞬にして全身から汗が噴き出すのを感じた。
「お前……よく見たらあの時の、俺の邪魔をした女だな?」
虚白の目がギラリと光って、初めてその目に感情が宿ったような気がした。
ひゅっと息を呑んだ瞬間に、首を掴む手に力がこもり始めて、私は恐怖に目を瞑った。
「やめろ!」
柚希の声が響いて、地面に体が打ち付けられた。その衝撃に舌を噛みそうになりかける。一体何が起こったのかと目を開けると、どうやら柚希が虚白に体当たりをしたようで、二人が縺れ合いながら、地面に倒れ込んでいるのが見えた。
「柚希!」
すぐさま立ち上がり、柚希の手を引いて立たせる。そうして、すぐさま虚白から距離を取らせた。
虚白の様子を少し離れた位置から観察していると、彼は地面に転がったまま、すっと自分の右手で顔を覆った。
流石に、柚希に体当たりされたのは、堪えたのかな……。
そんな風に思って、少しだけ同情心が湧いてくる。
しかし、虚白の口から漏れ出たのは、悲しみの声ではなく、笑い声だった。最初は小さかったその笑い声は、徐々に徐々に、輪をかけていくように、大きくなっていく。その尋常でない様子には、恐怖心を抱かざるを得なかった。
「そうか……お前、もう俺の手の中から、出ていくつもりなんだな……?」
虚白の呟きに、背筋が粟立つ。何かが決定的に変わった気がして、私はぐっと腹に力を入れた。
「皆さん!」
私の声に反応して、隠れていた住人たちが、虚白を取り囲むように飛び出してくる。ぎょっとした顔をした虚白が起き上がることには、すっかり包囲が完了していた。
そう、これこそが、いつきさんの提案だったのだ。その内容は、私と柚希がおとりになって、虚白をおびき出し、その真意を尋ねるというシンプルなもの。
ただし、私はあらかじめ、ひとに憑いた霊体を引きはがすお札を持たされていたし、こっそり住民たちが付いてきてくれることになっていた。まさか、こんなにうまくいくとは思っていなかったけれど。
自分を取り囲む面々の顔を見回すと、虚白は冷静な声を出した。
「これは、分が悪そうだな……。今回は、これで失礼する」
その言葉と共に、虚白は地面に何かを投げつける。すると、地面から煙がもくもくと溢れてきて、それに溶ける様に、彼は姿を消した。




