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over again  作者: れもすけ
第八章
46/48

〜 ジェイル 〜




 ランドボルグの王城には、小さな湯殿がいくつかあった。オージェルム王としては珍しく浪費家だった三代前の王が『外』真似の風呂道楽で、様々な趣向を凝らした湯殿を城のあちらこちらに拵えたからだ。

 湯に浸かるのは心地いい。しかし木桶の型ならともかく、石組みの大きな湯船に湯を張るには人手もいるし、大量の水を沸かすとなれば薪もいる。締まり屋の現王がそんな無駄遣いを許すはずもなく、現在使用可能になっているのは北側の一カ所のみだ。


 だが今回の騒動の褒美として、ジェイルが使用許可を要求したのは東の大きな建物だった。清掃が手間という理由で閉鎖されていた、『外』でいうところの「露天風呂」である。

 仕度ができたと女官が告げ、ジェイルはいそいそと下層への階段を下りた。途中、湯殿の方角から暖かそうな湯気が立ち上っているのが見えて、胸が弾む。

 夕陽の名残が斜めに差し込む湯に浸かり、疲れた身体を浮かべたらどれほど気持ちがいいだろう。普段、警備隊の狭くて暗い湯殿を借りているジェイルだったが、大きな風呂を独り占めだと大喜びで飛び込んだ脱衣場で、見知った顔を見つけて落胆した。


 がっしりとした首から肩、背中の筋肉はなだらかでもくっきりと盛り上がり、男が脱ぎかけた下衣の中へと続く。そのあちこちに刻まれた様々な形と大きさの傷痕が、まるで鮮やかな装飾のように見えるのはなぜだろうか。

 男は薄汚れた服を丸めながら振り返り、淡い灰色の目で笑った。

「よぉ、ジル。久しぶりだな」

「……やあ」

 明るく発せられたディージズの声に、ジェイルは頭をがりがりとかきながら彼に歩み寄る。首を斜めに曲げて睨み上げるが、親愛なる従兄殿は順調に衣服を脱ぎ捨て続け、一人でゆっくり湯を堪能したいという自分の望みが潰えたことを悟った。


 仕事や調べ物をするときも、食事や睡眠をとるときだってだれかの気配は煩わしい。ましてや素っ裸になる場所でなど。

 けれど時がいまで、相手がこの男ならば仕方がない。今回のことは、彼の存在なくして上手く納めることはできなかったのだから。

 あらゆる不満を溜め息に乗せて吐き出して、ジェイルは自分も着ているものを脱ぎ始めた。文句の一つも口にしなかったジェイルをおかしそうに見やり、ディージズは湯殿に入って行く。

 大柄な従兄の後を追うようにして浸かった湯は、その水量のため張り始めて時間が経っているのか若干ぬるめだ。それでも冷えた肌にまとわりつく水の感触は最高に気持ちがよくて、手足を伸ばせば自然と咽喉の奥から呻きにも似た声が洩れた。


 これほどの量の水に浸かるという機会はそうそうなく、気を抜くと尻が浮いて来てしまい、はじめはなんとか腰だけ落とそうと努力してみたが、そのうち面倒になってジェイルは仰向けに湯に浮いた。西の彼方に落ちかかる夕陽に照らされ、紺色に染まり始めた空に緋色の筋を描いているのが美しい。

「なかなかのモンだな。おまえはそれ、使う機会なんてあるのか」

 ふと気づけば、ディージズの声が頭の上から聞こえる。浮かんだまま首をそらすと、彼の視線はジェイルの顔や上半身を素通りして、半ば湯に沈む局部に注がれていた。


「どこ見てるのさ。言っておくけど、法に触れるようなお誘いならお断りだよ」

「男も悪くはないんだろうが、俺は女専門だ」

 ふっと笑ったディージズの大きな手が、ジェイルの頭をぐっと押し上げて、はずみで尻が湯船の底につく。水を吸って重くなった髪を振り、ジェイルは彼と向かい合うようにして座り直した。

