第27話 最大の賛辞
「――雛ちゃん!」
薄れゆく世界の中で、妙にはっきりと侑李さんの声が聞こえた。
「っは! ……はあっ、はあっ!」
久しぶりに、思うままに空気を吸うことが叶った。
柚希の手が、私の喉から外れたのだ。私は、涙でぼやけた視界で、明石屋の住人たちの背中を捉える。気が付けば、いつきさんと太郎さんが、私を守るように私と柚希との間に立っていたのだ。
私は、侑李さんの腕の中にいた。恐らく、柚希の手から、侑李さんが引きはがしてくれたのだろう。
「ケホッ……。ゆ、侑李さん……」
「雛ちゃん、大丈夫? 家を慌てて飛び出していったあと、中々帰ってこないから、皆で探したのよ。……最終的には、ちょっといろいろ裏技使っちゃったんだけど」
「ありがとうございます……」
様子のおかしかった私を心配してくれたらしい。こんなふうに力になってくれるひとがいるというのに、さっきまで、それすら忘れてあやかしを恨んでいた自分が恥ずかしくなって、目を伏せる。
けれど、その態度が弱っているように思われたのか、侑李さんは背中を撫でてくれた。それに心底安堵して、落ち着きを取り戻した私は、慌てて侑李さんに縋りついた。
「柚希の様子がおかしいんです!」
「それは、見たらわかるけど……」
「それだけじゃなくて、怪しい人影があって……! 柚希の中に、吸い込まれていったんです!」
侑李さんの服を掴んで、柚希を指さす。けれど、柚希とは既に、いつきさんと太郎さんが相対していた。
「犬っころの体から出て、僕たちに殺されろ」
かたい声で言い放たれた、いつきさんの言葉に従う様に、柚希の体からすうっと影が浮かび上がる。
けれど、影がそれ以上動かないのを見て、いつきさんは舌打ちをこぼし、再び口を開く。
「……首を括れ……」
いつきさんは、普段のマシンガントークの鳴りを潜ませて、ただそれだけを言った。
侑李さんが、「雛ちゃんは聞いちゃダメよ」と耳をふさいでくれたけれど、ちょっぴり遅かったようだ。つい先程まで、あんなにもがいていた苦しみに、自分から向かいたくなる。
首を……括らなきゃ……。約束、したもの……。
ぼんやりとそう考えていると、私の様子がおかしいことに気が付いた侑李さんが、軽く頬を叩いてきた。とは言っても、ぺちっという音がするくらいの、本当に軽いビンタだったのだけれど。
それにはっとして、私はぼやけていた意識を取り戻す。いけない、引きずられかけていた。
「ごめんなさいね……。でも、ダメよ雛ちゃん。ぼんやりしないで、惑わされないで」
「あ……。すみません、ついうっかり。でも、いつきさんの本気の甘言、久しぶりに浴びたので……」
私はもろに喰らってしまったけれど、やはりあやかしには効果が薄いのだろうか。
「ちっ……縊鬼か」
人影は、舌打ちこそしたが、私程影響を受けていないようだ。そのままいつきさんに肉薄してきて、今度はいつきさんの方が舌打ちを零す羽目になった。
「太郎!」
いつきさんは、叫びながら影を避ける。
すると、いつきさんの横にいた太郎さんが、飛び上がりながら両手を組んで、影に向かってハンマーのように振り下ろす。
影はそれを大きくジャンプして避けようとしているようだ。太郎さんは、勢いを殺さず、そのまま影に向かって手を振り下ろした。
ズガーン、という音がして、もくもくと土煙があがった。
土煙が消えると、残念そうな太郎さんの顔と、抉れた地面が姿を現した。
「この怪力、山男か……!」
影はそう言うと、じりじりと後ろに下がっていく。
「まさかキミ、逃げるつもり? 逃げるくらいなら、今すぐこの山から飛び降りたほうがいいんじゃない?」
いつきさんが声を上げる。けれど、影は空気に溶ける様に消えた。
「……アレ、実体じゃないね」
影が消えると、いつきさんは直ぐにそう言った。それから、土煙で汚れていた服を、ぱっぱと払った。
「実体がないから、僕の言葉に対する反応も猶更薄かったみたいだ」
「私の攻撃も、当たったはずなんですが、手ごたえが一切ありませんでした」
「見たところ、耳がここに生えていたし……犬のあやかしだろうね。実体がない犬のあやかし、そして、家にいた犬っころの豹変。状況を鑑みるに、あれは犬神だろう。恐らく、あの犬神に憑かれていたんだろう」
「犬神が犬神に憑くって……あり得るんですか?」
「さあ? でも、犬神自体が呪術のようなものだからね。しかも、今回見たヤツは実体を置いて来ていたし」
そういうこともあり得るのだろうか。
「あ、柚希は!」
大変なことが起きすぎて、うっかりしていた。
私は、侑李さんの手を借りて、震える足でなんとか立ち上がった。そして、地面に倒れている柚希に歩み寄る。
柚希は、完全に気絶しているようだ。月明かりを浴びて、柚希の白い顔が暗闇に浮かび上がる。顔色が悪いように感じる。
頬に触れると、夜風ですっかり冷えてしまったようだ。想像していた以上に冷たくて、驚いてしまった。
夏だとはいえ、まだ初夏だ。夜は冷えるし、早く家に連れて帰ってあげるべきだろう。
「太郎さん、柚希を運んでいただいて、いいですか?」
太郎さんの方を向くと、困惑したように頬を掻いている。どうしたのだろうか、と思ったけれど、尋ねる前にいつきさんがため息を吐いた。
「あのさあ、キミ……。さっきこの犬っころに殺されかけてたよねえ。それなのに、どうして当然みたいに家に連れて帰ろうとするわけさ」
「だって……。あれは、柚希の意思でしたことではないみたいですし……」
「彼の意思じゃないにしても、あの犬神は恐らくその犬っころを狙って来ていたよ。マーキングされているみたいだし。それなら、何度でもまた来るよ。その度に危険な目に遭うかもしれない。キミはまだしも、澄子を危険な目に遭わせようとするならば、黙っていられないよ」
いつきさんの目は、真剣だった。けれど、珍しくその目は怒りに染まってはおらず、寧ろ凪いでいるように見えた。
試されている、と感じた。私がどういう答えを出すのか、待っている目だ、と。
私は唇を軽く舐めて、からからに乾いたそこを潤した。
「事情を聞きます。必ず聞き出します。それで、どうにかします」
「……どうやって? キミに、何ができると言うんだい?」
私は今から、厚顔無恥な物言いをする。呆れられるだろう。蔑まれるだろう。
けれど、これが最後のチャンスだ、という想いがしていた。これが、私と、あやかしの……関係を決定づける、最後のチャンスだと。
ゴクリと喉を鳴らしながら、いつきさんの瞳をまっすぐ見つめた。
「皆さんに、助けていただきたいです」
世界から音が消え去ってしまったように、少しの間、なんの音も聞こえなかった。
呼吸をするのもはばかられて、息を止めていたから、自分の呼吸音すら聞こえなかった。
本当は、多分。風の音や、虫の音、それから自分の心臓の音なんかがしていたはずなのに、私の耳は、その一切を拾ってはくれなかった。
あはは、といつきさんは笑った。それは恐らく、いつきさんが初めて私に見せた、素の笑顔だっただろう。
「いいよ。……キミ、何だかちょっと、澄子に似てきたんじゃない?」
それは恐らく、いつきさんにとっての、最上級の賞賛の言葉だった。




