第13話 襖越しのぬくもり
私は今日も、懲りずに犬神青年の部屋へとやって来ていた。うっかり部屋に入ろうとしてしまったけれど、あの怯えた目で見つめられて、慌てて部屋の外に出た。
「犬神さん、今日は。お加減はいかがですか?」
廊下に座り込んで、襖越しにそうっと声をかけるけれど、返事はない。私は少し悩んでから、再び口を開いた。
「今日は、良いお天気ですね。庭の紫陽花が咲いているのを見ましたか? 雨の日に雨露に濡れた紫陽花を眺めるのも好きですが、お天気の良い日に見ると、晴れ空に溶けるように感じらるのが、好きなんです」
……私は一体、何の話をしているんだろうか。犬神さんだって、こんな話絶対に興味ないよ……。
そう思うけれど、一度口から放ってしまった言葉を消すことはできない。
もういいや!
開き直った私は、次々に、とりとめのない話をした。
好きな本の話、昨日食べた夕飯の話、大学に実はうまく馴染めていなくて悩んでいる、という話……。
思いつくことを、ぽんぽんとなんでも話していく。不思議なもので、相手の顔も見えず、返事の声も聞こえないことで、私は普段人にはなかなか話せないようなことでも、すらすらと淀みなく話していた。
そうしているうちに、随分と時間が経っていたらしい。すっかり日が暮れたことに気が付いて、私ははっとした。
「あ……もう、こんな時間なんですね。それじゃあ」
一応、一言断りを入れて、立ち上がる。
結局その日は、襖の向こうから、何か言葉が返ってくることはなかった。
けれど、不思議と気分は重くならなかった。
翌日も、その翌日も、私は犬神の青年に、襖越しに話しかけ続けていた。
それは日を重ねるごとに、段々と私から緊張感を奪っていき、やがて、私は素に近い自分を出すことに、躊躇しなくなっていったのだった。
「それで、その時に食べた卵雑炊が凄く美味しかったんですよ」
気付けば、犬神の青年への一方的な雑談は、すっかり日課になってしまっていた。その日も、私はとりとめのない話をしており、話題は、風邪を引いた時に食べたいものについてだった。
「……それは、どんな食い物だ?」
ほとんど独り言のつもりで出した話題に、しかしその日は返事があった。
私は、飛び上がりそうなほど驚いて、それから、無理やり平静を装った声を出す。
「そうですね……。お米をお醤油なんかで味付けして、お粥みたいにやわらかく煮るんです。お出汁の香りがほんのりして、とっても美味しいんですよ。私は、ネギを入れるのが好きです。優しい味って言うんですかね」
「優しい、味……」
ぽつりと呟かれた言葉に、おや、と思った。
もしかして、興味を持ってくれたのだろうか。というか寧ろ、食べたいのだろうか。
「……もしよければ、私、作りますけど……」
控えめにそう告げると、犬神の青年はこくりと黙り込んでしまった。
しまった、気が急いていただろうか。
返事をしてもらえて、どうやら自分でも気が付かないうちに、舞い上がっていたらしいことを自覚する。内心冷や汗を流した私は、すぐに話題を逸らした。
「あ、学校の帰り道でカスミソウを見たんです。小ぶりで可愛らしい花なんですけど、沢山咲いていると壮観なんですよ」
「ソウカン……」
また、返事をしてくれた!
独り言のような声ではあったけれど、私にその声を聞かせているという意識があることは間違いないのだ。
必要としていた情報を引き出そうとしていた時と違って、今は返事をしなければならないような話題ではない。その状況で返事をしてくれたことが、なんだか無性に嬉しかった。
毎日、襖越しに、それも一方的にではあるが、彼と話をしてきた。それで、いつの間にか親近感のようなものを抱いていたのかもしれない。
私はドキドキする胸を押さえつけて、努めて冷静であるようにと自分に言い聞かせながら声を出す。
「白い小さな花が、ずうっと遠くまで咲いているのを想像してもらえますか? ……なんだか、天国にいるみたいな感じがしません?」
イメージとしては、雲の上を歩くような感じだ。そんな風に伝えると、犬神の青年はまた黙りこくってしまった。
天国、とか。急に言ったから、引いちゃったかな……。
けれど、返ってきた青年の言葉に、私は思わず笑みをこぼした。
「なるほど」
納得の色を感じる声音から、きちんと私の言葉通りに想像をしてくれたのだろうと言うことが容易に理解できたからだ。
存外、素直なひとなのかもしれない。
私は、勝手にほっこりとした気持ちになりながら、またひたすらに言葉を吐きだし続けた。
青年は、話題によっては黙り込んでしまうこともあったけれど、時折、ぽつりぽつりと言葉を返してくれた。
「あ、雨……」
話に夢中になっている間に、気付けば雨が降って来ていた。何故だかその雨は、とてもあたたかいもののように感じた。




