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over again  作者: れもすけ
第八章
47/48

〜 ヤヨイ 〜




 キックベースだ。キックベースをしている。

 ヤヨイは老若男女入り乱れてのボール遊びを、しばし呆然と見つめた。

 およそひと月ぶりに訪れたランドボルグ城、その開かれた下層のホールは、相も変わらず混沌としていた。

 書類を抱えてせかせかと歩く文官がいれば、杖をつきながらよろよろと進む老人もいる。お手製らしき弦楽器を弾きながら歌う人が三人もいて、それなりに離れているとはいえ相当な不協和音を響かせているし、しかもそれをだれ一人として聞いちゃいない。

 猫を膝に乗せたおばさんは、敷物を敷いて勝手に果物を売っているのだが、城内での市民の商売は確か禁止されていたはずである。でもヤヨイが見ている数分の間にも幾人かの客がいたのだから、いい……のかもしれない。


 そしてアレだ、キックベース。

 ヤヨイは床に木炭で引かれたと思しきラインを見つめ、そこに確かに野球のダイヤモンドを認めた。しかし試合に用いられているのはシームの入った白球ではなく、ラグビーボールのような形をした茶色い物体。それをピッチャーらしき人がアンダースローで放り投げ、バッターらしき人が一塁方向に蹴り飛ばしている。

 誰かが野球を伝えようとしてボールの再現で挫折し、このような形に落ち着いたのだろう。だが如何せんラグビーボールではまっすぐ蹴ることなどできず、もはや野球のルールからも逸脱し始めている感は否めない。

(小学校の頃、やったな……ドッジボールの球を使ったけど)

 遠い目で案外白熱している試合を眺め、ヤヨイは歩き出す。


 今日ヤヨイが着ている服は、ジェナのお下がりでもおばあちゃんのお手製でもない。街の服屋さんでジェナが見繕ってくれた、新品のいわゆる「ちゃんとした」服だ。こういう服の既製品はあまり数がなく、サイズが合わない部分はジェナとおばあちゃんが直してくれた。

 形としては踝丈のチュニックで、色は光沢のある藍色。胸の下にぐるりと明るい青のリボンを巻いて背中で結んである。肩は詰まっているが袖にいくほどゆったりと布が広がり、着心地は悪くない。旅の間に履き倒したいつものブーツではなく、底に革を貼って木のヒールをつけたナガヤマ型布靴を履いているのも、おめかしの一環だ。石畳ですぐにヒールが傷むので、庶民は履かない高級品だそうな。

 伸ばしっぱなしだった髪も、ジェナが丁寧に梳かして切りそろえた後、ハーフアップに結ってくれた。胸部分とお揃いのリボンはカチューシャのように耳から耳へと渡され、上手に結び目を隠して結ばれている。「ミツエが教えてくれた髪型よ」と、ジェナはそっと呟いた。


 上層へと至る階段の下で警備隊のお兄さんに会釈をしながら、着飾るための資金を提供してくれた人のことを考える。

 一昨日の朝、ヤヨイが裏庭でジャガイモを剥いている時にやって来て、応対に出たおばあちゃんにお金を渡してさっさと帰ってしまった人。呑気におじいちゃんのチェスを眺めながら芋を剥いていたヤヨイは、彼の顔を見るどころか声すらも聞いていない。

 謁見のための支度金だそうよ、と銀貨の入った袋をおばあちゃんから渡されて、とてもがっかりした。会いたかった、と思った。

 でも後になってから、会えなくてよかった気もしたのだ。


 スウェンバックを出てから、ヤヨイは彼の馬に乗せてもらって五日かけてランドボルグまで帰って来た。

 馬なんて乗ったことがなかったから、初めはどこにつかまればいいのかもわからなかった。馬が歩けばプラプラ揺れる自分の足が彼の脛に当たって申し訳なく、変に力を入れた太ももはすぐに悲鳴を上げた。

 寄りかかっていろ――そう耳元で囁かれて、ヤヨイはぎょっとした。自分のことに精一杯で気にならなかったのだが、後ろから彼に抱かれるようにして支えてもらっていたのだ。

 あわてたヤヨイはバランスを崩して馬の背から滑り落ちそうになり、つかまえてくれた腕にしっかり拘束されてしまう結果となった。


 同行者はゲランの他に二人の近衛騎士がいて、だからというわけではもちろんないが、別にベタベタしていたわけではない。彼は純粋にヤヨイが落馬しないよう気遣ってくれただけだろうし、わざわざ耳元に話しかけてくるのも、蹄の音が意外と会話の邪魔になるからだろう。でもヤヨイはものすごく緊張したし、ものすごく恥ずかしかった。

