5
花のような甘い香り。人肌のぬくもり。ゆるやかな締めつけ――。頬にあたるシャツに皺が寄る感触で、ヤヨイは我に返った。
閉じ込められている。広げた外套の、グレイヴの腕の中に。
「ちょ、ちょっと――やめてよ!」
ヤヨイは肘を曲げ渾身の力で白いシャツの胸を押した。ほんのわずかも揺らぐことはなかったが、彼はそっと腕をほどいてヤヨイの顔を覗き込んだ。
「……冷たくなってる」
低い声でつぶやくグレイヴの顔が近い。紺色に見えた瞳は紫がかっていて、虹彩が斑だと気づいた。
生まれてこの方、これほど間近でだれかの目を見たことはない。いやある、お医者さんとか。
「な、ななななに――」
軽くパニックに陥りながら顔を前に向けると、あらためて後ろから抱きしめられてさらに動転した。じゃぼん、と音がしたのは、つま先だけ漬けていたはずの足が水に深くもぐったためだ。その冷たさにぎょっとする一方、背中と腕が心地よく温まる。
「風邪でもひかせたらヒロに殺される」
耳に直接吹き込まれた囁きは甘ったるく、背筋を正体不明の痺れが走った。
「はな、はなしてよ! 帰るから、もう帰るから!」
外国人恐るべし――ヤヨイの脳裏にクレイマー・クレイマーのワンシーンが甦る。友人同士である男女が、臆面もなく公園のベンチで抱擁し頬に額にキスをする。彼らのそれが親愛の表現であることは疑うべくもなかったが、初対面から五分とたたぬ自分と彼に適用してよいものなのか。
滅茶苦茶に暴れて腹に回された腕を振りほどきたいのに、ヤヨイの身体は脳からの指令を一切受け付けていなかった。尻に根が生え背中に棒切れを突っ込まれたように硬直し、指先一つ動かせない。
「かえ、る、帰るから……帰るから……」
舌が根元から蝋になっていくみたいだ。馬鹿の一つ覚えのごとく繰り返すと、ゆっくりと腕が離れていく。全身にどっと血が通い始めたのを感じ、ヤヨイは急いで脚を上げ、スカートの裾でくるんだ。
羞恥と怒りで泣きそうになりながら振り返れば、まだそこにしゃがみこんだグレイヴがいた。
なぜか真っ赤になって、握った拳を口元にあてて。
まるで襲われたのは自分だとでも言いたげな様子に唖然とする。なんだその乙女な反応は!
「――あなた、なに? ヒロの友だち?」
だとしたらヒロにも文句を言わなければならない。ジェナも並べてお説教だ、セクハラ野郎を放置した罰だ。
いくらイケメンだからって、断りもなく若い娘さんに抱きつていいわけがない。それともこれが世にいう「ハグ」か? 力いっぱいだった気がするけどそうなのか? いまがそのタイミングだったのか?
じっと睨むヤヨイの前で、グレイヴはいきなり立ち上がった。そしてふっと息をついて背筋を伸ばすと、まだ赤い顔をそらした。
「そうだ。おまえの今後を話し合うために来た」
「え、今後――わたしの?」
それはどういうことだろう。ヤヨイはきれいなカーブを描くグレイヴの顎のあたりに視線を固定し、考えた。
いつまでもヒロの家にはいられない、ということはわかっている。
彼はこの地で学者たちと『外』との関わりについて研究するかたわら、後からやってくる同胞のための活動をしている。そしてヤヨイは、それを手伝うことに吝かではないが同じ目標を掲げているわけではない。
今すぐでないにせよ、いずれは町に出て――それがランドボルグなのか他のどこかなのか、とにかく仕事をして一人で生活していくつもりだ。
そしてその希望をヒロは心得ている。ということは、ランドボルグから来たこの青年は、雇い主になる可能性があるのではないか。
ヤヨイはもう一つの可能性を失念し、目の前が開けるような明るい展望を胸に抱いた。
「そう――わかった、すぐ案内する。ヒロの家だね!」
お愛想いっぱいに笑いかけ、大急ぎで靴を履く。
子羊の革で作られたそれはやわらかくて履き心地がよく、湖への散歩の時にしか使わないお気に入りだ。家の周りや集落を歩くと、動物の落し物を踏むことがあるから、家畜が入り込まない小道限定。
足首の紐を結び終えると、見計らったように手を差し伸べられる。目の前ににゅっと突き出たそれは大きく、掌は硬そうだった。指の付け根に胼胝があり、そこだけ変色している。人差し指に幅が広く素っ気ないデザインの指輪をしていた。
