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over again  作者: れもすけ
第二章
9/48

1



 優しくて緩慢な足音が二つ、静かに遠ざかっていく。

 見知らぬ人のものだった部屋は他人行儀で、それでもこれからはここで生きてよいのだと、ヤヨイを懐深く受け入れてくれたことを感じる。

 きしむベッドに寝転んで、目を閉じた。

 最近になってようやく、最後に見た両親の顔を思い出すことができるようになった。それは次第にもっと以前のものになり、やがて笑顔ばかりにとってかわる。

 あの場に留まっていたなら、いつかは乗り越えることができたのだろうか。あせりと恐れに支配された胸が、穏やかになる日はもしかしたら遠いことではなかったのかもしれない。

 なにもない世界に逃げ出したはずだった。

 痛みも苦しみも、喜びもない世界。

 ヤヨイは耳を澄まして、階下の気配をうかがった。かちゃん、と陶器の触れ合う音。椅子を引く音。かすかな笑い声。ヤヨイ、と自分の名を呼ぶ親しみのこもった声。

 不意に熱いものが込み上げて、ヤヨイは涙をこぼした。

 取り戻そう。思いがけず再び得た暖かい場所で、心からの安らぎを差し出してくれた人たちのために。

 だれかを愛し、誠実に生きることができたはずの自分を。





 

 1.



 けたたましい騒音、後、静まり返る室内。

 舞い上がる埃。

 倒れた脚立。

 散乱した本。本。本。


「……おまえな」

 すぐ鼻先の本の下から、押し殺した低いうなり声。

 ついた両の掌には、ゆっくりと上下する胸の感触。

 ばさ、と間の抜けた音を立てて、仰向けになった彼の顔から落ちる本。

「ご、ごご、ごごごめんなさい! 大丈夫ですか!?」

 距離の近さに驚いて思わずのけぞった瞬間――自分の頭に載っていた本が落ちた。


 すこーん、と痛快な音を立てて、彼の額に。


「……おぉまぁえぇなぁ!!」

「うわわわ、ごめんなさいぃ!!」


 オージェルム王国にて就職、記念すべきその初日。

 王子の顔に本の雪崩を見舞い、彼をクッションにして床に倒れるという大失態。

 ヤヨイは絶体絶命のピンチを迎えていた。






 王家が『外』の人間を保護し、好意的に接することで国民も違和感なく自分たちを受け入れてくれるのだとヒロは言った。そして好意や敬意の証として、日本人の名前を子どもにつけることがよくあるのだと。

 実際、現在の国王の名はキヨシで、三人の王子は上からタロウ、ジロウ、サブロウだそうだ。……ミドルネームではあるが、いいのか、それで。そのときそばにいた人は、どうしてとめなかったのだと、しばし悶絶した。


 ヤヨイやヒロのように、『外』から来た者は生活するに必要なだけの金銭が王家から支給される。三十年ほど前にやって来たアサヌマさんが確立した制度で、彼は別名「インフラの鬼」と呼ばれている。

「こっちの連中が『生活道路!』とか『下水道完備!』とか叫んでるのはアサヌマさんの影響よ。一応はランドボルグ城が拠点になってるけど、一年のうち何ヶ月もいやしない。国中を放浪して、灌漑工事したりトイレの設置に勤しんでるから」

 とはヒロの言だ。


 それはともかくアサヌマ以前の『外』の人間は、城の客室に住み、配膳されるものを食べ、渡された服を黙って着ていたという。そこに選択の余地はなかった。

 遠慮が美徳である日本人の哀しさか、小遣いをくれとはだれも言わなかったらしい。

 先立つものがない『外』の人間は、心身ともに貧しくもないが豊かでもない生活を余儀なくされていた。

 貧しさゆえとはいえ労働に従事し、正当な対価としての賃金を得る喜びを知っていたヤヨイには考えられない話だ。

 だから当然、ある程度の生活能力が身についた時点で、働く場所をくれとヒロに訴えた。

 給付金だけでもやっていけるし、住宅手当もあるというので、それは純粋に暇つぶし――いや、この国にとけこむための手段としての労働だ。なによりヤヨイにとって、仕事をするのは呼吸をするのと同じくらい重要なことなのだ。


 秋の声を聞く頃、あのよくわからない王子がやってきた翌日。

 ヤヨイはランドボルグ城へ向かう馬車の中で仕事について説明を受けた。

 城の書記室に所属し、書庫の清掃、蔵書の目録の作成、分類、整頓などの業務を請け負うこと。

 それだけのことを決めるまでに、陰では様々な方面との調整の場がもたれ、あの日王子が「話し合い」に来たことでヒロは許可することにしたらしい。詳しくは話してくれなかったが、あの王子がヤヨイの就職に関して尽力してくれたことだけはわかった。


 書庫、というのがどれだけの規模でどういった役割を有するものかは知らないが、悪くなさそうだと思う。ヤヨイは週三日ドラッグストアで、残りの四日は本屋でアルバイトをしていたからだ。本は好きだし、『外』をリスペクトしている学者に囲まれていたおかげで、古い本特有の黴臭さにも慣れた。


