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(うーん、いーぃ天気)
軽く伸びをして、深呼吸をする。
乾いた緑と土のにおい、それから煮炊きをする煙のにおい。眼前には野の草に覆われた平原と、針葉樹が枝を伸ばす森。放たれた数頭の馬と牛。かすかな歌声と笑い声。
のどかだ。
朝から鍋と桶を磨いて凝った肩をもみほぐしながら、ヤヨイは森へと足を向ける。
言葉を学習する時間が減るにつれ、ヤヨイの自由になる時間は増えた。そうすると身に染みついた労働への強迫観念が、ヤヨイを苛むようになってくる。
働かなければ。働いて、お金を稼がなくては。
高校生になって堂々とアルバイトができるようになったとはいえ、大学生や主婦のパートとちがい、勤務時間には制限があった。だから早朝と夜は母が受け取ってくる内職に勤しんだ。
アニメや子どもブランドのキャラクターが印刷されたファイルに台紙をはさんだり、印章シールを貼ったり、カードやシールを枚数ごとに袋に差し込む作業。
一度に千セット、二千セットと片づけるうちに、キャラクターに詳しくなってしまった。テレビもないのに。
三時間ほどの作業で千円になればいい。それでも版権モノを扱う分、他の内職よりは割がよかった。場所や時間を考えなくてもいいし、頑張れば頑張っただけ儲かるところも素晴らしい。
(ああ……カードを数えたい)
両手の指先をわきわきと動かしながら、ヤヨイは空を仰いだ。
内職が切れたらカジノでディーラーでもやるか、と母と笑いあったことを思い出す。
ジャンボシールとかいう下敷きほどもある台紙が振り分けられたときは、父も手伝ってくれた。数を数え、カラフルな封筒に入れ、テープでとめて……どうでもいい話をして楽しかった。
両親はもういない。そしてヤヨイも、もういない人間と同じ。
森の中へと続く踏み固められた小道を歩くと、木漏れ日の中から小鳥の声が聞こえる。高く硬質なそれに混じってコンコンコンと響くのは、キツツキに似た鳥が立てる音だ。
わずかも行かぬうちに、数軒のログハウスのような佇まいの建物が見えてくる。そのすぐそばに大きな湖が横たわっていて、そこが『落下地点』の中心。ヤヨイもそこに浮いているのを発見されたそうだ。
こんな辺鄙な場所にヒロが住んでいるのは、朝晩二回、欠かさず湖面をチェックするため。湖畔の研究所にも同じ役割がある。
このところ毎日、ヤヨイはその湖を訪れていた。自分と元の場所を繋ぐ唯一の接点だったからだ。
人間が落ちてくることは稀だが、物に限ればよくあることだと聞いた。
空のペットボトル、帽子、鍵がついたままのキーホルダー、携帯電話、ゴミが詰まったビニール袋、あの崖の観光ガイド。
研究所で大切に保管されていたそれらを見て、ヤヨイは確信した。崖から落としたものがここへやってくる。けれど品物が製造された年代と回収された時期を鑑みて、それほどの頻度でもない。
(来ることができたなら、帰ることだって――)
だがそれが難しいことを、ヤヨイは薄々勘づいていた。
もしもそれが可能なら、ヒロがここにいるはずない。元税務課職員のアサヌマさんも、オージェルムの下着文化を飛躍的に発展させたというナガヤマさんも、この地で生きることを選びはしなかっただろう。
たとえここへたどり着いた全員が、かつて自ら死を選んだ人ばかりだったとしても。
「…………」
本当にそうかな、と唇をかむ。他人の気持ちなんてわからない。
生きることにまつわる一切を捨てた場所。
いまここに、帰るための扉が用意されたとして――ヤヨイはそれを開けることができるのだろうか。そもそも帰りたいと思っているのだろうか。
頭が重い気がした。不意に自分の頭がひどく膨らんで、その中に泥が詰まってしまったような気がした。
ここにいること自体が奇跡なのだ。
いや、おかしな体験をしたことが、ではない。ぴんぴんして『落下地点』に現れることがだ。
のろのろと脚を動かしながら目をやれば、湖の縁が見えてくる。うっすらと日が差し、青い水面が輝いている。
地方都市の市役所で税務課に勤務していたアサヌマさんは、三十年前にこの場所で発見された。左脚が太ももから失われ、失血のためかなり危ない状態だった。
七年前に現れた、小さな下着メーカーでデザイナーをしていたナガヤマさんは、右肘の下を失くしていた。利き手がないから自分でデザイン画を描けず、とてももどかしい思いをしたようだと聞いた。
