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第16話 ありがとう


 青年が、しっかりとした目で私を見ていた。今度は、意識がはっきりしているようだ。


「あ……」


 吐息が口から漏れ出すのを感じながら、私はアイスブルーの瞳と向き合って、言葉を探す。けれど、上手い言葉を見つけられるほど、起き抜けの私の脳は働きが良くなかった。


「お、おはようございます……」


 結局、口から飛び出したのは、朝の挨拶という、何の気も利いていない言葉だった。


 青年は、ピクリと眉を動かして、視線をさ迷わせる。何となく、彼も私と同じように、吐き出す言葉を探しているように見えた。


「……お前か」

「え?」


 唐突に、青年が言葉を放った。


 けれど、寝起きの私では、上手く彼が何を問いたいのか分からず、素直に首を傾げてしまった。青年は、顔を歪めて、ツンと唇を尖らせると、もう一度口を開いた。


「俺の世話をしてくれたのは、お前か」

「え……、あ、は、はい。あの、熱があったようだったので……。その、勝手に部屋に入ってしまい、申し訳ありませんでした」

 どこか不機嫌そうに見える青年の姿に、慌てて謝罪の言葉を口にする。

「俺に、毎日声をかけていたのも、お前か」

「は、はい……。うるさくしてしまって、申し訳ございません……」


 襖越しの会話にまで言及されると思っていなかった。私が考えているより、不快な思いをさせていたのだろうか。


 そう思うと、顔から血の気が引くのを感じた。俯きながら、謝罪する。


 今更な話だけれど、青年は危険なあやかしなのだということを思い出したのだ。


 機嫌を損ねてしまっては、どんな目に遭わされるのか、わかったものではない。その恐怖心が、私の頭を垂れさせた。


「……別に、俺も暇だったから、怒ってない」


 けれど、青年の予想外な言葉に、私は顔を上げる。


 一瞬、青年と目線が交錯したけれど、すぐに顔を逸らされてしまった。彼は、口をもごもごとさせてから、再び小さく口を開いた。


「あんまりちゃんと覚えてないけど、誰かが面倒を見てくれていたのは、わかった。それがお前なら」


 そこで言葉を切った青年は、ちらりとこちらを見上げて、またムスッとした顔になる。


 唇をむうっとさせた青年の顔をじっと見るけれど、その後言葉を綴る気配はない。


 明らかに、言葉を途中で区切ったよね……?


 何か言いたいことがあるのではないだろうか。


 そう思って、青年の顔をじいっと見つめ続ける。すると、観念したのか、軽く頭を振った彼は、ぼそりと吐き捨てるように声を紡いだ。


「……ありがとう」


 えっ、と自分の口から声が飛び出しそうになって、慌てて両手で口を押えた。


 い、今、ありがとうって言った? 


 信じられない思いがして、青年の顔を見つめると、あからさまに顔を逸らしている。


 けれど、その頬がほんのりと朱く染まっていて、彼がどうやら照れているのだということが伝わってきた。


 か、可愛い……かも。


 存外素直にお礼を言う様子が妙に愛らしく思えて、胸がきゅんとした。


「いえ、そんな……とんでもないです。当然のことをしたまでですので……」


 言いながら、ふと、今ならもう少し踏み込んでも許されるのではないだろうか、という考えが頭をもたげた。


 私は、両手をぎゅっと握りしめて、ついでに目もぎゅっと瞑って、言った。


「あの……もし、よろしければ。以前にお話をした、卵雑炊を、ご用意してもいいでしょうか?」


 叱られるのを待つ子供って、こんな気持ちなのかな。そんな風に思いながら、青年の返事を待つ。けれど……言葉が、返ってこない。


 ゆっくりと目を開けると、彼は、いつの間にか布団に横になっていて、頭の方まで掛布団をかぶっていた。


 ……拒絶の合図、だろうか。


 お礼を言ってもらえたからといって、作ったものを食べてもらうのは、難しいだろうか。


 私はなんだか凄くがっかりしてしまって、大げさに肩を落とした。それから、いい加減部屋を出るべきなのだろうかと思案する。


 何にも言ってこないけど……布団をかぶっているんだから、きっと私の視線が煩わしいんだよね。


 それなら、早めに部屋を出てあげた方がいいのかもしれない。熱ももう、大分下がっただろうし。


 けれど、立ち上がろうとした私を引き留める手があった。言わずもがな、青年の手だ。彼は、布団の間から腕を伸ばして、私の服の裾をきゅっと掴んでいた。


「えっ」


 予想外の事態に、思わず声を漏らす。


 布団の間から、アイスブルーの瞳が、ゆらゆら揺れながらこちらを捉えていた。


「……どこかに、行くのか?」


 不安そうに眉を下げながら放たれたその言葉が、ナイフになって私の心臓に突き刺さったような気がした。そのくらい、衝撃を受けたのだ。


 もしかして、私に甘えてる⁉


 ぐうっと妙な声が口から飛び出しそうになったけれど、何とか抑えて、私はこほんと一つ咳払いをする。


「お邪魔かと、思ったんですが……。その、雑炊もいらないみたいですし」


 青年は、返事をしてはくれなかった。しかしその一方で、手を離すこともなかった。


 ど、どうすればいいの……。


 ひとと関わってくることを放棄してきたせいで、青年が望んでいることがわからない。


 すっかり困り果てて呆然としていると、くい、くい、と二度素早く服を引かれた。それに対して、じっと待っていると、ややあって小さな声が布団の隙間から漏れ出てきた。


「……雑炊、食う」

「! はい、それじゃあ、ご用意いたしますね!」


 体が重力から解き放たれたのだろうか。そんな風に思ってしまうほど、気持ちが舞い上がる。自分でも随分と生き生きした声が出たなと感じた。


 今度は手を離してもらえたから、行っていいということなのだろう。


 私は、足取り軽く部屋を後にして、台所へと向かった。

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