「女の中でも、娼婦専門でしょ」

 さらりと投げつけた振りをして、ジェイルは薄闇に光る灰色の瞳を見つめる。

「残念ながら、な」

 苦笑したディージズが嘘を吐いていないことを察して安堵し、それから急に腹が立った。なぜ自分がこんな下世話な会話までして、ディージズがヤヨイに手を出していないことを確かめなければならないのだ。


 首筋にまとわりつく細い毛を煩わしく思いながら、ジェイルは半眼で従兄を見やった。

「それにしても、君の忠誠心には頭が下がるね。闘技会を蹴ってまで、親父殿の呼び出しに応じたって? 飯の種そっちのけの君と違って、他の二人ときたら、忙しいからまた今度って手紙を寄越したっきりだっていうのに」

「陛下からの御文に応じないっつう選択なんざ、あるわけないだろ」

 答えたディージズはからりと笑い、なにを馬鹿なと言わんばかりに肩をすくめる。

 目の前にいるこの男は街から街への旅暮らしだからいざ知らず、後の二人は城に子飼いの数人は潜ませているだろうから、王の呼び出しがヤヨイに関わることだとわかっていただろう。面倒を避けたのだ。

 王がランドボルグに召喚したという大公の息子たちは三人、そのいずれもが独身かつ妻帯するにふさわしい年齢だ。ジェイルはこの件を後から知って、親父殿の残酷さにため息をついた。末息子が熱烈に懸想する女に、わざわざ血縁者の男をあてがうような真似をしなくても、と。


 いや――、ジェイルはふと、ディージズの胸に刻まれた傷跡を睨みながら眉をひそめた。

 そこに切ない親心がないと、どうして自分に言い切れる? これから困難に立ち向かう若い末息子はそれに打ち克つことができないかもしれないし、ヤヨイは彼を愛さないかもしれないし、三人の甥たちに誘惑されてよろめくような女になど偏屈で頑固で面倒な末息子を任せることはできないと、そう――。

「…………」

 ジェイルは思考を停止させ、首を回したり肩を揉んだりと湯を堪能する男を眺める。見たいわけではないが、他に見るものもないし、人は目の前に動くものがあるとつい見てしまうものなのだ。ましてこの男の体には、一見の価値があると認めるに吝かでない。


 馬鹿馬鹿しい。あのクソ親父に、そんな親切心があるものか。

 ディージズが召喚状を受け取ったのは、おそらく二つ前の闘技会があった街。そこからランドボルグまで数日として、その頃はまだグレイヴに具体的な「指示」は降りていなかった。

 どう考えても、能無しの『外』の娘に適当な飼い主を見つけて押し付ける腹づもりだったに違いない。周囲がどう受け取ろうと、ヤヨイが相手との間にあるものを恋愛感情以外の何物でもないと信じれば、ヒロもアサヌマも手は出せない。

 ヤヨイにしてみれば大迷惑の大きなお世話だったことだろう。身の回りのすべてを面倒見てもらうという柵があったにせよ、急すぎる展開だった。しかし、王の側にしてみれば、今を逃すわけにもいかなかった。

 叔父は何年も何年もかけて謀反の計画を温めていたし、兄である――少なくとも公式には、兄である王も彼を同じだけの日々注意深く見つめていたのだ。


「陛下の御心をはかることはできんが、まあ、発破としちゃ悪くなかっただろ」

 ジェイルの沈黙をどうとったか、目を伏せてかすかに苦笑する従兄に我に返った。グレイヴのことか。

「他の二人が相手じゃあ、自ら退くか侮りが勝つ。だが、俺なら」

「君なら? 勝ち負けじゃなく、とにかく咬みついていくって? そうだろうね」

 王の第三子とドランヴァイル大公の第二子は、従兄弟同士でありながらひどく不仲である。ランドボルグに伺候する者なら誰でも知る事実だ。しかし正確には互いに不仲なわけではなく、グレイヴが一方的にディージズを嫌っているのである。