 道中、ちゃんと浴室のある宿に泊まれたから髪は洗っていたけれど、『外』のようにいい匂いのシャンプーがあるわけでもない。なのに彼の上着からは花の匂いがしていたたまれないし――後でジェナに「ああ、虫除けの匂いね。上等な服ほど虫に食われちゃうから」と言われて驚いた――、真っ赤になるヤヨイをニヤニヤしながら見ているゲランにも腹が立つし、そんなゲランと彼がケンカし始めるのも困ってしまう。


 なにより馬、馬だ。

 慣れない揺れと目線の高さに突っ張った太ももは筋肉痛もさることながら、鞍に当たる皮膚が全滅した。柔らかな内ももから尻まで、満遍なく擦れて赤く腫れ上がり、揺られるたびに打ちつけられて痣にもなった。でもそんなことだれにも言えないから、宿の部屋で一人になると、苦労して足裏用の薬を塗ってどうにかしのいだのである。

 十七日間歩き続けたヤヨイの足の裏は、それはもうひどいことになっていた。肉刺が潰れて皮はむけ、それが硬くなってボコボコになり、ゆっくりお風呂でふやかすこともできなかったから厚くなった踵の皮は白く変色している。

 でも、これは勲章だ。そして衝動と逃避の証拠であると同時に、戒めでもある。この足を見れば、どんな事態でも立ち向かわねばと思えるのだ。――そう、うつ伏せで尻に薬を塗るような事態にも。


 つまりその五日間を終えて帰宅したときには、ヤヨイはすっかりくたびれ果てていたわけである。ジェイル王子に自宅待機を言い渡された数日でだいぶ回復したものの、やはり気構えもなくいきなり会うのはまずい。

 だって、芋の皮を剥いていたのだ。汚れてもいいように家事専用の服だったし、髪も適当にオバサン縛りだったし、手は泥と芋の皮にまみれていた。

 だから今日、ジェナにされるがままおしゃれをするのが、少し楽しみだった。もちろん、昨日からランドボルグに泊まりがけでやって来ていたジェナのご主人に、しこたまお説教されてからだったわけだけれども。

 藍色のワンピースに目を落とす。うん、可愛い。

 様々な要因による不安は胸の底に沈めて、ヤヨイは顔を上げて階段を上った。一歩一歩、あの旅でそうしたように、自分の意思を込めながら。




 王様の部屋へと続く廊下の途中に佇む人影を見つけて、ヤヨイは足を止めた。

 赤っぽい丈の長い上着を着て、腕組みしながら窓の外を眺めている。チョコレート色の髪は結わずに背中へ流されていた。

「……王子」

 知らず口からこぼれた声に振り向いたその顔を見て、やっちゃった、と、ヤヨイは地団駄を踏みたい衝動に駆られる。次に会ったら、絶対に彼を名前で呼ぼうと決めていたのに。

「ヤヨイ」

 己に対する失望は、だが表に出てくる前にしぼんで消えた。ヤヨイの名前を呼んだ彼が、嬉しそうな笑顔で駆け寄って来たからだ。


「おはよう。なんだか、久しぶりに会う気がするな」

 照れ臭そうに目を細める王子に、ヤヨイの頰に血が上る。

「お、おはようございます。そうですね、久しぶり、ですね……」

 真っ赤になって俯いたヤヨイは、自分が着ているワンピースを見てパッと顔を上げた。

「そうだ! これ、王子に――」

 そしてヤヨイは見た。蕩けるように甘く自分を見つめる、王子の瞳を。

「……い、いただいた、お金で、買った服です……ありがとう、ございました……」

「そうか」

 ヤヨイのしどろもどろ加減などまったく気にした風もなく、王子は微笑んでいる。ヤヨイはどんな顔をしていいのかわからず、目をそらして再び俯いた。


 ヤヨイは無性に叫び出したくなってきた。王子は自分がとても、少なくともヤヨイの常識ではとてもとても美しい人なのだと、わきまえてくれたらどうなんだと。

 思えば初対面からこちら、バタバタしっぱなしだった挙句、到底自然な流れとはいえないまま異常事態の中でアンナコトになったのである。ろくに二人で話す機会も持たないまま別れてしまって、今日が初日といってもいいほどだ。