自分で立てるから、と断ろうとしてやめる。我の強い小娘だと思われるのはよろしくない、そう、今後のためにも。
本来ヤヨイは腰が低く雇い主に従順だ。
指示された以上の仕事を自分で見つけてこなし、使える従業員であると認識される努力を怠らない。居心地のいい職場でリストラ候補に挙がらないための処世術だ。
「ありがとう」
小さく礼を言って手を載せると、きゅっと握ってから引っ張られた。その力強く確かな安定感に、こんな顔して意外にガテン系の職業かしらと首をかしげる。店番ならいいけど帳簿付けでもさせられたらどうしようと、少々不安になった。日常会話と読みはともかく、書くのはまだ覚束ないのだ。
無言のまま歩き出したグレイヴは、ヤヨイの手を握ったままはなそうとしなかった。さりげなく引っこ抜こうと試みるも、そのたびに手の力が強くなる。土の地面に着くころには、ヤヨイはあきらめていた。
(なに屋だか知らないけど……店主の息子、ってところかなぁ。今後とかいってただの従業員じゃなかったらどうしよう)
愛人とか。いやまさか。ではこの手はなんだ、さっきのアレだって。でもヒロがそんなこと許すはずない。わからないけど。
グルグルと考えているうちに、仮初めの我が家が見えてきた。開け放った窓から、いつの間に戻ったのかジェナが身を乗り出して手を振っている。
「遅かったじゃない! お茶が冷めちゃったわ」
すねたような物言いだが、なんだか喜んでいる様子だ。その満面の笑みの原因がつながれた手だということに気づいて、ヤヨイはそれを力いっぱい振りほどいた。
「ジェナ! 話があるよ、そこで待ってて!」
気恥ずかしさを誤魔化すために大声を出すと、ジェナは大げさに眉を上げて肩をすくめた。わかってる、あれは全部わかってる顔だ。確信犯だ。
せかせかとドアに歩み寄り、乱暴に開けて家へ入る。
よく考えたらヤヨイの手を引いてきたのだから、グレイヴはここを知っていたのだ、友だちだと言っていたし。いや一本道だと教えたからかもしれない。
「ジェナ!」
居間のドアを開けて怒鳴りつけると、テーブルにいるのはヒロだけだった。カップを両手で包み、そのまま肘をつく彼は、どこか途方に暮れたような表情をしていた。
「おかえり、ヤヨイ。……そこに座って」
「う、うん」
ジェナはどこだろう、お客はほったらかしでいいのだろうか、とちらりとドアに目をやるが、ヒロは無言だ。なんとなくいつもの席――彼の左隣ではなく、正面の椅子に腰を下ろした。
「急にいなくなるから心配した」
「あ、ごめん」
そういえば黙って家を出たのだった。
あわてて謝るが、ヒロは苦笑を浮かべただけで怒ってはいないようだ。
「すぐジェナが教えてくれたから、いいよ。……彼のことは?」
「グレイヴって人? ランドボルグからのお客だって聞いたけど。あ、わたしの今後を話し合いに来たって言ってた」
「うん」
うなずいたきり、ヒロは黙り込んだ。不安定に視線をさまよわせ、なにか考え事をしているようだった。
その常の彼にない沈鬱な様子に、ヤヨイは苛立った。ジェナもグレイヴもわけがわからなくてイライラするし、他のことならいざ知らず、自分のことで隠し事をされるのは腹立たしい。本当は不安だ。
台風の空を舞うビニール袋のように翻弄されるのは、もうごめんだ。
現実感のないここでの生活を受け入れるとき、わけもわからず従うことだけは嫌だとヒロに伝えた。
両親を亡くし、すべてのしがらみから――それがたとえどれだけ無責任な行いであろうとも――解き放たれたはずのヤヨイをもう一度生かそうとするのなら、必ず自分の意思で道を決めたいと。
働くことも頭を下げることも厭わない、けれどそこにはヤヨイの納得する理由がなくてはならないのだ。そうでなければ、捨てた命を再び拾う意味がない。
「ヒロ、なんかあるならはっきり言って」
抗議を含んだ口調に気づいたのか、ヒロがヤヨイを見た。だが悪びれる様子もなく微笑んで、手にしていたカップをテーブルに置く。
「約束してただろ、言葉に不自由しなくなったら仕事を見つけてあげるって」
やはりそのことか。ヤヨイはテーブルに身を乗り出し、大きくうなずいた。
「いいの? 仕事、あったの?」
