第3話 何のためにここにいる?
「それは……あの……」
「キミだってもう大学生だろう。バイトだってなんだってして、ここを出ることだって出来るはずだ。なのに、何でキミはずっとここにいるワケ? 澄子たちにいつまで甘えているつもり?」
「私……私は……!」
「さあ、今すぐここを出るんだ。部屋に戻ったら荷物をまとめて、さっさと出ていっ……!」
ゴン、と漫画みたいな音がした。侑李さんが、いつきさんの頭に拳骨を落とした音だった。いつきさんの端正な顔が歪む。
……ちょっといい気味だとか思って、ごめんなさい。
「ごめんなさいねえ、雛ちゃん。いつもの発作よ。コイツ、未だに澄子ちゃんを、雛ちゃんに取られたと思ってるのよ。ガキよねえ」
おほほ、と口元に手を当て上品に笑いながら、侑李さんの手は容赦なくいつきさんの背中を叩く。バシ、バシと小気味よい音が鳴った。
痛っ、とか、おいっとか、いつきさんが声を上げるけれど、侑李さんはどこ吹く風だ。
止めたほうが良いのかと悩んでいると、少しだけ涙目になったいつきさんが、顔をあげて侑李さんを睨みつけた。
「痛いだろ! この暴力オカマ!」
「オカマじゃないわよオネエよ! アンタ口には気を付けなさい!」
恐ろしい目つきで睨みつける侑李さんに、いつきさんは不満そうな表情を浮かべながらも黙り込んだ。攻撃的なところのあるいつきさんからしても、侑李さんは頭が上がらない存在のようだ。
確かに、侑李さんが怒った時の剣幕は、横から見ているだけの私からしても、恐ろしい。
不服そうないつきさんの様子を見て、侑李さんは大きくため息を吐く。それから私の方を向いて、気遣うように微笑んだ。
「ごめんなさいね。この子も本当は悪い子じゃないのよ。わかってもらえるかしら?」
眉を下げる彼に、首を横に振ることなどできようか。
そもそも、侑李さんは何も悪くないのに、わざわざ謝罪までしてもらっているのだから。これで首を横に振るのは、あまりにも子供過ぎるだろう。
私は、慌てて首を上下に動かした。
「勿論です。いつきさんは、本能に忠実なところがある、ってことですよね」
誤解を招くような言い回しをしてしまった気がする。けれど、それに関しては、いつきさんも侑李さんも、特に気にしてはいないようだ。むしろ、侑李さんは同調するように頷いてくれた。
「こちらにいると決めているんなら、もっと理性的であるべきなんだけどね……」
はあ、と再び大きなため息を吐きながら、侑李さんは頬に手を当てる。そのまま、目を尖らせていつきさんに視線を向けた。しかし、彼は既に気分を切り替えたようで、澄子さんの淹れたお茶を涼し気な顔で飲むばかりだ。
「ったく……」
「あの、私は大丈夫なので……気にしないでください。いつものことですし……」
「ああん、雛ちゃんったら優しいんだから! でも、これがいつもの事なのがどちらかというと問題なのよ!」
体をくねくねさせながら、侑李さんが瞳を潤ませる。
「本当に、大丈夫なので……。あの、課題があるので、これで失礼しますね」
私はじりじりと後ずさりながら、両手を振る。侑李さんの気遣いはありがたいのだが、できるだけ早く自分の部屋に引き上げたい気持ちが強すぎて、ちょっと余計なお世話だ。それに、話を切り上げたくて出した話ではあるが、課題があるというのは嘘ではない。
「あら、そうなの。引き留めてごめんさないね」
眉を下げながら、そう謝罪してくる侑李さんに申し訳ない気持ちになる。けれど、心を鬼にして、私は早々に居間からお暇することにした。
住人たちの輪から抜け出し、階段を駆け上がって、自分の部屋に逃げ込む。襖を閉めると、やっと詰めていた息を吐き出すことができた。
落ち着いたら、先程いつきさんから放たれた言葉が、ぐるぐると頭の中を回りだした。気にしないように、とは思っても、彼の言葉には力があった。
「何のためにここにいるの、か……」
私は、ぎゅっと瞼を閉じる。それから、そっと目を開き、視線を落として自分の両手を視界に入れた。何の力もない、無力な手だ。ぎゅっと握りこむと、爪が手のひらに食い込んで、鈍く痛んだ。
痛みを感じると……澄子さんに初めて会った時のことを思い出す。
澄子さんは、私の実の母親ではない。もう十五年以上前の話になるが、私は高熱を出し、全身傷だらけになった状態のまま明石屋に運び込まれたらしい。
その時のことは、高熱も相まってよく覚えてはいない。覚えているのは、とにかく体が痛かったこと。そして、高熱に苦しむ私の頭をなでてくれる、澄子さんの手が優しくて温かかったことだけだ。そうして、私をここに運び込んだひとは、私の熱が下がる頃には姿を消していた。私は、捨てられたのだ。
寄る辺のなくなった私を、澄子さんと彼女の旦那さんは、養子として迎え入れ、育ててくれた。育てた親に捨てられるような子供を、綾部家の人たちは、受け入れてくれたのだ。
だからこそ、報いなければならない、と思う。
捨てられた私を、この年になるまで、血縁もなしに育ててくれた今の両親に、報いねばならぬと。そのためには、ここの……明石屋の手伝いをするのが、最も簡単な恩返しになるということは、よくわかっていた。普通なら、私もそうしていたと思う。
けれど、それには一つだけ、大きな問題があったのだ。そしてそれこそが、明石屋が「ちょっとだけ変わった民宿である」とされる所以。
それは……明石屋に住まう住人たちが、人間ではないということ。彼らは……あやかしなのだ。人間とは全く別の、生き物。
そう、明石屋は、あやかしの住まう民宿なのだ。しかし、民宿を営む綾部の人々は、人間である。つまり、明石屋とは……あやかしと人との交わる、特異な場所なのだ。
そして私は、綾部家の人たちに引き取られた、あやかしと関わり合うことを恐れる、ちっぽけな人間だった。