 ――恋人として会うのが。

「……ッ」

 考えた途端、顔から火が出たかと思った。

 恋人、その響きの破壊力ときたらどうだ。自覚も意識もしていなかったから乗り越えられたようなものだ、あんな風に抱き合ったり、あまつさえキスしたりなど。


 でも、そうか、恋人。

 ヤヨイは熱くなった頰に辟易としながら、ちらりと王子の手を見やった。

 もしかして、手を繋ぎたいとか言ってもいいのだろうか。いやしかし、はしたないと思われたら嫌だし自分から言い出すのは恥ずかしいというかなにか悔しい。

 もじもじしながら俯けていた視界の中で、王子の脚が動いた。一歩、大きくこちらに踏み込んだかと思うと、左手でヤヨイの肩を抱き込む。引き寄せられたヤヨイはわずかに踏鞴を踏んで、王子の胸にもたれかかった。

「わっ」

 驚いて色気も素っ気もない声を上げたヤヨイの頰を、王子の右手がそっと撫でる。その後を追うようにして、唇が触れてきた。


「よく、似合ってる……顔を見せてくれないか?」

 艶を帯びた声で囁かれ、ヤヨイは呼吸困難に陥った。心臓は胸いっぱいに膨れ上がって大騒ぎである。以前のヤヨイだったら、緊張と混乱で王子を突き飛ばして逃げているところだ。

「頼む」

 耳たぶに触れる唇がくすぐったくて、びくりとふるえた。顎にかかって促す指先は決して強引ではないから、ヤヨイは己の意思で顔を上げた。


(できる。学習してる。できる子。ワタシできる子!)

 ちっとも場にそぐわない心の掛け声で己を鼓舞し、ヤヨイは目に力を入れて王子を見た。目ばかりか口元にも頰にも、なんなら腕から足から全身に力を入れまくって。

 滑稽なほどの力みっぷりを笑われるかも、と危ぶんだのも一瞬。ぐっと詰まったように息を飲んだ王子は、困った顔で目元を赤く染めた。

「ヤヨイ……」

 笑われはしなかった。けど、困らせた?


 あれ、と内心で首をかしげるヤヨイの目の前が、急に薄暗くなった。と思ったら、力の抜けた唇をふさがれていた。

「ふ……っ!?」

 驚きのあまり、ヘンな声が出た。それを恥じる間もなく、唇の隙間をペロリと舐められる。反射的に口を閉じてしまったため、王子の舌をわずかに吸う結果となった。そのまま引き抜かれた舌が上唇の裏側をこすって、背筋に痺れが走った。

(な、な――)

 どうして急に、なぜいま、と直前の自分たちを「いい雰囲気だった」と理解できないヤヨイは目を白黒させる。そんなヤヨイの前で、王子は満足そうに笑った。


「行くか」

 そう言って差し出された手に手を取られ、ヤヨイは覚束ない足取りで歩き出す。

 どこへ、とは問わない。そもそも王様に会いに来ているのだ。

「…………」

 ちらりと窺い見た王子の横顔は、ご機嫌だ。ヤヨイはまだドキドキしてるし狼狽えているというのに、不公平ではないか。

 まだ感触の残る唇を指の背で押さえながら躓きそうになる足を引きずっていると、王子が歩みを止めないまま屈み込んで来て、囁いた。

 目を潤ませて、きゅっと唇を噤んで、恥ずかしそうに身を縮こませるおまえはとても可愛い――と。

 その言葉こそ恥ずかしくて、ヤヨイは泣きそうだった。




 王様の部屋の前には、二人の近衛騎士が立っていた。イーサン・ホークと、あと一人は見慣れた人ではなかったけれど、王子より少し年かさの彼らの眼差しは優しげだ。繋いだ手から王子の顔に流れた視線は、どこか生ぬるくさえある。

 ヤヨイはいたたまれなくて眉毛がへにゃりと下がったが、王子は顎を上げて鼻を鳴らし、彼らが開けてくれたドアから堂々と中へ足を踏み出す。引っ張られるようにして続いたヤヨイの背後で、そっとドアは閉まった。

 放された手が自然と背中へ回り、ヤヨイを支える。そのことに勇気づけられ、ヤヨイも王子の横に並んで部屋の中を見回した。


 切り取ったように小さな窓は鎧戸が開けられ、僅かながらも明るい日差しを呼び込んでいる。部屋の奥にある質素な椅子には王様が座り、ロアード王子とジェイル王子がその横に立っていた。

 意外だったのは、そこにガルム室長がいたことである。ヤヨイたちの姿を見とめて壁際に下がったことから、今までなにかの話し合いをしていたのだろう、とヤヨイは思った。

 室長が身につけた紺色の上着と、腰に下げた剣。そのままドアの横に立っていても違和感のない姿だ。もちろんその袖は、スウェンバックにいた時と違ってちゃんと腕が通されている。