ヒロは両脛と左腕を骨折しており、完治したいまでも長くは歩けない。
頭部を失っていた人。右胸から腕がなかった人。湖にうつ伏せで浮かんでいた人。みんな、発見されたときには亡くなっていたという。
ここに至る過程でなにが起きているのか、落下の際に骨折を負ったり身体の一部からそれ以上を欠損している人は珍しくなかった。そうでなくても、溺死していた人も多い。ヤヨイのように打ち身だけでほぼ無傷というのは過去にも数例しかない。
その事実をどう受け止めればいいのか、ヤヨイにはわからなかった。
ここがどういうところなのか、どういう現象に見舞われたのか、生きていていいのか、やはり死ぬべきなのか。
それは考えるのをやめた。
ヤヨイにはもうなにもない。苦しくても辛くても頑張れたのは――頑張らざるをえなかったのは、両親のためだ。元の場所に未練はなかった。ただ、自分の意思に関係なくここにいることが、少し不満というだけ。
ログハウスの壁を伝うように湖の縁を歩き、小さな船着場へと進む。ボートが一艘つながれて、かすかな波に揺れている。
木の板の端に座って底に沈んだ古木の死骸を透かし見ながら、やわらかな革の靴を脱いで湖に脚をつけた。
鳥の羽ばたき。獣の鳴き声。木々のざわめき。生命に満ちた森の中で、そこはあまりに静かだった。
ほ、と短く息を吐いたとき、うかがうようにそっと後ろから声をかけられた。
「ヤヨイ……? 大丈夫?」
オージェルム公用語だ。少し低めの女性の声。
肩越しに振り返ると、長い金髪をゆったりとうなじでまとめたジェナが立っていた。どんな顔をしていたのやら、ヤヨイを見て安心したように微笑む。
「これから帰るところだったのよ。ランドボルグからお客様をおつれしたの、紹介したいから一緒にお茶にしない?」
今日覚えたばかりの場所の名だ。城塞都市? で、町の名前で、お城の名前。
ジェナは研究所の前の所長の娘だ。スポンサーである王様か、お城で働いている学者に会いに行ったのかもしれない。
ヤヨイは水から脚を引き上げ、スカートの裾で雫をぬぐった。靴を履きながら、王様のお使いだったらちょっと困る、と唇をすぼめた。
ヒロの様子といいジェナのお客様といい、嫌な予感がする。
「家には戻るけど、お茶はいらない。読みかけの本を片づけたいし」
本は口実だが、本音でもある。研究所で借りた子供向けの絵本、いつまでも返さないと、学者連中に笑われる。
「でも――そう、わかった」
少しためらった後、ジェナは大きくうなずいた。しかし安堵する間もあらばこそ、彼女はひどく優しげに笑って言った。
「じゃあ読みながらでいいわ、お客様のお相手をお願い。私は先に戻ってヒロに色々報告しがてら、ゆっくりしてるわね」
言うが早いか、ジェナは身を翻して歩き出し、その言葉を飲み込むまでに時間がかかったヤヨイを置いてログハウスへ入って行ってしまった。
「……え?」
読みながらって一体、と呆気にとられるヤヨイの目線の先で、再び開いたログハウスのドアから出てきたのは、茶色い髪の青年だった。
チョコレートだ。
ヤヨイは一瞬、彼が本当にチョコレートを浴びてきたのかと思った。
溶かしたてのチョコレートみたいな色の髪が木漏れ日を受けてツヤツヤと輝き、甘いにおいまで香った気がした。
湖に張り出した橋の上をゆっくりと歩いて、彼はヤヨイの前に立った。靴を履いた時と同じ格好で座り込んでいたから、もしかしたらパンツが見えていたかもしれない。
ドーベルマンかなにか、とにかく大型の犬みたいな印象の男だった。チョコレートブラウンの髪はまっすぐに腰まで流れ、首筋で一つに束ねられている。ざっくりとした前髪は時折湖からの風に巻き上げられ、思いつめたように寄る形よい眉を露にした。ヤヨイをひたと見据える強い意志のこもった瞳は紺色。肩から足首まですっぽりとかぶった濃紺の外套よりわずかに薄い色調。
(は……イケメン外国人)
ぽかんと彼を見上げ、ヤヨイはひそかに感心した。
でもこれで、きっと大して美形とは思われていないのだ、この国では。
テレビのない家で暮らしていたとはいえ、それはここ二年ほどの話。それまではむしろ、外国のドラマや映画を観るのはヤヨイにとって唯一に等しい娯楽だった。
