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軽く閉じた唇をなにかにノックされ、咄嗟に薄く開いた隙間からそれが入り込んできた。王子の舌だ、と気づいたら猛烈に驚いて、自分がひどく淫らなことをしているような気がして愕然とした。
凍りついて硬直するヤヨイの舌は小さく竦んでしまったが、王子はかまうことなく熱い舌でヤヨイを誘う。先をこすりあわせ、時折裏側を舐め上げるようにして。
(そそ、そんな、そんな……っ!)
頭の中で、ひたすら「あわわわ」とエンドレスな声が遠くなり近くなり、一人ドップラー効果になるころには、完全に酸欠になっていた。
上着の袷をつかむ手は力が入ってぶるぶるふるえ、がくん、と力の抜けた膝が折れる。だが背中に回された王子の腕に支えられ、ゆっくりとへたりこむ間もキスがほどけることはなかった。
「は――んぅ……っ」
やめたい、と伝えるために、ヤヨイは顎を引いて逃げた。家族団欒の時間、テレビの洋画でありがちな気まずいシーンに聞こえたのと同じ、やけに湿った音がする。しかも自分の口元からだ。
斜めに深く咬み合わさっていた唇は離れ、ヤヨイは木の根元にぺたんと座り込んだ。視界が狭まって頭がくらくらして、後ろ手に触れた木に寄りかかって呆然と目を閉じた。
全力疾走してきたひとが、耳元ではあはあと息を荒くしている。と思ったらそれは自分の呼吸で、不足した酸素を必死で体内に取り込んでいた。
濡れてひんやりとした唇が寒くて、無意識に手の甲でぬぐった。その指先は熱湯につけたように熱く、じんじんと痺れていた。
なにが起きたのか、即座に日常に戻りたいがどうすればいいのか、ヤヨイはとにかく、滲んだ涙で貼りついた瞼を押し上げた。そしてすぐそこ、くにゃくにゃになった両脚をまたいで屈む王子を見つけて、目の裏が痛くなるほど赤くなった。気絶しそうだった。
困ってしまって、なにか言うべきなのか、どうすればいいのかわからなくてベソをかいていたら不意に目の前が暗くなり、ヤヨイは朦朧としたまま顔を上げた。
わずかな光を遮るように、ヤヨイの前に跪いた王子が頬に唇を寄せてくる。恥ずかしくてたまらなくて、目をぎゅっとつぶって首をすくめた。かたかたとふるえる唇が、いま教えられたばかりのやわらかな熱に覆われる。
土の上に膝立ちになった王子は、ヤヨイの頬を両手で包み、上向かせて固定した。
そのなにかを決意したような力強さに、まさかと血の気を下げる暇もない。
猫が脛にすり寄るように、王子は唇を合わせてくる。それが自分の唇より少し薄いことを、そして唇が想像もしないほど敏感であることを、あむ、と食まれ、そっとこすり合わせられ、思い知った。
もうお手上げです、と完全に思考や意思決定を放棄した頭が、優しいキスを味わい始める。嫌いじゃない。気持ちいい。逃がさないと雄弁に語る大きな掌が、ヤヨイしか見えないと訴える唇に食べられてしまいそうな感覚が。
時折唇をずらしてヤヨイに呼吸のための短い休憩を与えながら、キスは続いた。中に入られるのは怖かったけれど、これは好きだ。唇を触れ合わせるだけでも、なんてたくさん方法があるのだろう。
油断したヤヨイの緊張が薄れたのを察した王子は、再びするっと舌先を忍ばせてきた。途端にドクンと心臓が立てた音は、だが意外にも彼を拒めという命令ではなかった。
びくっとふるえて身体を強張らせるヤヨイの頬から、王子がゆっくりと手をすべらせる。顎のラインを撫で、首筋を包み、肩へとたどり着いた両手が背中に回ってヤヨイを胸に抱き寄せる。
唇で唇を押しつぶしながら深く深く口内に潜り込んできた王子は、さっきのように手加減はしなかった。ぎくっとするほど奥まで口蓋を舐められ、無遠慮に凹凸をたどるくすぐったさに声が出そうだ。
自分の中で他人が自由に動いている。違和感や嫌悪感よりも、不思議で、そうされて嬉しいと感じるのがなぜかわからない。王子も同じように感じるのだろうか。知りたいけれどいまは受け止めるのが精いっぱいで、無意識に鼻で小刻みな呼吸をせわしなく繰り返した。
マンガの演出で刷り込まれた印象のようには、ぬるっとした感じではない。うっすらと唾液をまとったそれはなめらかで、力を抜いて委ねてしまえば舌の表面を撫でられるのも心地よかった。
ヤヨイは羞恥と動揺にどうしようもなく顎をふるわせ、それでも拒むまいと必死になるけれど、あんまり執拗に舌を探られて半泣きになり、押し返そうとしたら王子が笑った。融けて混ざってしまいそうに輪郭を失っていた唇が、吊り上がったのがわかったのだ。
王子の片手が後頭部に添えられ、ぴったりと背をつけていた木の幹からヤヨイの身体を浮かす。そのまま伸び上がるように反らされた背中を逆の手が支え、覆いかぶさって降るキスがはっきりと色をかえた。