「考えつく限り、一番条件のいいやつがね。まぁ細かいところはじっくりしっかり詰めないといけないけど――」
と、ヒロがドアのほうに顔を向けた。つられてそちらを見ると、細く開いた隙間からジェナがこちらを覗いているではないか。
「なにしてるの?」
あきれて問えば、ジェナは小さく舌を出してからドアを開けて部屋へ入ってくる。心なしかほっとした表情だ。やはりヒロと同じ理由で何事か思い悩んでいたのだろう。それが解消されたおかげで安心したということか。……なんだったのだろうか。
「ちょうどよかった、君も座って。殿下も」
ヒロに促されて席に着いたのは二人。ヤヨイの右側にジェナ。左側にグレイヴ。
紺色の外套を脱いだ彼は、白いシャツとズボン姿だ。焦げ茶色の編み上げブーツは、脛の半ばで折り返されている。胸に落ちかかるチョコレートブラウンの髪を背中に払い、気だるげに静かに背もたれに寄りかかった。
「……なにか聞き違えたみたい。ヒロ、もう一度ゆっくり」
声をひそめて請うが、両隣の二人に聞こえないはずがない。グレイヴは目線だけヤヨイに、ジェナはヒロに向かって投げかけた。
「ごめんな、ヤヨイ。ちょっと色々と事情があって……ちゃんと話がまとまるまで、仕事の件は内緒にしておこうと思ってたのよ」
居住まいを正したヒロの言葉に、ヤヨイも背筋を伸ばす。その間も視線はグレイヴからはずせなかった。彼は完璧な無表情を保ち、だがどことなくむくれているようでもあった。
「この人は国王の三番目の息子で、グレイヴ王子殿下。今回君を預けるに十分な職場を提供してくれた人だよ。まぁ、実際は第二王子のジェイル殿下の下で働くんだけど、それを見つけてくれたのが」
「待った。……殿下? 王子って、プリンス? ロイヤル・ハイネス?」
思わず日本語を――いや英語を――口走ってヒロに睨まれる。だがそれどころではない。
ここにきてようやく、ヤヨイはもう一つの可能性に気づいた。
彼が雇い主ではなく、スポンサーのお使いであるかもしれないということ。それはとりもなおさず、国王との謁見を急かすための使者がやってきたことを意味する。
(マジ……? さっきめっちゃタメ口きいたし、エルボーくれたような気もする――)
青ざめて口を閉ざすと、ヒロはヤヨイがろくな役に立たない頭の中でなにを考えたのか察したようだ。
「緊張しなくてだいじょぶだって。王様は意地悪な人じゃないし、若い娘を迎えるのは初めてだって大喜びしてるだけだから」
さりげなくプレッシャーだ。
もしかしてお姫様のように着飾らせて楽しむつもりなのだろうか。だとしたらたいへんな期待はずれだ。いまから一目見るなりがっかりする姿が目に浮かぶ。
だがヒロはちゃんとヤヨイの心情を汲み取っていた。十二年前までとはいえ、現代日本に生きていた彼には、突然ドレスとハイヒールを与えられても迷惑だということがわかっている。
「なにも心配しなくていいって、俺いつも言ってるよね。大丈夫、ただちょっと顔を見せてこれからヨロシクって挨拶するだけだから。ヤヨイが嫌ならドレスは勘弁してもらってさ、お茶も夕食もまたの機会にしてもらおう」
(って、やっぱりドレスで晩餐会だったんじゃないか――)
ドレスなんて、小学生のときピアノの発表会で着たのが最後だ。しかも膝丈のAライン。こちらのドレスがどんなデザインか知らないけど、きっと膝丈のAラインではない。
別にお姫様願望などありゃしないヤヨイは、オシャレもダンスも注目を浴びて食事をする趣味もない。興味を持てるような生活もしていなかった。はっきりいって絶望的な気分だった。
「……国王といっても、ただのおっさんだ」
ぼそっとつぶやかれた言葉に、うつむけていた顔を上げる。テーブルに頬杖をついたグレイヴが、皮肉っぽく片眉を上げていた。
「構える必要はない。ただ」
姿勢はそのままに、グレイヴは顔をヤヨイに向けた。
「おまえたちがこれからもなに不自由なく暮らしていくためには、機嫌を損ねるべき相手ではない。あの人の一言で、『外』の人間は裸に剥かれて石を投げられる存在にもなりうる」
わがままも大概にしろ、とその紺色の双眸が語っているような気がした。
立場をわきまえ、身に余る厚遇に対する相応の礼を見せろと。
――死に損ないのくせに、と。