第24話 団欒
「いただきます」
普段から使っている挨拶を口にして、緊張しているのは、これが人生で初めてかもしれない。
居間に柚希の姿があるというだけで、いつも過ごしている場所が全く違う場所に思えた。
「犬ちゃん、今日は来てくれてありがとうね~」
澄子さんが、いつもと変わらない笑顔を浮かべる。
周囲を明るく照らす澄子さんの笑顔だったが、柚希にはその笑顔もあまり効果がないようだ。
素知らぬ顔をして、澄子さんの声をスルーした。
半ば予想していた反応だったので、やっぱりか……とため息を吐くに留まった。澄子さんも、気にしていなさそうな表情だ。
しかし、澄子さん本人が気にせずとも、噛みつくひとがいるのだということを、うっかり失念していた。
「キミさあ、自分が今、誰のおかげで生きながらえているのか理解してないわけ?」
いつきさんだ。
……頭が痛くなってきた。
けれど、よく考えなくとも、このひとが黙っていてくれるはずもなかったのだ。それを忘れていた私の方が、うっかりしすぎていたと考えるべきだろう。
「あの、いつきさん……。柚希も、悪気があるわけでは……」
「柚希って誰?」
「え?」
「名乗られてないから、知らない」
いつきさんにも、一応犬神の青年を柚希と呼んでいることは話したけれど、恐らくそういう話ではないのだろう。
彼が自分から名乗るべきだと、それが礼儀だろうと、遠回しにそう言っているのだ。
「それに、悪気がないだなんて、よく言えるよね。あからさまに無視をしておいて。ねえ、そんな目立つ耳を付けておきながら、聞こえてない訳ないよね? 自分の立場を理解しろって言っているんだけど」
いつきさんの冷たい目が、柚希を貫く。
「いつきさん、柚希はまだ、体も全快ではありませんし……」
「だから何? 話をするのにそれは関係ないよね? そもそも、甘えすぎ……」
なんとか柚希を庇おうとすると、いつきさんの言葉の矛先が私に向いた……と思った瞬間。澄子さんの、凛とした声が、居間に響き渡った。
「いっちゃん、意地悪しないの」
それはまさに鶴の一声。機関銃のように放たれていたいつきさんの言葉は、ピタリとその音を止めた。
……不本意そうでは、あったけれど。むくれたいつきさんの顔を、そわそわと見てしまう。
「ごめんなさいねえ、犬ちゃん。……でも確かに、貴方をなんて呼んだらいいのか、私も悩んではいたのよ。犬ちゃんって呼ばれるのも、嫌ではない?」
おっとりと澄子さんが柚希に話しかけた。いつきさんの言葉に、全身を固くしていた柚希は、そっと目を伏せた。
「……柚希」
「柚希ちゃん?」
澄子さんの確認に、柚希は無言で頷いた。
「そう、とっても素敵な名前ね! 雛ちゃんに付けてもらったの?」
柚希が、またこくりと頷く。
「流石私の自慢の娘ね!」
どや顔で胸を張る澄子さんの姿に、私は頬が熱くなるのを感じた。
今、そういう話の流れだったかな…⁉
澄子さんは、事あるごとに私を褒めてくれる。それはくすぐったくはあるけれど、いつだって嬉しいことだった。
「……あいつは、お前の娘ではないんだろ?」
「あら、雛ちゃんに聞いたの? 本当に、貴方と仲良くしているのね」
「こたえろ」
「うふふ。答えは『いいえ』よ。雛ちゃんとは、確かに血こそ繋がってはいないけれど、私の可愛い娘であることに間違いないわ」
澄子さんは、当然のような顔で笑う。私はその顔を見つめながら、泣きそうになってしまった。
澄子さんは、普段から本当に私を可愛がってくれる。実の娘だと思っていると、そういってくれる。
その言葉が、どれだけ私の人生を照らしてくれているか、彼女にはわからないだろう。
無価値なはずの私が、それでも何か、役に立ちたいと。報いるために生きたいと。澄子さんの存在こそが、そう、思わせてくれているのだと、彼女は知っているだろうか。
「お前は、虚白に似てる」
私の感情を置き去りにして、会話は進んでいく。柚希は、どこか遠くを見つめるように、目を細めていた。
「虚白? それは、柚希ちゃんの、大切なひと?」
澄子さんの問いに、柚希は頷いた。
「そう、それは、とっても光栄なことね」
多くは聞かずに、ただ受け入れてくれる優しい澄子さんの微笑みに、柚希は今度こそ、笑みを返した。