貪られる。ヤヨイの唇を、舌を食べ尽くして、なおも求められる。
本能みたいなものが察知したそれは、しかし安易に許可してはならないものだ。火で炙られたように熱くなっていた身体が、芯からすっと冷えて力技で理性を引き戻す。
なにより苦しかった。抑制された呼吸も強いられた体勢も、濃密な触れ合いに慣れていない気持ちも、限界。
ヤヨイは顔をしかめ、さまよった指先が触れた王子の上着をつかんで揺すり、接着剤でも塗ったようにぴたっとくっつく唇を振り払った。
「も、やめ……くるし……っ」
今だとばかりに叫んだ声はか細かったが、王子はちゃんと聞きとってくれた。
あえかな音を立てて最後にひとつキスをして、ゆっくりとヤヨイを解放する。名残惜しげにこつんと額を合わせ、ほうっと息をついた。
「……すまなかった」
一瞬、あんなことをして、という謝罪かと思ったがちがった。親指でヤヨイの唇を拭いながら、王子は口元に苦笑を閃かせる。
「おまえを悩ませるつもりはなかったんだ。だが少し……気弱になっていた」
なんのことか思い出すまでに数拍の間を挟み、ヤヨイは目を伏せた。ゲランや他のひとがどうの、と理由をつけて、ヤヨイと距離を置こうとしたことだ。時間にして数分前のことだろうに、ひどく昔のことように感じた。
「俺は……」
上目で見やると、王子は目を閉じていた。躊躇うように言いよどみ、離した額にそっと唇で触れてくる。
「……たとえ独りきりでも、前に進む。でもおまえがそばにいてくれるなら――」
そんなところで喋られた経験はなくて、くすぐったさと気恥ずかしさに身を揉みながらもじっと耳を澄ました。堪えかねたように抱き寄せられても、おとなしくしていた。
「おまえがいればいい、俺は、おまえがいれば……それでいいんだ」
「王、子……」
繰り返す声は静かだったけれど、ヤヨイは彼が必死で縋りついているように感じた。
王子は欲しがっているのだ。彼を拒まず、ずっと一緒にいるという、ヤヨイからの約束を。
簡単なことじゃない。いまここにいるという事実をとってみても、ヤヨイ自ら引き起こした問題が背後に山積みになっている証拠だ。まずアサヌマに会って、ヒロに相談して、王様に謝って――。
けれど頭で考えるより、心は素直だった。
ヤヨイがそこにいることを確かめ続ける王子の背に、ヤヨイの手は迷うことなく触れた。掌に上等な布の感触を覚えれば、もっとしっかり、たくさん王子を感じたくなる。
ヤヨイは広い背中に回した腕に力を込めた。わずかに王子の力が緩んだのが不満で、背骨をたどるようにして手の位置を上げ、指先が王子のうなじを見つけた。
目を閉じて、ヤヨイはふっと笑った。腰にしがみつくのでなく、腕を上げて抱き返したのは初めてだ。こうするとまるでヤヨイのほうが王子を抱きしめているみたいだった。顔も自然と上向いて、王子の鎖骨に耳から首筋をあてる格好になっていた。
まるで物語のよう、ヤヨイは思った。
彼が王子だからではない。自分が見知らぬ場所へ流れ着いた異邦人だからでもない。
いつか大人になったら、普通に結婚して普通の家庭を築く、そうはるか先の未来は思い描けても、その過程にあるはずの恋愛はよくわからなかった。周りのみんなが頬を染め、目を潤ませて夢中になっているようなものに、出会える日がくるとは思えなかったのだ。
なのに気づいたら、自分には縁がないとぼんやりあきらめていた、その真っ只中に彼と二人で溺れている。
ヤヨイを好きだと言ってくれるひとがいて、そばにいてくれるだけでいいのだとかき口説く。そしてヤヨイは、そんな彼を愛しく感じる。
ぎゅうっと胸が熱くなって、とまっていた涙がまたもこぼれた。
なんだか急にからっぽだったところが満たされたみたいで、抱きしめてくれる腕が、抱き返すことをゆるされている指先が、幸せで、幸せだと思えることが嬉しくて、いまようやくヤヨイはこの世界で本当に、生きてもいいのだと心から思った。
ヒロは、だれかの存在は生きていくために不可欠なのだと言った。ヤヨイの中に欠けていた「だれか」に、王子がなってくれるのだ。
だから。
「……ぅ……っ」
こらえきれなかった嗚咽が、咽喉の奥からひっそりともれる。かすかにしゃくりあげる音に気づいたのか、そっと離れようとした王子に強くしがみついて首を振った。
「ヤヨイ……?」
気遣わしげな囁きに泣き濡れた顔を上げる。淡い影の中、色味を増した紫紺の瞳がヤヨイを見つめていた。
ヤヨイは王子の肩に顎を押し当てるようにして、もう一度彼を抱きしめた。同じくらい強く抱き返してくれるのが嬉しくて、ずっとこうしていたいと思う。