 ヤヨイのあずかり知らぬ事情があるのだろう。むしろヤヨイには知らないことだらけだ。けれどほんのちょっと気遣いを込めて見つめた視線に、室長は静かに微笑み返してくれた。事情がわからないなりに、いい方におさまったのかなとヤヨイは察した。きっともう、この人を室長と呼ぶ日はこない。


「ヤヨイ」

 椅子の肘掛けにもたれた王様に呼ばれ、ヤヨイはビシッと背筋を伸ばした。にわかに高まる緊張で口元がこわばる。恐る恐る顔を向けると、王様は指先でヤヨイを呼び寄せた。

 こっちに来い、という意味だとはわかるが、思わず傍らに立つ王子を振り仰ぐ。すると彼は小さく頷き「俺もこれから沙汰を聞く」と囁いた。つまり怒られるのか責められるのか叱られるのか、彼も知らないということだ。泣きそうである。

 しかしその割に、王子の表情に悲壮なものはない。親子の気安さからかもしれないが、ヤヨイはそれだけを頼りにぎこちなく前に進み出た。王子も一緒だ。


 二メートルほど手前で立ち止まり、お腹の前で組み合わせた手を握りしめる。そのまま頭を下げ、王様の言葉を待った。視界の端で、王子も同じようにしたのが見えた。

「グレイヴ、ヤヨイ。顔を上げて」

 聞こえたのは、ジェイル王子の声だ。高くも低くもなく、感情の揺らぎもない。それがいいことなのかどうかわからないまま、ヤヨイは指示に従う。

 久しぶりに間近にしたジョージ・クルーニーは、どこか気だるげに、王子を眺めていた。肘掛けに頬杖をつき、長い脚をゆっくりと組み替え、息をつくまでの時間が永遠に感じられた。


「アサヌマが――」

 だから王様の口から飛び出した名まえに、一瞬だけダレソレと思ったのは無理もないはず、とヤヨイは思う。それがヤヨイ的大事件のそもそものきっかけとなった人のことだと思い至って、ヤヨイはうろたえた。

 結局会えなかったのだ、アサヌマさんには。なんだか色々とうやむやなまま、でもだれかに事情の説明を要求できる立場でもない気がして、ヤヨイは促されるまますごすごとランドボルグに帰ってきたのである。


 思わずじっと見つめると、王様は器用に片方の眉を上げた。

「手紙を寄越してな。時間を取れずにすまなかった、だそうだ」

「そ、そんな……わたしの方こそ、あの、勝手に押しかけて……」

 エメラルドグリーンの瞳に見返され、口の中がカラカラになっていく。うつむきそうになるのを必死にこらえて、ヤヨイはふるえる唇を抑えようと必死になった。

 言うべきことを考えて、ちゃんと用意してきたのに出てこない。紙に書いて暗記してきたはずなのに、異国の言葉は頭の中で花火のように弾け飛んで消えてしまった。


 だれもなにも言わない。でも、王様も、三人の王子も、ガルム室長もヤヨイを見ていることだけはわかる。

 鼻の奥がツンとしてきて、ヤヨイはぐっと歯を食いしばった。泣いちゃダメだ、泣くところじゃない。でもいま口を開いたらしゃくりあげてしまいそうで、ますます他人の時間を無駄遣いさせてしまうことに罪悪感がこみ上げる。

 呼吸をするのも憚られるような心地に陥ったとき、不意に背中に手をあてられた。ビクッと自分でもおかしいくらい身体が揺れて、横にいる人を見上げる。

 いつもより明るい藤色の目立つ瞳が、ヤヨイを見ていた。あ、大丈夫だ、と思った。


 緊張と緩和の作用なのか、王子の瞳は間近で観察すると色の変化がよくわかる。彼がどんよりしているときはただ紺色なだけで、こんな風に藤色混じりになるときは、あまり悪いことが起きないとヤヨイは経験的に知っていた。

 実際にはサンプル数が少なすぎて断言できるほどの根拠ではないのだが、ヤヨイは与えられた勇気を手放さず、一度だけ深呼吸をした。

「ご、ご迷惑を、おかけしました……すみません、ごめんなさい……」

 それでも口にできたのはこれだけだったが、精一杯だ。あとは日本人的誠意の見せ方、謝罪の意思を伝える方法として、土下座でもするしかない。


 乾いた口の中で無理やり唾を飲み、組み合わせた手に力を込めて王様の言葉を待つ。やれと言われてもいいように、土下座のシミュレーションをしながら。

 王様はがっしりとした顎を撫で回しながらヤヨイを見つめ、やがてニヤリと笑った。

「冒険したな、ヤヨイ」

 楽しかったか、と続けられ、真っ白になった。

 ――冒険? 冒険て?

