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第26話 思い出すのは

 我が家は、山を切り開いて建てられた巨大な屋敷であり、裏手は完全な山になっている。


 私有地であるため、人の出入りは勿論なく、年に数回、管理の為に澄子さんが業者を呼ぶ。昔は、こっそりあやかしが住み着いたりもしていたそうだ。勿論澄子さんは、そのあやかしにも優しく接したわけなのだが……それはまた、別の話だ。


 裏山は、想像していたより大分歩きやすかった。今までは、特に用もないからと入ったこともなかったけれど、澄子さんは山の管理もきちんとしているようだ。


 確か、頂上に小さな祠があるって言っていたよね。そこに向かいやすいようにしているんだ。


「柚希―! 柚希、ここにいるんでしょう? 無理強いなんてしませんから、戻ってきてください!」


 声をあげながら、山道を進んでいく。陽が落ち始めている。無計画に山に入るより、準備をしてから入るべきだったかもしれない。


 ここまで来たら、短期決戦しかない!


 私は、山に入ってから、柚希はここにいるという確信を持っていた。裏山に続く道の途中で、柚希の部屋に飾っていた、花が落ちていたからだ。


 山の中には、咲いていない花みたいだし……。どこからか持ち込まれたものであることは明らかだ。私有地だから、家のひと以外はここに入らない。とすれば、柚希がここにいるとしか、考えられなかったのだ。


「柚希……どこまで行っちゃったの……」


 上を見ると、まだまだ道は続いている。思ったより、奥まで行ってしまったのかもしれない。


 陽が落ちると、周囲が見づらくなってしまった。気温も下がって、少し寒い。私は、携帯のライトを使って、どうにか山を登り続けていた。


 うう、短期決戦のつもりだったのに、すっかり暗くなっちゃった。


 携帯のライトを使っているせいで、片手が塞がってしまっているし、視界が悪い。幸い、道が整えられているおかげで何とか登れているが、危険なことには変わりないだろう。


 寒さと暗さに震えながら、歩を進めているうちに、頂上に近づいていたらしい。


 不意に視界が開けて、夜空に浮かんだ月が煌々と光を反射しているのが見えた。


 思わず早足になり、そのまま駆け足になる。暗い、暗いと思っていたが、月の光を浴びると、夜はこんなに明るかったのだと思い知らされた。


 祠の前には、思った通りに柚希がいた。それに安堵の息を吐きかけて、その様子がおかしいことに気が付いた。


「柚希……?」


 私の声に反応して、柚希がこちらを振り返った。


「柚希! どうしたんですか、柚希!」


 柚希に駆け寄るために足を踏み出そうとして、その背後に何者かがいることに気が付いた。一瞬見えたはずのその影は、すうっと柚希の体に吸い込まれていく。


 すると、柚希の目が虚ろになり、陽炎のようにゆらゆらと体が揺れる。その尋常でない様子に、すぐに気が付いた。


 あやかしだ。あれはきっと、あやかしなのだ。今日まで明石屋で過ごしてきて、曲がりなりにもあやかしを見てきた経験が、そう語っていた。


「……誰ですか?」


 問いかけるけれど、影は柚希から出てくる気配がない。この場で柚希だけが、ゆらゆら、ゆらゆらと動き続けていた。


 じわじわと、柚希がこちらに近づいてきている。私はどう動けば良いのかわからずに、ただ、段々と距離を詰めてくる柚希の、光のない目を見つめる。


「柚希……」


 私の声に反応して、いつもの調子に戻ってはくれまいかと期待して、何度も名前を呼ぶ。けれど、目の前に来ても、彼の様子はおかしなままだった。


 柚希は、つい、と手を伸ばして、私の頬に触れた。その手が徐々に下がっていって、顎を指先が滑り、首に触れる。背筋がぞわりと粟立った。


「……あっ……!」


 指に力が込められて、息が止まる。苦しくて、涙が出た。


 何が起こっているのか、理解が出来ない。どうして柚希は、急にこんなことを。

 グルルルル、と柚希の喉が鳴る。餓えた獣みたいな、恐ろしい音だった。


「ヴー……」


 よだれをだらだらと垂らし、唸り声を上げた柚希は、唐突に吠えた。ワンワン、というよりは、ヴァンヴァン、といった感じの、どこか苦しそうな声だ。


 空気がびりびりする。その鳴き声に気圧されながら、私の脳裏に「犬神」という言葉が浮かんだ。


「ジャマヲスルナ……!」


 柚希の口がぱっかりと開いて、呪詛のように不明瞭な響きの言葉を吐きつける。至近距離から、強く、獣の臭いがした。


 そうだ、柚希は犬神だった。人間ではないのだ。あやかしなのだ。


 そう思うと、理解しがたい今のこの状況の、何もかもに説明がついてしまう気がして、私は目の奥がツンと熱を持つのを感じた。


 裏切られた。


 涙が滲んで不明瞭になる視界の中で、そんな考えが頭を回っていた。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。


 やっぱりあやかしは、ダメなんだ。絆を築き上げても、親しくしても、愛を囁いても、結局捨てられる。この生き物は、薄情な生き物なんだ。


 そう結論付けようとする一方で、私の脳内に描かれたのは、柚希と過ごした毎日の、あのなんでもない幸福な毎日だった。


 卵雑炊を食べて、「うまい」と言ってくれたこと。柚子の甘露煮を、「好きだ」と言って無邪気に笑ってくれたこと。私が付けた柚希という名前を、何度も指でなぞっていたこと。


 ……本当にこれが、あの柚希のやることなのだろうか? 直ぐに照れて、目を逸らしながら、それでもお礼を言ってくる、あの純粋な柚希の? 病み上がりに部屋を出ようとしたら、引き留めてくる、あの寂しがりやな柚希の?


 ……違う! そんなはずない! これは柚希じゃない!


 柚希の手に、ガリっと爪を立てる。すると、痛みを感じたのか、柚希の眉がピクリと動いた。


「あな……た! ゆずきから……っ! 出ていって!」


 渾身の力を込めて、柚希の腕を握りしめる。柚希は、煩わしそうに眉を寄せると、私の首を掴んだ手にグッと力を入れなおした。


 首を掴まれた状態のまま、私の体は持ち上げられた。足元から、地面の感覚がなくなって、浮遊感を感じる。ただでさえ苦しかった世界から、余計に酸素が失われて、私は意識が遠のき始めるのを感じた。


 もう、ダメなんじゃないか、と思った。もう、ここで終わりなんだと。


 どうして、どうして私をこんな風にしたの。こんなふうに、あやかしを、ひととの関りを、恐れない私だったら、きっと。きっと柚希ともっとちゃんと心を通わせられて、こんなことにはならなかったかもしれないのに。どうして。


 綺麗な満月を見ながら、私はあのひとを思い出していた。

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