第2話 住人達
「あらあ、雛ちゃん。おかえりなさい」
ニコニコと笑いながら最初に声をかけてきたのは、壱号室に住んでいる枝野侑李さんだ。所謂オネエさん、と呼ばれる部類のひとで、明石屋内でも年長者らしい振る舞いをする。皆の頼れるお姉さん、といった印象だ。
私の事も、何故だか随分と気にかけてくれているようで、見かけるといつも挨拶をしてくれる上に、困ったことはないか、などと何かと声をかけてくれる。優しいひとなのだろう、と思う。
けれど、その優しさが、私にとっては少しばかり重荷だった。
「ただいま帰りました。……皆さん、お集りなんですね」
曖昧に笑いながら、食卓の周りに集まっている四人を見渡してそう声をかけると、大柄な男性が頬を掻きながら苦笑した。
人の良さそうな笑みを浮かべるこの男性は、参号室に住む山田太郎さん。体つきこそはがっしりとしていて、最初は怖い印象を与えるかもしれないけれど、気は優しくて力持ち、という言葉を地で行くひとだ。笑顔を絶やさず力仕事を積極的に手伝ってくれたりと、普段からお世話になる事が多い。
世話焼きな侑李さんと比べると、ほどよく距離をとってくれるひとなので、その点も助かっている。
「侑李さんに召集されましてね……。とはいえ、こんな昼間からお酒を飲むのはどうかと思いますので、流石に酒盛りはやめていただいたのですが」
「そうなんですね」
太郎さんの言葉に苦笑しながら頷くと、侑李さんが唇を尖らせた。
「あらぁ、いいじゃない。こちとらやっと原稿が終わったのよ! 原稿明け祝いに酒盛りさせてくれたって、罰なんかあたりゃしないわよ!」
侑李さんの荒れた様子に、改めて彼の姿に目を向ける。
なるほど……いつもは、女優もかくやというほど、ハリがあって輝いている肌が、くすんでいるように見えた。ボロボロになるまで頑張って原稿をしていた、というのは、どうやら大げさな言い分でもないようだ。
……まあ、何の原稿なのか、私は知らないのだけれど。
理由あって、私は彼ら……我が明石屋の住人たちとは、距離を取るようにしている。そのため、彼らが普段、どのような仕事をしているのか、何をして過ごしているのか、など……。プライベートな情報は、本当のところは何も知らないのだ。
「お忙しかったんですね。お疲れ様です」
微笑みかけると、侑李さんは途端に瞳をキラキラとさせて、嬉しそうに私の両手を握った。そのまま激しく上下に揺さぶられ、そのあまりの勢いに、軽いアトラクションに乗ったような心地になる。
突然手を取られたせいて、一瞬体が強張ってしまったけれど、何とか笑みを絶やさずにいられたことに安堵の息を漏らす。
侑李さん、スキンシップの激しいひとだから、反応に困るんだよね……。
内心困惑している私を知ってか知らずか、侑李さんは上機嫌のまま、再び私の手をぶんぶんと振った。
うっ、激しく振られすぎて、なんかちょっと酔ってきた気がする……。
「ほらー! アンタたちと違って、雛ちゃんのなんと優しいことか! 本当にいい子ね。癒しだわ……。澄ちゃんは、こーんな娘がいて幸せよねえ」
そう言って、侑李さんは、食卓の上に順番にお茶を並べていた女性……私の母親にあたる女性、澄子さんに声をかけた。すると、彼女はにっこりと笑って、ぐいと大きく胸を張って見せる。
「ええ、まあ。自慢の娘ですから!」
澄子さんは快活な笑顔を浮かべながら、自分の胸を拳でどんと叩く。そのキラキラとした、自信に満ち溢れた表情を見て、私はカッと頬が熱くなるのを感じた。
慌てて侑李さんの手の中から、自分の手を引き抜いて、大きく左右に振る。
「そんな、勿体ないお言葉です。私、お世話になるばかりで何もお返しできなくて……」
目線を下ろしながら言い募るけれど、温かい目線を向けられるばかりだ。居たたまれない。優しい視線に耐えかねて、しまいには、唸り声を漏らすことしかできなくなってしまった。
すると、澄子さんと侑李さんは、うふふ、と柔らかな笑い声を、居間に響かせるのだった。
けれど、そんなのんびりとした空気を壊すように、その場にいた最後の住人……伍号室の野宮いつきさんが、鼻を鳴らした。どこか人を嘲るような含みのあるその音に、みんなの視線が彼に集中するのがわかった。
「ほーんと、キミって何の為にここにいるのかな? 優しい? いい子? 本当かな? だってキミは、僕たちとは違う。なのに、澄子たちとも違って、僕たちに歩み寄ろうって気もないんでしょ? 正直言って、場違いだよね?」
勢いに気圧されて、思わずうつむく。けれど、それでもいつきさんの冷たい視線が、私に突き刺さっているのがわかった。
いつきさんは、どうやら私が気に食わないようで、何かというと、絡んでくるひとだ。そういう時は大概冷たい目線を向けられるのまでがセットなので、彼が今どんな目で私を見ているのかは、目線を上げずとも予想できた。
正直に言うと、彼に対して、何かをしたわけではないので、ここまで嫌われるとは、思っていなかった。
けれど、返せる言葉が、私にはなかった。だってそれは、全くの正論のように思えたからだ。