 頭の中で何度も反芻しているうちに、王様は王子に向かってなにか難しい言葉を投げ始めてしまった。背中の手も離れ、王子も同じように難しい言葉で返事をしている。

 話の内容は理解できないが、王様の興味がヤヨイから逸れたことだけはわかる。そっとジェイル王子を見やると、王子はひょいと肩をすくめて苦笑した。


(え、土下座は?)

 まさか、あれで終わりなのだろうか。もっとこう、怒られたり、罰を言い渡されたり、なにかないのか。いや、ないならないで構わないのだが――いやいや、やっぱり罰を下された方が気楽なような。

 予想外の事態に目を白黒させているヤヨイの耳に、ようやく聞き取れる言葉が聞こえてきた。

「アルガンダワに遣わす者は既に選定に入った。グレイヴはロアードの下に、ヤヨイはジェイルの補佐につけ。いずれ適当な領地を用意しておくから、上の二人が片づくまでは精々励めよ」

「はい」


 短い返事とともに王子が頭を下げ、さっと踵を返す。呆然としていたヤヨイは慌てて続こうとし、思い留まってジェイル王子を見やった。王子の白い手がしっしっと追い払うように動いたので、ヤヨイはためらいながらも王様に頭を下げて、グレイヴ王子を追った。

 ドアの横にいた近衛のおじ様達がノブに手をかけたのと同時に、王様が「もう一つ」と声を張り上げる。

「城内に邸を押さえた。もう家出されるなよ?」

 振り向いて見た王様の顔は、少し遠目にも面白がっているようで、ヤヨイは首を傾げつつその視線の先を追う。

 隣に立つ人は不快げに眉を顰めていたが、その顔は真っ赤に染まっていた。




 短いというよりもあっけない謁見をすませると、我知らず安堵の息がもれた。同時に強張っていた肩からも力が抜け、ようやく目を見開いて世界を見られるような気になる。ずっとそばにいてくれた王子を見上げると、彼は小さく笑って手を差し伸べてきた。

 あ、これいい、とヤヨイの胸がキューンと引き絞られる。勝手に抱き寄せられたりも悪くはない、というか大分ときめくが、いかんせん突然すぎて精神衛生上よろしくない。だがこういう、ヤヨイのペースに合わせてくれるようなやり方は、とても気遣ってくれているようで嬉しい。

 おそるおそる指先をつかむと、しっかり手を繋ぎ直される。どこへ、と予告されることもなく歩き出した後ろ姿を、イーサン・ホークが笑って見送っているだろうと思えば背中がむず痒かった。

 開けっ放しの窓から、風に乗って威勢のいい掛け声が聞こえてくる。一瞬だけ歩調が乱れたけれど、王子は立ち止まらなかった。


 いつもジェイルの部屋から辿ってきたのとは違う道で、いつもと違う階段を降りる。一体どれだけの階段がどこにあるのか、ヤヨイにはわからない。地図も案内表示もない城内は、まるで迷路だ。

 むき出しの石壁が続く廊下をしばらく行くと、黒っぽい木の扉の前で王子は歩みを止めた。閂にかけられた南京錠をポケットから取り出した鍵で開けて外し、開かれた扉から中へ通された。

「俺の部屋だ。あまり使ってないから、もてなしの用意もないのだが」

 部屋の真ん中に据えられた一人掛けのソファ見たいな椅子に促されつつそう言われ、そんな全然、ともごもご呟く。


 お部屋。王子のお部屋にお呼ばれしてしまった!

 途端に緊張のためドキドキするのを隠しながら、こっそりと室内を見回す。広さはあまりないが、スウェンバック城で通された部屋よりよほど人間味がある、と感じたところで違和感を覚えた。

 なんだろう、なにか、椅子――そうだ、椅子の数が多過ぎる。まさかだれかと共用の部屋でもあるまいし、それにしたって色も形も用途も様々だ。

(椅子道楽……? 椅子の、コレクター?)

 暖炉の前に置かれたものなど、小ぶりでも肘掛の下や脚に草花が彫り込まれていて、とても可愛らしい。張られた座面の布も、薄暗い部屋では浮き上がるように華やかな色合いだ。自分用、ではないだろう。


「王子は、椅子が好きなんですか?」

 趣味の話ならとりあえずの話題にもなろう。窓の鎧戸を開け、向かいのソファに座った王子に何気なく問いかけると、彼はヤヨイの目線の先にあるものを見て眉をひそめた。そしてバツの悪そうな顔で、俯いてしまう。