 幼い頃はそうではなかった。グレイヴは大柄で陽気で頼もしい従兄を慕っていたし、ディージズも彼を弟のように可愛がっていた。その関係を一変させたのは、ディージズが成人し、母大公の籍から外れる許しを得に王のもとを訪れた、十年ほど前の日の出来事だ。

 当時、既にグレイヴは騎士団の中で叔父の手によって育てられていた。そこには近衛騎士だったガルムもおり、むしろ彼の方がより父親代わりの役目を担っていたのかもしれないとジェイルは思う。


 イゼの技を学び、叔父やガルムと親しく交わり、グレイヴを舐めるように可愛がっていたディージズ。王族に連なる母の籍から抜けるということは、新たな籍を求めるということ。オージェルムには、彼のように、高貴な血を持ちながらも群れから離れなければならなかった若者を、親しい年上が子や孫に次ぐ立場として――つまり家族として受け入れる慣習がある。

 ――イゼは高齢過ぎた。

 ――叔父は独身の王族だ。

 

「……グレイヴは、ガルムのことが大好きだったからね」

 実の父より、実の兄より、ずっとずっとガルムのことが。

 成人のあかつきには、家族になってくれると頭から信じて疑いもしないくらい。

「ああ……そうだな」

 苦笑、というにはあまりにも痛々しく微笑んで、ディージズは首を巡らせて空を見上げた。

 ディージズ・クヴァーン。彼の一番新しい家族の名は、ガルム・クヴァーン。


 いかに王の覚えめでたきガルムであったとしても、ディージズとグレイヴの二人を引き受けることはできない。ただでさえ当時の彼は、王弟である叔父ととても親しかったのだ、王の血をかき集めてどうしたい、と疑われることは必至。ガルムの立場ではグレイヴ一人でも手に余ったのかもしれない。とするなら最初から、グレイヴがガルムの家族になることはできなかったのだ。

 そしてディージズにもディージズなりの事情があった。

 ドランヴァイルは貧しい――彼はどうしても、『ガルム・クヴァーンの被後見人』という肩書きが必要だった。年下の従弟が焦がれた庇護の翼を横取りしてでも。ディージズはまだランドボルグを離れられず、そんな彼のために、六年前、ガルムもまた因縁深いこの城を出てはいかなかったのだ。

 あの頃のグレイヴがそういう込み入った事情を理解していたかどうかは不明だし、ガルムの対応は彼への贖罪の意味もあったのではないかと思うのだが――幼い彼の受けた衝撃はどれほどだったことだろう。


 グレイヴの美しい濃褐色の髪が、眼裏に思い浮かぶ。厳しい横顔は、多分兄弟の中で一番父王に似ているというのに、煌く金髪の家族に囲まれていつも居心地悪そうにしていた。

 グレイヴを家族から排斥したのは、ジェイルたちではない。オージェルムという国そのものだ。金髪の王族を尊ぶ空気、前時代的で意味のない思い込みだ。

 王の子だからという理由で、家族の中に居場所を見つけられずに苦しんだ弟。王の子だからという理由で、幼い心のすべてをあずけていた相手に選ばれなかった弟。

 挙句、同じ理由で身に覚えのない陰謀の生贄にされそうになり、潔白を証明するために首謀者を――血の繋がった叔父を斬り殺すしかなかったなんて。


「――――」

 可哀想に、と口に出しかけて、唇を噛む。彼の得られなかったものを持って生まれた自分には、彼に同情する権利などない。いつだって大した問題じゃないと笑い飛ばしてやりたかったが、それは傲慢に過ぎるだろう。