 大した理由もなく思い込みだけで王族アレルギーを起こしていたものの、会ってみると王様は素敵なおじ様だった。びっくりするほど大柄で筋肉モリモリだったけど。

 シンプルでも仕立てのいい服に着替え、緊張でガチガチになったヤヨイが謁見の間とやらいう部屋に入ると、待ちかねたように上座の椅子から飛び降りて、両腕を広げて抱きついてきた。

 お日様のにおいとちょっぴり加齢臭のする真紅の上着に鼻を埋めながら、ヤヨイは少し涙が出た。お父さん、というつぶやきは、王様の耳にも届いてしまったのかもしれない。


 ヤヨイの肩をつかんで身体をはなした王様は、ヤヨイの目を強く見つめてがっちりした口元を緩め、たどたどしい日本語で「よくきた、わたしのむすめ」と言ったから。

 大好きになった。ジョージ・クルーニーに似た雰囲気で、白髪混じりの金髪で、エメラルド・グリーンの瞳をキラキラさせて。太い腕でヤヨイを軽々と抱き上げ、大きな音を立てて頬にキスをした。どこかで「じじい!」と叫ぶ声が聞こえたけど、王様は聞いちゃいなかった。


 職場見学をしてから決めれば、とヒロに勧められたけれど、即決しておいたことはいうまでもない。

 もちろん、城という響きに惹かれたこともある。非日常の気配、新しい自分が生まれる予感、せっかくなら想像もしなかった経験をしてみたいという願望。


 実際、ランドボルグ城の威容は圧巻だった。


 高い城壁に囲まれた町、その中心に荘厳な佇まいの大きな城があって……うっとりと見とれた。

 ベルサイユ宮殿をオーランド・ブルームに例えるなら、ランドボルグ城は渡辺謙だ。大人の魅力だ。暗い灰色の石壁がそびえ立ち、ドーンという効果音すら背負っていそうだった。


 学者の一人が実家の部屋を提供すると申し出てくれたことも、決定を後押しした。王宮からほど近い場所にあり、通勤にも便利。比較的治安のよい地区で、街路も清潔だという。

 ただ、彼の両親と三人で暮らすことに、ヒロは最後まで難色を示した。

 ここに来た経緯を知っての懸念だろうが、ヤヨイ自身に不安はない。むしろ『外』でできなかった親孝行とやらを、やってみようとすら思っていた。

 そう、初日のヤヨイはとても清々しい気持ちで新生活の第一歩を踏み出し、まだ見ぬ職場への妄想をたくましくしていたのだ。






「動くな。――いいから、動くな」

 片手をヤヨイの背中に回し、あいた手で自分の額をおさえる王子は、強い口調でそうヤヨイに申しつけた。

 内心だらだらと冷や汗をかきながら、ヤヨイは心の中で自分を呪う言葉を唱え続ける。

 倒れた際に彼が後頭部を痛打したのはわかった。なんとなく、鼻のあたりに頭突きを食らわしたような気もする。続いて数冊の本が――しかも豪華な装丁の分厚いやつが――顔に降ってきたのだ。立ち直るのには時間がかかるだろう。


 こんなに異性と密着したのは初めてで――いや初対面のあの日もあったが正面からに限定すれば――、どこを見ていいかわからない。

 不自然にそらした首筋が痛むけれど、重力にまかせたら唇が触れてしまいそうだ。どこにって、鼻とか頬とか唇とか、とにかく彼の顔のどこかに。


 かすかなうめき声とともに、王子の手が動く。

 ヤヨイの背中に載った本を払いのけ、そのままヤヨイごとむくっと身体を起こした。唐突な動作に驚いてしがみつけば、彼の膝に座って抱き合うような格好になっていた。

「……怪我はないか」

 むすっとした声で尋ねられ、ヤヨイは顔を上げた。そして目の前にある美貌に見入った。

 底光りするような紺色の瞳。とかしたばかりのチョコレートのようにつややかな髪。でもその造作には甘さより鋭さのほうが勝っていて。


(うむ、イケメンだ……。知ってたけど)


 王様に会ったとき、三人の王子も――太郎・次郎・三郎。……なにも言うまい――そろっていた。

 だが緊張で真っ白になっていたし、周囲を見渡す暇もなく王様に抱きしめられ、抱き上げられてそれどころではなかった。「ああ、ハグってやっぱり力いっぱいなのか……」と酸欠で死にそうだったのも一因。

 もちろん彼の顔は覚えている。初対面でジロジロ観賞したし、なんという無礼者だと睨みもした。なにより金髪の王様とあまりにかけ離れた濃い茶色の髪をしている。だから彼の上に倒れこんだとき、すぐにグレイヴだと気づいたのだ。が、至近距離で見ても文句のつけようがない美形だった。


 形のよい眉がきゅっと寄り、問いかける視線が強さを増したところで我に返った。

「す、す――すみません! ちょっとあの、どきます!」

 わざとではない。

 彼の肩にしがみついていたから、ついそこを支えに勢いよく立ち上がっただけだ。

 だから彼が突き飛ばされたと感じても、決してヤヨイに悪意はなかった。そう、再び仰向けに倒れて後頭部を強打した王子が、目を閉じて額に青筋を浮かべていても、それはヤヨイの意図したところではないのだから――。


 あ、と言ったまま硬直したヤヨイは、必死に言い訳をしていた。ただそれが言葉となって口から出てくることはなく、書庫には怖ろしいほどの沈黙が降り続けた。




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