「別に、好きなわけでは……」

「え、そうなん、ですか……」

「…………」

「…………」

 沈黙。それも非情に気まずい沈黙が舞い降りる。

 おかしい。ここはそれぞれの椅子について王子が熱く語り出すところであって、断じてこのような空気になるところではないはずだ。


 どうしよう、もっと踏み込んだほうがいいのだろうか。じゃあどうしてこんなにたくさん椅子があるんですか? 貰い物ですか? まさか自分で作ったんですか? とか。

 できるはずがない。ちょっと落ち込んでるのかなと思うくらい陰った表情の人に、そんな質問ができるわけがない。

 ズーンと音がしそうなほど暗くなってきた王子の様子に、ヤヨイはあせった。ソファの上であわあわと身じろぎし、別の話題を大急ぎで脳内の小人さんに発注する。

「ええと、あの、そう、お仕事! 王子はお仕事、どうなるんですか? ちょっと難しくてわたし、よくわからなかったんですけど」

 ヤヨイとともにある割に、小人さんはいい仕事をした。王子が顔を上げ、微笑んだのだ。


「兄上たちが正式に妻を迎え、特にジェイルの身の振り方が決まるまでは、政務について学んでいくことになる。まずはロアード兄上について、一から勉強だな」

 陰鬱な様子の消えた王子の顔に、ヤヨイは心からほっとした。つられるように笑って頷き、王子の説明に耳を傾ける。

「ロアード兄上には既に決まった女性がいるが、ジェイルは相手を見つけるところからだ。そしてジェイルも片づいたら、ようやく俺の番になる。おそらくは――大公領のどこかへ、赴任することになるだろう」

 わずかに言い淀んだのは、それがスウェンバックだからかな、と思った。領主が亡くなり、いまは喪に服しているのだという。代理の人がどうにかしていると、イゼおじいちゃんが言っていた。


 亡くなった叔父さんが務めていた仕事を引き継ぐのは、心情的につらいものがあるのかもしれない。そう思えば、気軽にもしかしてスウェンバックですか、と尋ねるのもはばかられる。

 コメントに困って口を開けたり閉じたりしているヤヨイに、王子は突然爆弾を投げつけてきた。

「その時は、ついて来てくれるか。大公夫人――俺の、妻として」

「……え?」


 その言葉の意味を飲み込みそこねてぽかんとするが、王子はいたって真面目に言い募る。

「まだ数年、ジェイルが身を固めるまではもっとかかるかもしれないが、俺はランドボルグを離れるならばおまえと共にと願っている。……知らない場所は、怖いか?」

「こわ……え……?」

 夫人? 妻? だれが? 自分が?

 バカみたいに口を開けっぱなしにするヤヨイに、王子は小さく苦笑した。そして両手を広げ、おいで、と言った。

 ふらふらと立ち上がったヤヨイは彼の前まで進み出て、差し伸べられるがままに手を取った。無理のない力で引き寄せられたかと思えば、ポンポンと王子が自分の膝を叩いて今度こそ固まった。

 ――ひざ。膝に、座る?

 そのハードルの余りの高さに衝撃を受けるヤヨイに、王子は微笑みながらなおも膝を叩いて座れと要求する。

(いやいやいやムリでしょう! ムリだから絶対に!)


 即座にお断りしようと王子を見やる。でもその顔が、笑いながらも実はちょっと必死で、綺麗な紺色の瞳の奥が揺らいだようで――ヤヨイは意を決して従うことにした。

「し、しつれい、します……」

 肩をすくめ、王子の膝の先にお尻をつけて、まさか体重をかけられるわけもなく完全な空気椅子状態で。

 なんの試練だろう、なぜ自分はカレシのお部屋で全力で筋トレをする羽目になっているのか。

 力の入った太ももはプルプルふるえ、姿勢を保つために背筋も限界まで酷使している。呼吸すらもままならないほど緊張したヤヨイは、だが後ろから聞こえたプハッと噴き出す声と共に思い切り抱き寄せられた。


「わわわっ!」

 妙な声を上げるヤヨイなどお構いなしに、王子は暴れる隙どころか体勢を整える間も与えず耳に口を寄せてくる。

「おまえが好きだ」

「――ッ!」

「俺は、おまえが、とても、愛しい」

 一語一語区切りながら流し込まれる声は甘く、脳みそから痺れるようで、中途半端に身を起こしかけた姿勢のままで動けない。腰に回された腕が片方だけはずれ、力んだ顎を捉えて上向ける。そこには当然王子の顔があって、それはそれは楽しそうに瞳を輝かせていた。


 一瞬で顔が熱くなる。急激な血圧の上昇に目眩がして、視界がブレた気がした。

 力を抜け、と囁かれた。もっと寄りかかって、ちゃんと顔を見せてくれ、と。

 できるはずがないと思うのに、その声がやっぱり甘いばかりではないのもわかる。ぎゅっと抱えられていた腕が緩んで、逃げてもいいと――逃げられても仕方がないと、どこか諦めているように感じた。