 本当は誰よりも甘えたがりだったのに、頼るべき大人に恵まれなかった子ども。

 愛されることに飢え、愛することに焦がれ疲れた小さな弟。でも、ガルムに選ばれたディージズを憎み切ることもできない。グレイヴのあれは、羨望と憧憬の裏返しだ。

「……あの子を、ゆるしてやってよ」

 だからつい、こんな台詞が口をついてしまうのだ。

「俺は、あいつが可愛いよ」

 わかっているから、ディージズは笑ってそう答えるのだ。


 ほのかな湯気の立ち上り続ける湯殿が、やけに湿っぽくてジェイルは鼻に皺を寄せる。そしてこの従兄とこんな話をしている自分に腹が立ってきて、湯の表面をバシャンと叩いた。

「あのさぁ、前から聞きたかったんだけど!」

 強引に話を変えようとするあまり、必要以上に大きな声が出てしまった。ディージズが目を丸くするのも面白くなく、ジェイルは唇を尖らせながら湯の外に出る。少しのぼせてきた。まったく、この従兄と話をするのは疲れてならない。

「君、まだ剣闘士を続ける気? 常勝無敗の伝説でいるうちに引退したほうが、格好いいんじゃない?」

 暗にそろそろ負ける頃合いだろうと揶揄すれば、ディージズは思いがけず真剣な表情で顎をつまんだ。


「そうだよなぁ、ここらが引き際かもしれんよなぁ」

「え、本気?」

 自分から突っかかっておいて、あまりにあっさりと頷かれてジェイルのほうが驚いた。

「兄貴は子どもを作る気がないらしい。つうか……もしかしたら、できないのかもしれん」

「ああ……」

 ディージズの兄は、若いうちに嫁をもらって所帯を持った。もう十年ほどになる。子どもが一人もないというのは、確かにできにくい夫婦なのかもしれない。それでも嫁と離縁しないのは、愛情があるからか。

 だがそれでは、周囲が黙っていないのではなかろうか。


 ジェイルの考えたことがわかったのか、ディージズは憂鬱そうにため息をつく。

「お袋がな……孫の顔を見ないうちに死ぬのは嫌だと大騒ぎだ」

「まぁ、そうだろうね」

 ジェイルは脳裏に、背が高く骨格のたくましい伯母の姿を思い描く。兄の方はともかくとして、ディージズは間違いなく伯母似だ。感情表現が豊かで、だれの子だろうと子どもが好きで、頭の中がちょっとどうかしてるのではと思うくらい、公私をはっきりと分ける人。


 可愛い可愛いと子どもを抱きしめて顔中に口づけを降らせても、その子の親が罪を犯せば次の瞬間容赦なく斬首刑を言い渡せる女。もしも叔父に子どもがいたなら、可哀想だけど仕方ないわね、と父親に連座させたことだろう。

 功は功、罪は罪。

 厳しい領地経営を余儀なくされるドランヴァイルの大公として、あれほどふさわしい傑物もない。おつむではなくその素質だけならば、ディージズだって十分だが……いかんせん、オージェルムの大公は一代限りの非世襲制だ。

「伯母上もご苦労なさるね」

「あれを苦労と呼んで労うのは、納得いかんがな」

 ジェイルの苦笑を取り違えたか、ディージズは渋面を崩さない。


 剣闘士というのは表の顔で――というにはあまりに派手な活躍ぶりだが――、ディージズの本業は王の密偵である。

 本人がそれほど大仰な仕事を頂いているわけではないと言い張る所以は、どこかの領地でいざこざが起きれば傭兵の顔で儲けに走り、ついでに「偶然目にした」内部の状況を母の弟に話しているだけ、というところだ。相手がたまたま国王だったとしても、彼らが叔父と甥であることにかわりはない。

 伯母が嫌っているのは、そういう不安定な立場のほうだ。だが結婚の件もあながち表向きの理由とばかりはいえないだろう。

 長男は高い税を払いながら子をなさない嫁を離縁せず、次男は実家にろくろく顔も出さない放蕩者ときている。仮にも王の実姉で大公位を預かる身としては、もう少し模範的に生きてみろと説教したくもなるだろう。

 孫の顔が見たいだなんて、彼女の抵抗としてはささやか過ぎて同情を禁じえない。


(ま、そこを突かれると僕も苦しいんだけどね)