明るく笑うジェナと寄り添うヒロが羨ましかった。人々の尊敬を集めるアサヌマさんが、ガルム室長に愛されたナガヌマさんが、本当はとても羨ましかった。役に立つ人材であろうと努力したのは、ただ、だれかに必要とされたかったからだ。
ここで生きろと、おまえが必要なのだと、だれかに――。
「……王子」
胸の中にあふれ返る幸福感とはかけ離れたかすれた声で呼びかけると、王子は先を促すように顎先でヤヨイの耳をくすぐった。
「わたし、きっとめんどくさい。いろいろ……わからないことだらけだし、人づきあいも苦手だし、なにもかも……うまくやる自信、全然ない」
ふるえる咽喉を抑え、途切れ途切れに話すヤヨイの顔を、王子が覗き込んでくる。眉を寄せ、口元を少し緊張に引き結んで。
「だから、わたしがそばにいても、王子にいいことなんかひとつも」
「おまえは――俺がおまえを利用する気でいると思っているのか!?」
絞った声音に滲んでいるのは、怒りだった。
ヤヨイは話を遮られたことにも、その剣幕にも、利用という言葉にも驚いた。息を飲んで目を瞠り、あっと思い出す。
そういえば、王様が『外』のひとを手厚く庇護するのは、なにかで国に貢献することを期待されているからだった。
ヤヨイは青ざめ、ますます申し訳ない気持ちでうつむいた。
「ご、ごめんなさい……」
「謝るな」
すっと目を伏せそむけられた横顔は、傷ついて見えた。誤解させてしまったと、ヤヨイはいまにも遠ざかりそうな王子の背をつかむ手に力を込める。
「ちがうんです、ちがうの! わたしに、利用するほどの価値なんてない。王子のそばにいて、王子の役に立てることなんか思いつかない、邪魔になっちゃうだけかもしれない! でも……ッ」
これはヤヨイのわがままだ。
ヒロのように、アサヌマさんのように、ナガヤマさんのように――隣にいるひとが誇りに思うようなパートナーには、ヤヨイはなれないだろう。少なくともいま、ヤヨイの手にはなにもない。これからなにかを得られるという確証もない。
わかっているけれど、息を殺してヤヨイの言葉を待つ王子に、言わずにはいられなかった。
「……でも、そばにいたい。絶対迷惑、かけちゃうのに……」
ヤヨイは自分がひどく図々しいことを言っているのだと、じわじわと自己嫌悪に苛まれ始めた。先にダメなところを列挙して、王子にそれでもいいと言わせようとしているのだ。こんな状況で、じゃあこの話はなかったことに、なんて、王子が言えるわけないと承知で。
ずるい。なんて卑しい奴だと思われた。恥ずかしくなって、ヤヨイはぎこちなく腕を下げた。
つられたように王子はいきなり身を離し、ヤヨイの両の二の腕をつかんでまっすぐに視線を合わせてくる。その眼差しの強さに怯んだ。
「迷惑だろうが禍だろうが、おまえがもたらすものはすべて俺のものだ。なにもかもすべて――おまえが、ゆるしてくれるなら」
俺のものだ。繰り返す声はささやかで、端整な顔が泣き笑いに歪んで、ヤヨイの呼吸がとまりそうになる。
否定しなかった。ヤヨイがそばにいることで面倒が起き得る可能性を、王子は否定してはくれなかった。
けれど、それも含めたヤヨイの未来を全部、引き受けてくれるというのだ。
「……ッ」
呼吸はとまってしまった。胸が詰まって、うまく息が吸えない。ヤヨイは王子の手を振り払うようにして、彼の首に腕を回して抱きついた。
だれかに寄りかかりたくて、できなくて、なによりもつらかったのは自分が孤独であると認めることだった。でも風に舞うビニール袋のようなヤヨイを、王子が捉まえてくれた。
追い詰められた最後の瞬間、両親は手を取り合って最期の道を逝った。最後まで、絶対の味方と認めていたのはお互いの存在だけだった。娘の入る隙間すらなく。
そんなふうに、王子はヤヨイの手を真っ先に掴んでくれるのだろうか。死の瞬間ですら離れがたいと。
家族の愛は信じられなくなっていた。男女の愛は知らなかった。これから先、このひとと覚えていけるのなら。そんな未来が、あるのなら。
(ひとりじゃない……もう、ひとりだと思わなくていいんだ……!)
水の底から眺めるように滲んでぼやけて、王子の肩越し、青く澄んで高い高い空がある。
いつも見上げていた。なにもかもが元いた場所とちがうこの国で、空だけは同じに見えた。けれどもう、同じじゃなくてもいい。たとえ太陽が二つあっても、月が三つあったとしても、怖がることはないのだ。
あの崖で終わったはずの命に、もう一度生きる意味を与えられた日。ここが自分の居場所だと、心から信じられた今日。
この空を一生忘れない、ヤヨイはそう予感した。きっとこれから何度も何度も、思い出す。広くて、あたたかくて、ヤヨイにいっぱいの幸せを感じさせてくれるひとの胸で受け取った想いとともに、くりかえし――何度でも。