 ヤヨイはぎゅっと瞼を閉じ合わせてから、手を振り払って遠慮なく立ち上がった。すかさず振り返って見下ろすと、紫紺色の目は見開かれ、引き結ばれた唇はヤヨイの所業に傷ついているように見えた。

 やっぱり、と思った。強引なくせに、ヤヨイに選ばせようとするくせに、やっぱりどこか卑屈なのだ。


「失礼します! 重いですよ!」

 ムカッときたヤヨイは、高らかに宣言していまいたところにもう一度腰を下ろした。勢いの割には慎重に、できれば本当は重いなんて思われたくない、などと悪あがきをしながら細心の注意を払って、王子の太もものあたりに横向きに座る。

(あとなんだっけ、力を抜いて寄りかかる? ムリだっていうの!)

 できあがったばかりの恋人にするには、相当な無茶振りだ。しかし内心で盛大に文句を言いながら、結局は彼の望み通りにしてあげた。

 だが、つらい。なまじ横向きに座ってしまったがために、王子の胸に寄りかかろうとすれば自分の腕が邪魔なのだ。開き直ったヤヨイは、いっそのことと邪魔な腕を王子の腕の下から背中に回して、ソファの背もたれとの間に突っ込んだ。


 目線が高い。いつも見上げる場所にある王子の顔が、すぐ横にある。

 おひざ抱っこよりも、その広い胸に抱きつくことよりも、顔を見せるというのが最大の試練になろうとは完全な盲点である。それだけは勘弁してもらおう。

 今さらながら、とても大胆なことをしたのだと自覚して心臓がドキドキしてきた。震えもとまらない。

(でも……離れたく、ない)

 不思議だ。一度こうしてしまえば、なにを抵抗していたのかと首をひねるほど、王子の膝の上にいるのは気持ちよかった。胸が高鳴りすぎて痛いのも、そわそわする居心地の悪さも。


 そっと、王子の腕がヤヨイの身体に巻きついてくる。背中を支え、大きな手が肩をつかむ。目を合わせることはできなかったが、こめかみにすり寄せられた唇の感触に、するっと自然に言葉が出てきた。

「一緒に、行きます。わたし、オージェルムのことが全然わからないから、どこにいても同じなんです。だからあの、王子が……あ、なたが、いれば、どこでもいいんです……」

 恥ずかしい。身体の芯がぎゅうっと絞られるように痛い。でも、言わなければいけないのだ。ヤヨイはもう一人ではない、この、ヤヨイのためにあたたかな胸を空けておいてくれる人のために、この人が望むのなら、口にしなければならない言葉はたくさんある。

 でも、さすがにここらが限界だ。肝心な言葉を返せない代わりに、ヤヨイは王子の肩にもたれかかって頰を寄せた。

 

「ヤヨイ……」

 小さなつぶやきの後、ぎゅっと抱きしめられた。

「……ありがとう」

 あれ、泣いてるのかな。

 震えた声にギョッとして、でも顔は上げなかった。まだちょっと慣れないけれど、彼が泣きたい気持ちを隠さない人だと知っているから。わかってるから、いいのだ。

 ヤヨイは切ない気持ちのまま無意識に、赤っぽい上着の胸に流れ落ちるチョコレート色の髪を撫でた。今日は花の匂いがする。嗅ぎ慣れた――いつの間にかそこにあるのがあたりまえになっていた香りを、すんと吸い込む。ジェナは虫除けと言うけれど、単純にいい匂いで好きだ。


 わたしを好きなところが好き。それは言葉にすると相も変わらぬ傲慢さでもって響いたが、ヤヨイはもうそれでいいと思えている。

 彼が差し出す気持ちは、どこか傷だらけで、想ってくれる理由がよくわからないだけに一点の曇りもないとは言えないけれど、とにかくヤヨイを求めてやまないと懸命に訴えている。だからヤヨイは、それを――彼が発する必死さとか、真摯さとか、曖昧でも本当のこと、とか――そういうものを信じるのだ。


 この人はきっと、わたしを守ることにも同じくらい尽くしてくれる。大事にしてくれる。多少バカなことをやらかしても、おいそれと離れはしない。そう信じられるくらい求めてくれるから、だから、ヤヨイも同じものを返せると思った。

 安心。そう、安心できるのだ。彼の中の一番近く、目を向ければすぐに見える場所、手を伸ばせば触れられるところに、きっとヤヨイを置いてくれるから。決して拒まないという安心感を与えてくれる彼を、ヤヨイは好きになった。キラキラしてばかりではなく、ピカピカなばかりでもない、けれど心からの想いだ。