 湯に濡れて腕にまとわりつく髪をつまんで、ジェイルは庇の向こうの夕焼けを静かに眺めた。

 ジェイルは恋愛にあまり興味がない。その先にあるのは結婚で、結婚とは家同士の結びつきや血統を残すためにある制度だ。たかがそれだけのことなのに、恋をする人間はすぐに視野狭窄に陥り、愚かしく目を覆いたくなる失態を繰り返す。純粋で打算のない気持ちは、それだけに悪意ある者から利用されやすいとミツエの件で思い知った。

 いつか結婚はしよう。妻を迎え、子をなし、彼らを守ることに異議はない。けれどそこにひたむきな愛情や、燃え上がるような恋の演出も不要だ。

 自分の立場にふさわしい女を見つけたら、周囲が納得する最低限の体裁を整えて妻に据える。それでいい。……子どもは、もう少し可愛がって育てようと父親を見ていて思うのだけれど。


 相手の女が、ジェイルの背後になにを見ていてもかまわない。だがそれに媚びたり笠に着たがる女もごめんだし、逆にしたり顔で余計な口出しをされても腹が立つ。だからといって、好戦的でおしゃべりなジェイルと会話が成立しないほど従順な女もありえない。

 要はいまのところ、ジェイルに女をそばに置く気がまったくないということだ。

 隣でまだ悩んでいるディージズの様子に、自分もあと三年もしたら、考えるくらいはするようになるのかね、と他人事のように思った。

 愛されたがりの弟は、無事に可愛い娘の心を射止めたようだ。あの娘もグレイヴに負けず劣らずの不器用さだから、さて本当に無事と言っていいものやら疑わしいところだが、グレイヴの方できっとどうにかするだろう。


 かつて三倍の税を毎年払ってでも独身を貫くと公言していたガルムは、ほんの数ヶ月をともにしただけでミツエを妻にする決意を固めた。彼の望みは叔父の手によって最悪の結末で踏みにじられ、永遠に叶うことはなかったが、それでもミツエとの恋を幸せな思い出にできるのだろうか。

 愛した人を失うというのは、どういう出来事なのだろう――それ以前に、だれかひとりを心から愛し求めるということの意味は、一体なんなのか。

 ちらりとディージズを盗み見る。少なくとも、愛することにも愛されることにも不慣れな弟よりは、彼の方がガルムの慰めにはなったことだろう。


「…………」

 少し冷えた身体を再び湯に沈め、浮かび流れる金の髪を手繰り寄せて腕に抱えた。

 ジェイルの重く苦しい六年は、今日で終わる。グレイヴの心に新たな傷をつけ、魂に枷を嵌めて。だが決着の形がどうであれ、政治的にはすべてつつがなく始末がついた。ドムファナもスウェンバックもアルガンダワも、しばらく耳に入れたくない。

 ミツエを悪人に仕立て、ガルムを意気地なしと罵った騎士団も、己の蒙昧さに気づいてかわるだろう。『外』の者たちを遠巻きにする空気も霧散し、これからはきっとよい方向に物事は転がり出すにちがいない。


 我ながら無理のある楽観的予測に内心で苦笑し、一生のうちで一度くらい、そんな日があってもいいではないかと思い直してみる。

 そう、一生に一度のこんな日は、いまは亡きガルムの恋人に杯を捧げてもゆるされるかもしれない。未熟で臆病だった己を恥じ、謝りたいと願い続けてきたことを打ち明けて。

 らしくない感傷だ。自嘲の気持ちはあとからあとから涌いて出る。ジェイルはほろ苦く歪む笑みを、睫毛の縁を濡らす涙を、顔をそむけてディージズから隠した。


 そして祈るのだ。

 失意と孤独と絶望の裡に自ら命を絶たねばならなかったミツエのために――なによりこれからを生きるガルムのために、穢された彼女の名誉を取り戻し、人々の中に朗らかな笑顔の記憶だけが甦ることを。






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