絵に描いたようなグラマラス美女は、俳優の胸毛や割れ顎をなでては「セクシー」だとうっとりし、ムキムキに鍛え上げた上腕筋をつついて「まるで神ね」と称えていた。
その感覚がヤヨイには理解できない。ドキドキするような甘いシーンでも、そういうセリフを口にされた途端、高鳴りかけた乙女心があっさりしぼんだ。
マッチョは、まぁ嫌いではないけれど。
ジェナの言動を間近に見てきたこの数ヶ月で、ここも男性に対する美的感覚がヤヨイとかけ離れていることを知っている。ヒロは別腹だと彼女は言うが、愛でて楽しむのはやはりむさくるしいマッチョである。
ということは、日本人の十代女子にウケそうな顔立ちのこの青年は――こちらでの評価はいまひとつだろう。
価値観の相違というのは残酷だ、わたしは綺麗だと思うから気を落とさないように。そんなことを考えている間中、彼の顔をジロジロと眺めていたことに、ヤヨイは気づかなかった。
「……ヤヨイ?」
うっすらと目元を染めた青年が、居心地悪そうに身じろぎする。その声にはっとして、ヤヨイはあわてて立ち上がった。やっぱりパンツが見えていたのか。
スカートの裾を払って顔を上げると、彼がひどく背の高い人だと気づく。春の身体測定で、昨年度の十七歳女性の平均身長ジャストであったヤヨイが、ちょっとした角度まで首をそらさなければならない。
アパートのドアと同じくらいか……もう少し高い。手を伸ばしてよければ正確にわかるのに、ドアの拭き掃除はヤヨイの仕事だったから。
「えーっと、こんにちは。ヤヨイです。あなたはだれですか?」
取り繕うように口走ったオージェルム公用語は、なぜかカタコトだった。
必死で勉強したのは、まさにこういう瞬間のためだったはずなのに、と臍を噛む。見知らぬ人とも不自由なく会話ができるようになったら、町で仕事をさせてやるとヒロは約束してくれたのだ。
もしかしてそのテストのための客だったのだろうか。ヤヨイは自分のミスに舌打ちした。
しかしヤヨイの心中などあずかり知らぬ彼は、それが自分という存在に向けられたものと受け取ったらしい。
やや怯んだように眉を上げ、小さく咳払いをした。
「……俺の名はグレイヴだ。――は、はじめまして」
「はぁ、どうも。はじめまして」
湖面を渡る風が水面を揺らし、梢をざわざわと鳴らす。
ヤヨイは乱された髪を耳元でおさえ、グレイヴという青年が次の言葉を吐き出すのを待った。
紺色の瞳はヤヨイを見つめている。二十歳ぐらいだろうか。でも外国人は老けて見えるから、もっと若いのかもしれない。
「……あの?」
なかなか話し出さない彼に、ヤヨイは焦れた。用があるなら早くしてくれないか、と促そうとしたところで、ジェナがお客様の相手をしてくれと言い残していったことを思い出す。
ということはあれだ、ここで気の利いた話題を提供するのはヤヨイの役目ということか。そしてそれこそが、語学検定の最終試験なのかもしれない。
ヤヨイはあわてて話題を探した。せわしなくあたりを見回し、とりあえず定番中の定番、お天気の話でも、と思ったとき、グレイヴが動いた。
濃紺の外套を翻し――まだ初秋だというのに暑苦しいことだ――木の板でブーツの踵を鳴らす。
「ここに用はない。ぐずぐずしないで、さっさとヒロの家に案内しろ」
ハジメマシテと言った時と大違いのぶっきらぼうでえらそうな口調に、ヤヨイは思わず彼の澄ました横顔をまじまじと見た。
この数ヶ月間、だれからもこれほど上からものを言われたことがない。明らかな命令形だ。見ず知らずの他人にそういう態度を許すほど、ヤヨイはできた人間ではなかった。
「……ヒロの家なら、その道をまっすぐ行けばわかるよ。森を出て一軒目だから」
気分を害し、言い捨ててその場にしゃがんだ。
先ほどと同じように靴を脱ぎ、グレイヴに背を向けて水に足を入れる。絶えず吹きつける風に身体は冷え、つま先に感じる水の冷たさに身がすくんだが、後悔先に立たず。
奴がどこかへ行くまではこうしていよう、と水を蹴り上げた。
そもそもヒロの客なら、そのままジェナが一緒に連れて行けばよかったのだ。紹介もせずに押しつけるなんて、彼女らしからぬ無作法だ。
オトナとしてどうなのよ? ってそれは愛想笑いの一つもできない自分もか、と唇をとがらせていると、背後で衣擦れの音がした。
グレイヴが立ち去るところだろう、と振り返ったヤヨイの視界が、真っ白に染まった。