 ひと月前、無自覚に受け取っていたもの。いまはちゃんとわかって、大切に胸にしまっている。

 もう、魔法の呪文はいらない。最初から欲しくなかったなんて、嘘の言葉を唱えなくていいのだから。

 くすん、と鼻をすすった王子の頰が、恥ずかしそうに緩むのが視界の端に見えた。ヤヨイ、と呼ばれて、目だけを上向ける。

 少しだけ赤らんだ目元を隠すように、彼はヤヨイの額に頬ずりをした。


「以前、一番大きな気持ちはなんだ、と訊いた。覚えているか」

「……あ、ああ、はい」

 ランドボルグを脱走した日のことだ。騎士団の宿舎の前で、悲壮な空気に包まれながら。そして、なにも答えられないヤヨイにそれならいい、と王子は言ったのだ。果たしてヤヨイの顔には、なんと書いてあったのか。それを見て王子はひどく甘い眼差しを向けた。いまと同じように。

 いま? いまのヤヨイは、どんな気持ちでいる?


 自分の胸に問いかける。そして飛び出た結論と現在の状況が、驚くほどぴったりと合致したとき、ヤヨイは内心叫び声を上げた。ちょびっとくらいは本当に叫んだかもしれない。

 真っ先に浮かんだ、その答えはこうだ。

 ――あなたに触れたいです。

 差し伸べた手を拒まれず、触れたことを喜ばれたい。

 誰が見ていようと関係ない、と抱きしめてほしい。そうしてあなたがそれを求めるから、という顔で、ちゃっかりあなたを抱きしめたい。私のほうがよりあなたを想っているとは、気づかれたくない。ズルイかもしれない。でも、それでも。


 なんということだろう、トレースしたようにいまの気持ちときっちり同じだ。こんなはしたない気持ちが、あの時にはすでに王子にバレていたのかと思えば、恥ずかしさのあまり死にたくなる。

(う、うそ! やだ!)

 半泣きで反射的に立ち上がろうとした腰が、ぐっと抱きしめられる。

「こら、逃げるな」

 面白そうに笑った王子が憎らしくて、でもそんな顔も似合う、なんて場違いにときめく自分がバカっぽくて、平和で、まさに望みどおりのシチュエーションに舞い上がりそうになる。


 しかしそれで終わらないのが、グレイヴだ。ヤヨイの王子様は、必ずどこかに悲壮感を漂わせているのがお約束なのである。

 しばしの間を挟んだ彼は、さらりと髪を流しながら首を傾け、ヤヨイの顔を覗き込んだ。

「おまえも俺を望んでくれているのかもしれない、いつかは隣にいてくれるようになるかもしれない、そう思えたから俺は、いまここにいられる。……自分のすべきことを、すべきように成し遂げられたんだ」

 そうして綺麗な顔に浮かべた、消えそうに儚い微笑。

 王子はヤヨイの目をまっすぐに見つめた。癖なのだろう、と軽く考えていたそれが、いまはひどくうれしかった。また、見つめてもらえるのだと。


 ヤヨイは熱くなった頰を隠すようにうつむき、お返しに言葉を差し出した。

「難しいことは、よく、わからないですけど……王子がそう言ってくれるの、嬉しいです。わたし、王子が好きって言ってくれたから、ここで……この世界で、ちゃんと生きようって思えました。だれか一人でも、わたしだけを必要としてくれてるんだって、それがすごく幸せだって思って」

 それからぎこちなく顔を上げ、王子の瞳を見つめ返した。

「王子がいたから、頑張って生きていける気がします」

 王子は驚いたようで、でも嬉しそうで、複雑な表情だった。


 思えばこんな風に、ゆっくり話をするのは初めてかもしれない。慌ただしかった二人の時間を思い返し、ヤヨイはおかしくなって笑った。笑えることが、こんな日がきたことが、嬉しかった。

「好きです」

 そして気づけば、気持ちが口からこぼれ落ちていた。

「……ヤヨイ……」

 今度こそ、王子の顔が驚き一色に染まる。

 照れくさかったが、それすらも嬉しい。


「わたしを好きになってくれて、ありがとう。わたしを気にかけてくれて、会いにきてくれて、チョコレートをくれて、ありがとう。わたしも王子のこと、好きです。いつか……王子のお嫁さんに、してください」

 それから、呆然とする王子の頰にキスをした。

 やってやった! やり切った!

 達成感に一人興奮していたヤヨイは、気づていない。

 不意打ちでやり切られてしまった相手が、自分をどんな目で見ていたかなど。




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